日本 プロライフ ムーブメント

体外受精

サイモン・ジェンキンスは、タイム誌に掲載された記事で次のように述べている。「体外受精は、何百万という人々に希望をもたらしている。」「選択の自由を提供することで人々に幸福をもたらすことが科学の存在理由である。」胎児、死体、年長児から「ドナー」卵子の問題に関するレポートについて予想通り一部のM.P.から意見が寄せられているが、サイモン・ジェンキンスは、彼自身「反動主義者たちが感じている畏怖の念に当惑している」ことを認めている。 

生殖技術において「選択の自由」を尊重するサイモン・ジェンキンスの考えを支持する人は多い。「選択の自由」がこれほど頑強に擁護されている分野はヒトの生殖分野をおいて他にないだろう。子育てに関しては、親の権利を無制限に認めるべきではないというのが一般的な意見だが、生殖補助を通じて子どもを作ることへの制約は、生殖の権利に対する侵害であると主張する少数派が増えている。生殖補助に規制を加えるのは当然とする大多数の中にさえも、分別さえ失わなければ体外受精は、本当は悪意のない行為であると主張する人も出てくるだろう。 

自然生殖と体外受精の間には大きな差がある。体外受精の場合、両親は子どもを作る行為を共に行う必要がない。受精は、子どもに決して会うことはないであろう人物によって行われる。出産は、誕生した子どもの出自、すなわち誕生した子どもがあらゆる意味でその子を出産した母親とその生涯のパートナーとの子どもであることを公に示す出来事ではなくなる。子どもを作るという試みは、その子どもあるいはもう一方の親に対する永続的なコミットメントの証になるとは限らない。それどころか、一切のコミットメントを伴わない行動にも受け取ることができる。 

自然生殖

親になるための「自然な」方法は多々あるが、それらに大差はない。「人工的」という理由ではなく、親子関係の歪曲であるという理由で体外受精を否定する人々は、親子関係をゆがめるであろう他の方法にも否定的な態度を示すと考えられる。体外受精は、一晩だけの関係といった責任を伴わないセックスによる妊娠への賛同からではなく、もっと別の方法で子どもを持つべきだという考えから否定されているからである。 

自然生殖の場合、夫婦の行為の結果として子どもができる。不本意な不妊に悩むカップルにおいても、夫婦の行為には尊厳が認められる。夫婦の行為は、結婚生活においてお互いの自由意志に基づいて行われるコミットメントであり、夫婦の意思による献身のひとつである。性交に際し、夫婦は妊娠を意図していることもあればそうでないこともある。どちらの場合でも、避妊は行われず、子どもができれば夫婦はそれを歓迎する。受精を促すための技術を利用することは、子どもを持つために夫婦の行為を支援することにはなるだろうが、それに代わるものではない。子どもが宿った場合、それは製造行為の結果としてではなく、夫婦の献身に対して神から与えられた贈り物ということになる。 

製造

体外受精は、自然生殖により子どもを得ることとは大きく異なっている。体外受精では、夫婦の献身的行為ではなく、生物学的物質の回収や組み合わせといった製造過程により受精が行われる。この製造過程の成果に対し夫婦が愛情を示したとしても、その過程自体が変わるわけではない。人為的な関与がある以上、体外受精児は、物を製造する場合と同様、体外物質に技術的なコントロールを加えて作られた産物と言える。したがって、物がそれを造った人によって管理されるように、体外受精児が、その存在の基になった製造過程をコントロールした人物によって物のように扱われたとしても不思議ではない。 

胚芽

体外受精児が、少なくともその生命の初期において物として扱われているという主張には、十分な根拠がある。体外受精用の胚芽の多くは、出産まで育成されるどころか母親の胎内に移植されることさえなく、その代わりに「余剰」であったり損傷を受けたりしていれば廃棄されるか、途中で死んでしまう危険があるにも関わらず凍結される、あるいは破壊的な実験に利用されているのが現状である。ドナーや体外受精を依頼し、その為に精子や卵子を提供した親が、形成された胚芽の多くが辿る運命について心配することはない。体外受精を希望する親の大半は、無条件にその子孫を受け入れようとは考えていない。事実、ある調査では、その90%超が胚芽を自分たちの所有物であると考えていることが判明した。もちろん、少数ではあるが、「余剰」胚芽の形成を拒み、胚芽をすべて母体に移植するよう依頼する親もいることは事実である。自分たちの子どもを無条件に受け入れようとする彼らの考えは立派であるが、体外受精という非人間的なシステムは、親たちがこうした考えを持つことを困難にしている。 

胚芽は子どもではないのだから子どもと同じように扱う必要はないと反対意見を唱える人がいるかもしれない。しかしながら、精神を持つ個体ではなくてもヒトという生物をヒトと呼ぶならば、ヒトの始まりはヒトという生物の起源にまで遡ることができる。すなわち、ほとんどの場合において、その起源を両親の配偶子が融合した時点と考えることができる。ただし、一卵性双生児の場合はもっと後の無性生殖が起源となる。ヒトを包括的かつ非二元的な視点から捉えると、精神は肉体の「いのちの本源」と考えられ、ヒトとしての魂なくしてヒトの肉体は存在しないということになる。ヒトの肉体が存在するということは、すなわち意思と権利を持ったヒトが存在することを意味する。言い換えると、いのちあるヒトやヒトの肉体を、人間以下のものとして非道徳的に扱うことはできないのである。 

不妊のカップル

不妊のカップルに対し、世間から大きな同情が寄せられていることは確かである。特に注目されるのは、不妊による心理的な苦悩である。しかしながら、強い精神的プレッシャーなどの苦悩を受けることで、不妊のカップルが、そのプレッシャーさえなかったら、自らが道徳的に容認しなかったであろう行為に追い込まれていることはあまり知られていない。こうした精神的プレッシャーにも関わらず、不妊カップルの中には、体外受精などの不妊治療を受けることを拒む人たちもいる。彼らは、道徳的に認められる方法での受胎、あるいは養子縁組により子どもを持ちたいと考えている。中には、子どものいない人生を受け入れ、その痛みを克服しようと決意する人たちもいる。彼らの多くは、子どもへの敬意や子どもを作る行為の尊厳が守られる方法によって子どもを持ちたいという理由から体外受精を拒んでいる。

 

Watt, Helen (ワット・ヘレン)
The Linacre Centre
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net
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2003.8.25.許可を得て複製