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人間は神を知ることができるか?

前回見たように、人間は神に向けて造られているから、多くの人が神を信じて生きていると思われる。しかし、物質文明華やかな現代は神を信じて生きることの難しい世の中でもある。現代人は果たして神を知ることができるのか。 

いつものように、カトリック教会のカテキズムに従って考察を進めよう。 カテキズムは神の知識に近づくための道について次のように述べる。 

「神の似姿に造られ、神を知り愛するように招かれた人間は、神を探すとき、神の知識に近づくためのいくつかの“道” を発見する。これらの道を人は“神の存在証明”とも呼ぶが、それは、自然科学が求める証明の意味ではなく、真の確実性に到達することを可能にする“同じ方向を示す説得力のある論証”の意味においてである。 神に近づくためのこれらの“道”の出発点は被造物、すなわち物質界と人間である」(n.31)。 

まず、物質界を通して神を知ることができるとして、カテキズムは言う。 

「世界、すなわち、世界の運動や生成、偶発性、秩序、そして美から出発して、宇宙の起源かつ目的としての神を知ることができる」(n.32)。 

カテキズムはここで聖パウロと聖アウグスチノを次のように引用する。 

聖パウロは異邦人についてこう述べる。「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかです。 神がそれを明らかに示されたのです。神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、宇宙創造の時から 、造られた物を通して明らかに悟ることができます」(ローマ1,19-20)。 

聖アウグスチノは言う。「大地の美を問い、海の美を問い、膨らみ吹き抜ける風の美を問い、天空の美を問い、(…) これらすべてを問いなさい。すべてはあなたに答えるでしょう“見なさい、わたしたちは美しいのです”と。 それらの美は一種の宣言(告白)です。変化するこれらの美は、変化することのない永遠の美(Pulcher美しい方) 以外のだれが造りえたでしょう」(説教241,2)。 

次に、カテキズムは人間を通して神を知ることができるとして述べる。 

「人間、すなわち、人間の真理や善への傾向、その道徳的善の感覚、その自由や良心の声、その永遠性や幸福へのあこがれを通して、人間は神の存在について自問する。これらすべてを通して、人間は霊魂のしるしを読みとる。“人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することができない”( 現代世界憲章18)。その魂は神のうちにしかその起源を持つことができないのである」(n.33)。 

「自然界と人間存在は、その第一原理やその究極の目的が、自分の中にではなく、初めもなく終わりもなく自立する存在者の中にあることを証明している。このように、これらの多様な“道”によって、人間はすべての存在の第一原因であり究極の目的であり、“すべての者が神と呼ぶ”(聖トマス・アクイナス) 実在の認識に至ることができる」(n.34)。 

「人間の能力は、人間が位格神(訳者註・ペルソナとしての神)の存在を認識することを可能にする。しかし、人間が神との親密な関係に入ることができるようにと、神は人間に自らを啓示し、信仰をもってこの啓示を受け入れる恩恵(能力)を与えようと望まれた。それにしても、神の存在証明は、人間の心を信仰に向けて準備させ、信仰が人間理性に反するものではないことを示す助けとなることができる」(n.35)。 

「“わたしたちの母である聖なる教会は、人間理性の自然的な光により、創造された事物から出発して、 万物の起源であり目的である神を確実に知ることができると主張し、教えている”(第一バチカン公会議)。この能力なしに、人間は神の啓示を受け入れることはできない。人間はその能力をもっている。なぜなら、人間は“ 神の似姿”(創世記1,26参照)に造られたからである」(n.36)。 

ここで、第2バチカン公会議の言葉が思い出される。 

「人間は熱心に才能を働かせて、諸世紀を通して実証科学、技術、芸術を発展させた。現代においてはとりわけ物質界の研究と支配に関して素晴らしい成果を治めた。 しかし人間は常にもっと深い真理を求めたし、また発見した。事実、人間の知恵は現象の観察だけに限定されているのではなく、真の確信をもって実在の認識に到達することができる」( 現代世界憲章15)。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
糸永真一司教のカトリック時評
2013年10月10日掲載
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