日本 プロライフ ムーブメント

勇気の使徒職メンバーのあかし

四旬節が近づき、私は自分の霊的生活で改善すべき点のリストを作っています。直すべき所がいろいろありますが、 今ある自分に心は喜びで満たされます。Courageのメンバー、Encourage(励まし)の支援者としての役割 、祈りの生活、小教区の活動のおかげで、キリスト者としての良い、健全な、貞潔な生活を送ることができています。 

以前からずっとそうだったわけではありません! 22歳のとき、 修道士として誓願を立てる前に修練院を去った頃でした。私は最初の性的出会いにいやおうなく引きずり込まれました。 私は切羽詰っていました。良心の呵責にもかかわらず、この新しい世界を探求したいと思いました。 自分の感情的欲求への答えになると思ったのです。私はびくびくした子どものような、孤独で内気な若者でした。 セックスの機会を求めるようになりましたが、実際は「ぴったりの男(ひと)」を探し求めていたのです。自分の父、母、 恋人、慰めてくれて、熱烈な味方になってくれる人です。最初の体験から6年後、そのような人に出会えたと思いました。 私たちには共通の友人たち、出入りする場所、所属する団体、劇場があり、 私が後にそこの牧師になったある教会にも一緒に行くようになりました。このような生活は、私が必死に求めていた注目や 、人に認めてもらうことを追求できるライフスタイルでした。 

「ゲイ」の人々の多くは、このような長く続く関係を夢見ています。私の場合は21年続きました。実に多くの人が「 ぴったりの人」を探していますが、見つからないのです。しかし、たとえ夢の世界を見つけたとしても、ピーター・ パン症候群を増長させているにすぎません。そのような関係は愛情深く、不安がないように感じるかもしれませんが、 決して人を成長させるものではありません。感情面の成長がなく、そのため、嘘なのです。事実を直視しましょう。 このようなことは、決して神のみ旨ではありませんでした。真の身体的、補完的な一致がないのです。 

「どうしてそんなに長くその生活を続けたの?」と聞く人がいるかもしれません。酷な現実として、 同性愛のライフスタイルに入るとその虜(とりこ)になってしまうということがあります。その状態からの解放は、 時に一生の闘いになります。世間は、そのような自分の気持ちを受け入れて“ありのままの健康的な生き方” をすればいいと言うことがあります。それこそ大きな嘘です。聖パウロは自分の肉に刺さったとげのことを書いています。 パウロは自ら手本を示して、誘惑に負けないようにと私たちに言います。11年前、聖書の放蕩息子のように、 私は正気に戻り、神の恵みによってそれ以来、貞潔な生活をしています。聖霊が私の人生に介入されたのです。 

いつか必ず訪れることをわかっていたし、私はそれを恐れていました。“パートナー”のレオが死に、 自分が独り取り残されることです。レオは80歳になるところで、私は50歳の誕生日を祝ったばかりでした。 私は彼を愛していましたし、これからも愛し続けるでしょう。毎日彼のために祈っています。 私が牧師をしていた教会が解散してなくなったので、私たちはキリスト一致教会に入りました。 それは形而上学的な思想の教会で、“ゲイ”の教会から最終的にローマ・カトリック教会へ立ち返るまで、 私にとって橋渡しのような所になりました。この教会の人たちは、レオが病気になる前も、なってからも私たちを受け入れ 、励ましてくれました。そして、若い頃の信仰と貞潔の生活に戻るという私の究極的な選択を受け入れてくれました。 

1988年の5月の間中、レオは病院で死へと向かっていました。一致教会のさまざまななぐさめの言葉をかけ、 彼を励ましていると、25年以上も唱えていなかったある祈りが浮かんできました。メモラーレ( 聖ベルナルドの聖母の保護を求める祈り「あわれみの御母」)です。だいたい唱えられましたが、 最後の言葉が思い出せませんでした。後になって、レオの病室を出て駐車場で車の方へ歩きながら、 その最後の部分を思い出しました。私が取り戻したのは、「ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、 御あわれみをたれて、これを聴き給え、これを聴き容れ給え。アーメン」という祈りの言葉だけではありませんでした。 もう何年も自分の人生から閉め出していたマリア、その聖母マリアが戻って来られ、私を御子の前へ連れ戻しました。 その夜、ロザリオを探し出し、“家路”に向かう道を歩きはじめました。それは5月13日、 ファティマで聖母が最初に出現された記念日でした。   

数日後、ムリリョの複製の絵が床に音を立てて落ちました。 幼子イエスと幼い洗礼者ヨハネが一緒にパンを食べている場面を描いたものです。それは秘跡を私に思い起こさせました。 その夕方、病院でレオを見舞いながら、司祭に来てもらっていないと思いました。レオは元々、 カトリックの環境で育ったのですが、今は一致教会のメンバーになっていたのです。 看護師が病院付きの司祭を呼んでくれました。しばらく説得した後で、レオは病者の塗油を受けました。 私は司祭に手短に自分の人生について話しました。司祭は、住んでいるところの小教区の神父に会いに行くよう、 私に勧めました。その教会は、聖霊教会というぴったりの名前でした。 

5月31日の夜遅く、聖母訪問の祝日にレオは息をひきとりました。その帰りに、信号で長く待たされたときです。 小さな声が言いました。「ジム、君は自由だ。今、君は何でもできる。」次の日の夜、聖霊教会の司祭と話すことができ、 彼は、私を秘跡から遠ざけるものは何もないと言ってくれました。司祭は、私の23年ぶりの告解を聞いてくれました。 私にとって心を揺さぶられる時間でした。親友を失いましたが、なくしていた宝物を取り戻したのです。 それはカトリック教会でした。教会に私を連れ戻したのはキリストです。パートナーの死に先立つ一連の出来事の中で、 ご自分の母の働きと、聖霊の力によって。 

聖霊の力は、絶えず私を新たな地平へと前進させてくれました。1989年、足を骨折して療養していたとき、 ベネディクト・グローシェルBenedict Groeschel神父が書いた『つまずきの石と踏み石Stumbling Blocks & Stepping Stones』という本を読みました。その中で、Courage(Courage Apostolate勇気の使徒職)について触れられていて、この団体についてもっと調べてみようと思いました。 9年前、初めて会合に参加し、それ以来、積極的に活動しています。これまでの間、多くの男性、 女性が苦闘の歩みを共にしてくれました。何人かの人たちとは、親しい、貞潔な、健全な友情を育むことができ、 そのおかげで私のイエスとのきずなも深まりました。 

この5月31日、私はある在俗会の会員として誓願を立てました。会員として、私は世間にとどまりながら、 Courageやそのほかの使徒職を通してイエスのメッセージを人々と分かち合うことができます。私は、 愛深く私を心にかけ、すべてをゆるしてくださるイエスを示され、 イエスは平和と喜びの新たな高みへ私を導いてくださいました。これは、私を裁かずに、 囲いの中に再び迎え入れてくれた教会の贈りものです。

Jim B (ジム ビー) 
カトリック生活 2012年2月号掲載 
翻訳者 佐倉 泉 
英語原文 The Courage Apostolate Home Page 
Copyright ©2012.9.29.許可を得て複製