日本 プロライフ ムーブメント

医者、慈悲、生命を奪うこと

ジョーゼフ・スターリンはかつて、死が全てを解決すると言いました。死は、きたならしさやあいまいさ、優柔不断や疑惑、苦しみや苦痛を終わらせます。しかしそれは繁栄をもたらす人間のすべての素晴らしい面も一緒に終わらせてしまうのです。 

死の議論

死はここ数年の間、人々の議論の大きな部分を占めてきました。少なくとも、ひとつにはこのことは計画された死、つまり意図された死のほうが、不確かでしばしば苦しみを我慢しながらの死よりも人によっては良い選択肢であるかもしれないと主張してきた熱狂的な集団が原因です。安楽死運動は、自殺幇助を人間的でこの世を去る安らかな方法だというイメージを抱かせるような表現を用いて、多くの人々にそのことについて考えさせるようにしてきたのです。 

医者として

主として、貧しくて十分な治療が受けられない患者と関わっている医者として、また自殺幇助に反対する者として、私は最も弱い患者の公民権と幸福を脅かす運動の高まりを見つめ、ますます恐ろしくなってきたのです。かつては医学倫理の周辺的な要素だと考えられてきたものが、今では新たに前向きにとらえられるようになってきて、かつては罪と考えられタブーとされてきたこと、つまり罪のない人間を意図的に殺すことがほとんど当たり前のことになったということを危倶しています。学会も映画も本までもが全て、医者が自殺の共犯者だと言う考え方を認め広めているのです。 

新しい言葉を使い境界線をあいまいにすること

どうしてこのような事態になったのでしょうか。どうして善良な市民が、医者が患者の自殺を助けることを本気で容認するような時点に至ったのでしょうか。少なくともその答えの一つは、言葉の混乱、つまり尊厳死について以前議論された時の言葉や表現を安楽死運動が取り入れて成功を収めたことにあると私は思います。このように言葉を意図的に混乱させることが、医学的に介入して末期患者の避けられない死を妨げないことと、公然と患者を殺すこととの非常に重要な違いをあいまいなものにしてしまったのです。 

医学界にいる私達の多くは、医師が(この件に関しては他の誰であっても)意図的に患者を殺すことには全く反対ではありますが、延命医療の中止を求める患者の要求に従うことが適切であるばかりでなく、絶対に必要な時があることも確信しています。このような考え方の一部は、ここ20年の間に生じた世論から生まれたものです。その世論とは、医療技術の応用は科学技術の適切な使用とは同じではないというものです。 

「尊厳死」(もっと良い言葉が無いのでこの言葉を使用しますが)に対する要求は、一つには、人工呼吸器のような科学技術の使用に対して拒否の明確な意思表示をしている患者、または回復の見込みがほとんど無く延命医療が避けられない差し迫った死を遅らせるための一時しのぎの行為にすぎなくなった患者に対しての、異常なまでの、実りのない医療技術の使用に対する反発から生まれたのです。だから、表面的には、人々は、その科学技術の成果を望んでいない、あるいは疑わない患者に一方的に押しつけるように思われる医療体制を信用しなくなったのです。 

しかし、20年以上もの延命医療に関する議論が、かなり最近まで自殺幇助の容認を押し止めてきたということに注目することは重要なことです。実際、法律に関係のあるものであっても、ないものであっても、初期論評の多くは、延命医療を中止することは安楽死とは違うということを指摘することに一生懸命に努めたのでした。延命医療の中止は患者の自由と尊厳を守る行為であり、患者の看護と安らぎを関心の中心に据える、より堅固な倫理への回帰だったのです。安楽死は、どんなに善意に基づくものであっても、どんなに取り繕っても殺人だったのです。 

しかしながら、私達の全く気がつかないうちに、安楽死運動はこれらの同じ主張を全く違った目的のために利用してしまったのです。患者の自由は今では、いくら善意に解釈しても悲劇的で本質的に個人的な行為、つまり自殺において公共機関である医業を利用する許可証となっているのです。最初はそのままにしておいてほしい、安らかな死を認めてほしいという要望だったものが、死を患者が自由に決めるべきだという要求になっているのです。 

さらに、患者の尊厳まで同様に奇妙な変化をとげています。従って、尊厳死を可能にすることは時には人が人を殺すこと、あるいは、私達が尊厳ある死に方をして欲しいと思う患者の自殺を可能にすることを意味することがあります。皮肉なことに、患者達は今、医者の手によって時期尚早の死に直面しているのです。 

同意は諸悪を除去する

この傾向は根本的に間違ったモデルから生まれています。このモデルによれば、医者と患者の関係の基本は契約、社会に一般的にある契約と同じものなのです。医者と患者は、基本的に品物とサービスを交換する全くの他人なのです。つまり一方が医学的な知識や技術を提供し、もう一方がお金を提供するのです。こうなると、患者と医者との出会いは、取引の様相を呈し始めるのです。実際、いわゆる「医療消費者運動」の高まりと医者がこのような考え方を医療に当てはめ、さらには奨励しようとする意欲が患者を依頼人に変えるのです。 

多くの人々がこのことを医者と患者の関係の進化における進歩だと考えていますが、それはいくら好意的に見ても長所と短所を合わせ持ったものなのです。医者と患者の間に生じる関係が、たとえば、中古車の販売の仕方と同じモデルによって言い表わすことができると言うことは医業の本質を全く見失っています。そのモデルは医者であること自体が、彼らの公的活動が純粋な商売とは違う医者という職業の本質を示している事実を無視しているのです。医業の本質とは、医者の力や技術の目的は患者の健康の回復と維持であるということなのです。 

医業はその活動の範囲を制限することによって、さらに自らの立場を明らかにしています。このことは責任ある医者が追求しないことがいくらかあることを意味しています。たとえば、新たにガンと診断された患者に、どんなに心から要求されても効果のない薬を処方することは医者の関与すべき領域を逸脱したことになるでしょう。 

患者にそのような要求をする能力があることが想定され、そういう要求をすることを強制されはしないということに注目してください。言い換えれば、患者は今ではほとんど馬鹿げたほどに契約モデルの超最低限の基準を満たしているだけなのです。つまり医者だけしかできない仕事のために、その意志のある医者を雇う、同意する能力を持った消費者なのです。しかしながら、患者にそのような意志があっても、また特定の医者が積極的にそのような医療を行なおうとしても、そのような要求に負けることは医業と医業の果たすべき目標、すなわち患者の健康を裏切ることになります。同意自体は医業に反した活動に従事する十分な許可を与えるものではありません。同意には魔法の力は全く無く、行為の本質を変えることはできません。同意は、それ自体基本的に間違っているものを正しくすることはできないのです。 

言い換えれば、もし医者が消費者の要求を満たす商人にすぎないならば、(少なくとも表面上はそのような行為に対する要求は確かにあるのですが)、そのような行為のブレーキとなるのは、そのような行為を提供する医者の気持ちと、患者の要求と、自殺幇助を監視するために法治国家が選択するあらゆる法律だけでしょう。 

使用と乱用と奈落への道

上記の言葉は奇妙な響きがしますが、それはまさに私達が現在いるところなのです。私達は多かれ少なかれ、社会全体として、安楽死はある状況下においては良いものであるかもしれないという可能性を少なくとも受け入れてきました。私達が決めるべきことは、その安楽死をいかにうまく規制するかであると言われています。したがって、安楽死への医者の関与を犯罪としないために提案された立法措置の大部分はその手続き上のこと、つまりその有効な要求の内容はどういうものか、誰がその要求通りに実行してよいのか、それをどう文書に記録するのか等を扱ったものです。 

私の研究からそのような正確さは達成できない、そして最終の分析では本当には必要とされていないという結論に達しました。形式的には禁止されているけれども、安楽死が容認されているオランダにおける安楽死に関する私の調査では、最も良い状況下であっても、安楽死はすぐに全く違ったものになってしまうことがわかっています。オランダで私が調査した26の実際の臨床例のうちの4例において、患者が自分たちの死に同意する能力がなかったことが明らかになりました。 

ある臨床例においては、ダウン症の生後2日の子どもが両親の暗黙の了解を得て医者によって殺されました。別の臨床例においては、患者は重度の脳卒中をおこし、同意することができませんでした。医者はやはり安楽死させることを選択しました。その理由は、医者の言葉を言い換えれば、患者はきっとこのような状態で生きたくはなかっただろうということでした。 

安楽死運動はずっとオランダを「慈悲深い安楽死」のモデルとしてきました。だから、私が当初調査結果を発表した時、人々は信じませんでした。結局私はこの件についての一観察者にすぎず、私が報告した臨床例は比較的少なかったからでした。しかしながら、最近オランダ人みずから私の調査結果と同様の調査結果を認めました。実際オランダの調査結果はもっと憂慮すべきものなのです。 

レムリンク報告書はオランダにおける安楽死を再調査し、自分の意志によるのではない安楽死の実例を記録しています。ランセット誌の一九九一年九月十四日版の著しく私の報告書に同調的な記事の中で、自分の意志に基づいていない安楽死の少数の例が確認されています。その記事はさらに、この明らかな殺人を「大部分の患者は決断を強要されたのではない」と言って、正当化しています。 

しかしながら、この報告には、都合よく他の約千例の自分の意志に基づかない安楽死が全く除外されています。これらは「人生の終結に関する決定の手引き」の基準に合っていないので、ランセット誌に発表された調査結果から除かれたのでした。これらの患者の中には、死を早めるために大量の(当然のことですが致死量の)睡眠薬を与えられたものもありました。彼らは、患者の同意がなかったので安楽死の基準を満たしていなかったのです。しかしこのようなごまかしをしても結果は変わることはないのです。つまりそのようにしてもやはり患者は死に、医者は道徳的な罪を犯しているのです。(このような奇妙な時代においては、そのようにすれば医者が訴追されずにすむかも知れませんが。) 

もし歴史が何かの手本になれば(普通はそうなのですが)、どんなにそっとであっても社会から押し出されるのは最も抵抗できないもの、つまり弱いもの、精神的に障害を持ったもの、蔑視されたもの、無視されたものたちになるでしょう。社会の底辺部にいる人びとは耐えず虐待と不正の危険にさらされているのです。彼らは社会によって全くなくてもよいものと見なされているのです。しかしながら、彼らは私たちが最も気に掛けるべき人たちであり、またこの安楽死という悪い発想の行為がもっともひどい影響を与えるであろう人たちなのです。 

安楽死運動が目指すものに反対の立場を取る私たちは、苦痛をともなう死があることを認めるべきです。私たちはまたそのことに、死がせまった患者の看護をすることは彼らをすぐ殺してしまうより難しく費用もかかること、そして死がせまった患者の看護をするという仕事は、長年の間、非常にスタッフ不足で低い評価を受けてきたことを付け加えるべきです。しかし私たちは死を求める声に騙されてはいけないし、またその声がますます高まっていることに気落ちしてもいけません。 

私たちは、苦痛の緩和や終末期医療の最近の著しい進歩に注目しながらも、医療システムの欠点をはっきりと正直に認めなければなりません。私たちは、死を迎えつつある人びとばかりでなく、そのような人びとの看護に日夜あたっている人びとの励みの源ともならなければなりません。 

最後に私たちはしかるべき時の肉体の死は全てを解決するけれども、殺人は何も解決しないことに同意するべきです。そして私たちはその違いを理解すべきなのです。 

Gomez, Carlos F (カルロス・F・ゴメス)
医学博士
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