日本 プロライフ ムーブメント

「ハンセン病回復者の闘いと祈り」   すべてのわざには時がある

はじめに 好善社 理事長 棟居 勇

1996年『らい予防法』が廃止されました。1998年「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」が熊本で提訴され、 2001年原告勝訴の判決。国の控訴断念によって長くハンセン病の故に苦しんできた元患者の方たちに「人間回復の春」 が訪れました。その春をほんとうの春にするために「ハンセン病問題に関する検証会議」が組織され、 2年5ヶ月を費やして2005年3月「報告書」が纏められました。ハンセン病問題の解決はむしろこれからであることを 「報告書」は明らかにしています。 

その間、ハンセン病療養所をめぐる内外の環境は急速に変化し始め、亡くなる人も多く、 年々の入所者数の減少が顕著になっています。 

そうした中で2005年7月、私ども好善社は例年の「ハンセン病を正しく理解する講演会」を開催し、 関東では全療協事務局長神美知宏さん、関西では星塚敬愛園入所者玉城しげさんに、講演をお願いしました。 神さんの講演は、「検証会議」の作業の成果を踏まえ、今後解決されねばならない緊急の課題を明らかにし、 強く訴える内容のものでした。玉城さんの講演は、「予防法」の下で一人の患者が実際に体験したことの貴重な証言です。 国の政策によって設けられた「厚い壁」によって市民が知り得なかった苛酷な日々が語られ、聴衆の心を揺さぶりました。 

私たちは、このお二人の講演を当日講演会に来ることができた人々だけに止めてはならないと思い、 一人でも多くの方々に読んでいただきたいと願い、二つの講演をそれぞれ小冊子にまとめました。 

読めば読むほど、自分自身に問われる責任の故に、身の引き締まるような思いがします。どうか、 一人でも多くの方がこれを読んでくださって、ハンセン病を病んだ元患者の方たちに「厚い壁」 の向こうで私たちがこれまで強いてきた苦難を知り、社会の差別・偏見問題を解消し、元患者の方たちが「人間回復」 を真に現実のものとすることができるように、互いに努めたいと切に願うものです。 

ハンセン病回復者の闘いと祈り

すべてのわざには時がある

ご紹介にあずかりました玉城しげと申します。星塚敬愛園に入所して66年になります。 この66年の間にどのようなことがあったかを、1時間で話すことはとてもむずかしいことですけれども、 どのようにして星塚に来るようになったか、それから戦時中の星塚のこと、そして裁判に立ち上がったことを、 かいつまんでお話したいと思います。どうかしばらくの間、話を聞いてくださいますようにお願いいたします。 

私は今年87歳になりました。ほんとうに気の遠くなるようなことで、まさか、今まで生きて、 皆さんとこのようなお話をするなどということは、夢にも思ったことがありません。今日、 皆さんの前でこのようなお話をさせていただくことは、この年をとった老婆にとって、 ほんとうに生涯の幸せだと感謝しております。神様に生かされたこの喜びの恵みの時を、 どうか皆さんお聞きくださいますようにお願いいたします。 

◇ 沖縄で発病

私は沖縄県の出身です。13歳の時にこの病気になりまして、7年間、家で父母そして親戚のみんなからかわいがられて、 病気の治療に励んでまいりました。私は幸いなことに、病気になっても祖父母・父母の庇護のもとで何の心配もなく過ごし 、作ってもらったハンセン病の丸薬を飲んで、病気はすっかりよくなりました。勉強したかったけれども、 学校に行くこともできませんでした。20歳になるまで私は家で普通の生活をしてきました。 

そうした時に沖縄に愛楽園という療養所ができまして、沖縄県の病者が全部収容されるようになり、そのことが毎日、 新聞に載るようになりました。その新聞を読みながら、自分はもう病気は治っているから安心と思っておりましたところ、 思いがけず検診にひっかかってしまいました。 

いったんこの病気になると、自然と世の中に知られてしまうということにほんとうに驚きました。そしてその結果私は、「 療養所に行きなさい」と言われました。「家で治療しているので、その必要はありません。病気は治っています」。 そう言っても、しつこく私を検診して、あっちこっちを触って、どうだこうだと言うのです。「あなたは、 まだ病気が治っていない。初期だからすぐ治ります。3ヵ月したら帰れるから」と言うのです。「 私はもう7年も薬を飲んでいて、病気はもう治ってます。行く必要はありません」と答えました。検診に来た方が、「 沖縄の療養所に入りたくなかったら、鹿児島の療養所を紹介しますから、あちらに行ったらいいですよ」と言いましたけど 、私はどこに行こうとそんなの信用しなかったのです。  

◇ 鹿児島からの1通の手紙

その方が帰って間もなく、鹿児島の星塚敬愛園の林文雄という名前でお手紙をもらいました。その手紙には、「 あなたはまだ病気が初期で2、3ヵ月したら治るだろうということを聞きましたので、星塚敬愛園に来なさい。 星塚敬愛園は、あなたたちのような若い人たちの家が作ってある。そしてそこでは勉強をはじめ、 いろんなことができるから、1日も早く来たほうがいい。今、満員だけれども、 あなたが来ればすぐに入れてあげられますから、大歓迎だ」というようなすごい内容のお手紙でした。 

何でこのようなことを私に書いてくるんだろうと思いました。私は行かなくてもいいと思ってましたので、 返事を書きました。「このような手紙を書いてもらっては困ります。もう2度と手紙をよこさないでください」と。すると 、その返事が着いたと思われるやすぐまた速達が来ました。今度は、 きれいなパンフレットの中に手紙がいっぱい入っていて、歯の浮くようなすごく親切なやさしいお手紙でした。 

私は半信半疑で、それでも親に言うことができない。こんないい所があるんだったら、こっそり行ってみようかな、 鹿児島ってどんな所だろう。20歳になる世間知らずの小娘が、好奇心にかられて、私はその手紙を持って、 親にも誰にも言わずに内緒で勝手に鹿児島に出てきました。   

◇ そこは収容所だった

鹿児島に来るとすぐに、敬愛園っていう所は、園長先生の書いたものとは全く違って、私はそこに地獄を見ました。 入った途端に、私が持ってきた着物もお金もみんな取り上げられて、薬の臭いのする風呂に入れとか、そして、 私の持ってきたお金も預かる、着てきたものも全部、それこそ下駄から持ってきた傘、 そして小さな着替えの入ったトランクまで、みんな消毒に持っていかれました。あくる日それは戻ってきましたけれども、 トランクはゆがんで鍵も閉まらないような具合になっていました。 

そして私がお金を取りに行きましたら、茶色のブリキのお金を2円50銭私の前に広げて見せて、「 今日からあなたはこの2円50銭が1ヵ月の小遣いだ。それ以上は使うことはできません」。私は、「 預けたお金の預り証をください」と言いましたら、「それはできない」と言うのです。 

そして、私の目の前に四角い半紙に書いたものを置いたんです。「これ何ですか」と言ったら、「読んだら分かる」 って言うのです。解剖をしてよい、火葬をしてよい、規則に反した者は、軽いもので1日、重いもので3日、 その罪によって時には1週間も監禁室に入らなければならないと書いてありました。園の規則でした。「 これは敬愛園の規則だ。ここに判を押しなさい」。私が「判は持ってきておりません」って言ったら、「 それなら親指で判を押せ」、「いやそんなことできません」と言い合いました。 

また「名前を変えなさい」ということも言われました。何でこんなことをしなければならないのか、 園長という方の手紙とは全く違っている。そんなことは書いてありませんでした、とんでもないことだ、 と私はその職員に対して、いちいち口答えしたんです。そんなことはしてはいけないと後で聞かされましたけれども、 その時は何も知らないものですから、納得できないことは納得できない、言うことを聞くわけにはいかない。 私はここへ来て、こんな事があるということを知りませんでした。 ここの園長先生はそんなことを書いていませんでしたので、「私は名前も変えません」と言いました。「 何も悪いことをしてないのに何でここに来て名前を変えなければならないのですか。私は変えません」。「 あなたのお父さんお母さんが心配しますよ」と言いますので、「治療に来ているのにどうして心配するのですか」 と言いました。私は親に黙って出てきたので、そのことを心配するという意味かと思ったのです。そこで、「私は父親に、 家族に、自分でちゃんと手紙を書きますから、変えなくていいです。手紙を書きますから心配要りません」という具合です 。 

まあその場は済みましたけれども、その後も私は何べんも事務所に呼ばれていろいろ言われました。 言われる度に私は言い返しました。そしてそのあとは足もガタガタしてものを言うこともできませんでした。 ちょうどその時に、沖縄の徳田佑という方で、私たちは、おじさん、おじさんって後で呼んでましたけれども、 そのおじさんに私は事務所に呼ばれました。「あなた、沖縄から来て、 ここに沖縄の人がいるっていうことを知らなかったの?」って言うので、「知りませんでした。 そんなことは何も知らずに園長先生の手紙と紹介状をもらって来ました。こういうことは何も知りませんでした」 と答えました。「あなたは大変なことを事務所で言いましたね」と言われたので、大変なことって何だろうと思いましたら 、「あんたここの園長先生はうそつきだ。ここは地獄だ。ここは刑務所だ、と言ったでしょう?」と言うのです。私は「 言いました」と答えました。おじさんはびっくりして、そういうことはここで言ってはいけない。 ここでそんなことを言ったら、あなたは帰ることもできないよ。しばらくはここで我慢しなければ帰ることはできない」と 、こんこんと言われまして、その時初めて、このおじさんから園内の事を聞きました。 

そしてそのおじさんが、「今日からここでみんなと同じように園の規則に従って、 黙々と職員の言うように働いた方がいいよ。看護婦さんの手伝いをして、 そしていつかすきがあったら帰るようにしてあげるから、2、3ヵ月辛抱しなさい」と言いました。私はその通り、 ああそうだったかと思って、素直に聞いて、看護婦さんの手伝いをしました。看護婦さんの手伝いをやったら、 なんとかできるようになりました。 

けれどもその頃から、だんだん、だんだん大変な事になっていきました。私が敬愛園に入った時は昭和14年、 西暦で1939年ですか。それより前、ちょうど私が小学校を卒業して女学校に行く頃から、日本は満州事変、 支那事変とだんだん、だんだん戦争、戦争で、日本は戦争の大変な国になっておりました。 

◇ 病状を悪化させた労働

私が入った昭和14年は、支那事変の最中で、ちょうど敬愛園に来て間もなく、南京攻略という、日本が勝った、 勝ったと提灯行列のあった時です。園内でも提灯行列をして大変なお祝いをしました。 そのお祝いの時も赤饅頭一つずつを食べさせられました。 

そういった時代で、もう何をするにも戦争戦争で、それで何かあれば「兵隊さんはお国のために一生懸命やってるんだ。 お前たちはここに来てタダメシ食うてメソメソしたらあかん。ダメだ」と、鹿児島の言葉でどやされ、 尻叩かれながら過ごしました。 

敬愛園もまだ創立して4年しか経ってなかったものですから、園内もまだ整ってないんです。 人間の住む家だけができていて、周囲はみんなでこぼこした土地で、そこを私たち青年団が、いやいやながらも、 組に分けられて朝1時間、夕方1時間、その土地の整地を始めました。自給自足だというので、 自分の食べるものは野菜でも何でも作るように、尻たたかれ、頭たたかれして、働かされました。夏の暑い時に、 みんな手も足も血だらけにしながら、岩を運び石を運び、土を整地し、小さな小屋も取り壊して、 そこに野菜を植えるようにしました。麦なんかも植えました。 

私たち青年団は、ほんとうに1日、朝も夕方も働き、夕方などは真っ暗になるまで働かされて、 手も足もボロボロになりました。私は泣いて泣いておったら、みんなから笑われました。私は手が柔らかいもんですから、 「なんであんたの手はそんなに柔らかいのか」と言われました。「私は13歳の時に病気になって、 20歳でここに来るまで自分のお茶碗も洗ったことがない、洗濯もしたことがない、 ほうきも握ったことがない生活をしていた。ここに来たらこういうことで、私はもう手が痛くて…」。「痛い、痛い」 と泣いておったら、「泣いたら負けだよ。みんな一緒にがんばろう。そんなことだったのか」ということで、 みんなが慰めてくれました。 

12畳半の部屋に8人の乙女たちがおりました。みんな優しくしてくれまして、お互いに頑張ろう、 頑張ろうと言ってがんばりました。それでも3ヵ月たったら帰れるだろうと思っていましたけれども、帰れるどころか、 また新しい作業が始まりました。 

貞明皇后の御歌の「つれづれの友となりてもなぐさめよ」という、全国の療養所どこにでもある、 あの御歌碑を建てる土台作りです。でこぼこした所を整地し、その上に土や石を盛り土し、 人の高さくらいの所まで盛り上げて、そこに御歌碑が建てられたんです。それを何ヵ月したか、夏の間、 私が来た時期から多分10月頃までこれをやったと思います。その時の苦しさ悲しさはもうとても言うことができません。 

それが終って、これでやっと済んだなーっと思っていたら、今度は寒くなり冬になったら、 また敬愛園の山と山の間の谷を埋めて、そこに橋を作ると言うんです。青年団がまた先頭になって、 その土台作りが始まりました。その土台作りがまた寒くて冷たくて大変でした。膝まで入るような水溜りがあって、 それはどぶだったんですが、そのどぶが、氷が張ってキラキラしてるんですね。私は、 こんな所に誰がガラスを落としたんだろうか、と思って… そんなの見たことがないものですから。そして、 皆入れ入れと言うことで、ザザザザッと中に入ったら、バリバリバリと音がしたので、ガラスを踏んだら危ない、 ガラスを踏んだら大変だと思いましたら、「いや、これはガラスじゃない。氷が張ってるんだ。氷だ」って言うんです。 氷ってこんなものかと思っていたら、これぐらいの厚さの氷の中に、みんな手足を突っ込んで、下の石、 泥をその橋を作るところまで、こんな入れ物に入れて、2人ずつでかついで運ぶんです。その1時間の仕事が、 ほんとうに何時間もの仕事のように思われました。 

冬中そんなことをしました。私はその冬の間に、毎朝氷の張った所に手足を突っ込んでいたものですから、 手も足もしもやけで真っ赤になってしまいました。赤くなった所がかゆくて、かゆくて。 それでも赤いうちはまだいいんです。そのうちだんだん紫色に変わってきて、爪が、 ほんと見ている間にひとつひとつとれたんです。ほんとうに情けなくなって、泣きました。泣いたら、みんなが笑うんです 。笑いながら、「あんたはそんなになってかわいそうだ」って言うんです。「もう仕事に行きたくない」と私が言うと、「 行かなければ食事が減らされるよ。配給物がなくなるよ」とみんなは言いました。みんなに迷惑をかけてはいけないと、 出ていくだけでもいいから出て行こう、とみんなに励まされて出ましたけれども、そこに立って、 ぼやーっとしているだけで…。そういった毎日を過ごしました。 

ところが、暖かくなった時、私はもう仕事をしたくてもできなくなってしまいました。ぶっ倒れたんです。その時、 往診に来た女医さんと看護婦さんが、私の寝ている部屋に、膝まで履く白い防具くつを履いてやってきて、 その泥だらけのくつのまま、私の枕元に来て注射をしたり、脈をとったりしてくれたんです。 私はその泥ぐつを見てびっくりしました。前に、ここに来たみんなが、座敷豚だ、座敷豚だと、 職員のみんなから言われてるんだよって聞いていたけれども、ああやっぱり私たちは座敷豚なんだ、と思いました。例えば 、ご飯を取りに行くと、食事をつくる職員が、「座敷豚のご飯とりの時間になった」 と大きな声でいつも言っていましたので、座敷豚、座敷豚って、何て馬鹿にするんだろうと思っていました。ですけれども 、それが毎日の言葉ですから、みんな笑って受け取って、もう怒ることもしない。みんなそれに慣らされて、 笑って済ませていたのです。それで、慣れるってことは大変な事だ。ある人が「あんたもね、座敷豚って言われても、 このような調子だから、言われてもそれに慣れたらいけないよ」と言いました。私はそれで、ああそうかと思いながらも、 こんな所にいたらいつ死ぬか分からないと思っていました。   

◇ キリスト教と出会って 

そうした時に徳田のおじさんが、「あなたそんなに毎日泣いてばかりいたらいけない、キリスト教の勉強をしなさい」 と言いました。その頃キリスト教の集まりがあったんですね。そこに私は連れていかれました。 

行ったら沖縄の人たちばかりが、50人ばかり集まって、讃美歌を歌ったり、聖書の勉強をしたり、 イエス様の話を聞いたりしていました。金曜日の晩と日曜日の朝でした。それで来なさいって誘われて、 そのグループに入ったらとっても嬉しかったんですね。もう泣いてたってしょうがない。そこで教えられたことが、 私にとってほんとうに大きな力になりました。私はこのキリスト教の信仰を持たなければ、 とても生きることはできませんでした。 

昭和20年のあの敗戦の日まで、私は辛抱して辛抱して、信者同士の交わりに励まされ、 聖書のみ言葉に励まされて日々を過ごしました。希望を失ったらいけない、神様はあなたと共にいる。 み言葉の一つひとつが、悲しい時にはこのみ言葉が、他の時にはこのみ言葉がと、私を励ましてくださるんですね。「 山べにむかいてわれ 目をあぐ」のあの讃美歌をはじめ、いろいろな讃美歌にもほんとうに慰められ、 私は何とかして生きのびてきました。   

◇ 結婚・屈辱の堕胎

一番悲しく思ったことは、次にお話することです。私は結婚しました。 12畳半の大部屋に四組の夫婦者が仕切りも何にもない所に入れられまして、 犬猫の夫婦が閉じ込められ四隅に抱き合って暮らすような、ああいうみじめな生活を10年間やりました。 

その10年の間に、友だちみんなが、子どもができたら大変だよ、子どもができないようにしなければ、 と言うのを聞きました。子どもができなければいいんですけれども、みんな次々にできて、 子どもができた人は医局に呼び出されて堕胎です。また男の人たちはみんな断種ですね。その人たちが、 俺たちはもうおしまいになった。おい、お前たちはいつおしまいになるのかって、私たちに冗談を言うんですよ。 

私たちはそんなことはしてもらいたくない。そのうちに2人で園を出よう、 島に帰ろうっていうことを思いながら暮らしていました。主人もいつ帰ろうかと、帰るすきをうかがっていましたけれども 、戦争はだんだん激しくなり、もうとても沖縄に帰ることはできなくなりました。 

私が預けたお金、家から送ってくるお金はみんな取り上げられていましたので、私も、「お金はいくらありますか。 そのお金を返してください。家に帰ります」って言っても、「あなたはどこに帰るのか。海を歩いて帰るのか、 泳いで帰るのか」って、そういうことも言われました。それで、夫婦で泣きながら、地続きだったら夜歩いてでも帰るのに 、帰ることもできない。私の夫は奄美大島で、私は沖縄で、2人とも船に乗って帰らなければならない所です。 

それでどうにもならなくて、いつか2人で逃げよう逃げようと思いましたけれども、 そういった時に私に赤ちゃんができました。7ヵ月になるまで私は隠して、そのうちに、そのうちにと思いながらも、 隠しておりましたけれども、それがどうにもならなくなりました。 

夫が留守の間に、私は医局に呼び出されました。着の身着のまま、何の前ぶれもなく呼び出され、 何の用事かと思って行ったところが、いきなり手術場に連れていかれて、もうそこで堕胎ですね。 手も足もガタガタ震えながらも、いろんな所を縛られて、台にあがりガタガタする。そこで言われた言葉は、 今でも思い出すと、脳天と胸の中に釘を打たれた思いがします。このまま死んだほうがましだ、もうどうにもならない、 もう殺してください、と言いたい思いがしました。「ぼやぼやするな。早くその上にあがれ」 って女医さんと婦長さんに尻たたかれながらした堕胎のあの光景は、その時言われた言葉、痛みとともに、 今でも思い起こされ、これは死ぬまで忘れることができないことだと思っています。 

私は恨みましたね。いろいろ私言いました。職員の言葉、そしてその女医さん、婦長さんの言った言葉は絶対忘れられない 。この人たちは、私と同じ人間だ。この病気になったからといって、家では大事にされてきたのに、 ここに来たばっかりにこれほどまでにされるとは、私は赦すことができない。こういうことになっても、 親に言うことができないことでした。 

親からは、「早く帰って来い、早く帰って来い」という手紙が来ました。「結婚した」と言ったら、「 それなら2人で帰ってきなさい」と言われました。それでも帰ることができない。親をだまして来たうえに、 今度はまた親に嘘をつきました。「ここで結婚しましたけれども、私はここで看護婦さんの免状をもらって、 それから帰ります」って言いましたら、親は喜んで、看護婦さんの免状をもらってくるならばいいことだ、と。 明治生まれの無学な親をだましたような格好で私はきました。それが嘘だということは、親に言うこともできない。 嘘が嘘を呼んでいきました。 

◇ 父親の面会と怒り

戦争が終わり、そして昭和35年に父親が面会に来たんです。 父親はまさか私がこんな風な格好になっているとは思ってもいませんでした。今の私より17歳若いのですが、 その時70歳の父親、そして無学な父親が、鹿児島まで私を連れに来てくれたのです。 

あの時の父親の姿は忘れることができません。「ここは病院だ。療養所という所は、病院、治療をする所で、 治療する病院でこんなに病気が悪くなるなんて」。友だちみんなが、「子どもがここでは殺されるんだ」「 ここでは子どもは産むことができない」って言うものですから、父親はこのことでもまた、「 病気を悪くさせた上に子どもまで殺す。人殺しまでするような療養所っていうのは、 日本の国がそんなことをするとはどういうことか。けしからん」と。 

一徹な父親は、みんなの前で畳を叩いて怒ったんですよ。私は怖くて、 こんなことを言って職員にもし聞かれでもしたら大変なことになると思って、お父さん、 もうそんなことを言ってくれるなと思いましたけれども、父親はもうほんとうに無鉄砲にみんなの前でいろいろ言うのです 。そうしたら、みんな笑ったんですよ。笑いとばして、「お父さん、ここではそんなこと、通りませんよ。 ここには法律があって、こういうことになってるんです。ここではみんな病気は治ってるのに、 家に帰ることができないのです。国の法律のために、私たちはここから帰ることもできません」と言ったら、 父親はなおのこと腹かいた(腹を立てた)のです。 

みんなが帰ったあと、父親は、「こういうことを日本の国がするとは、一体何事か。 日本の国は立派な国だと思っているのに、なんでこの病気の人たちの法律までつくって、病気が治っても、 まだ帰すことができないとは何たることか。これは帰ったら皆に言って裁判しなければならない」って、そう言ったんです 。 

私はこの「裁判」という言葉にびっくりして、そして、もうおかしくなってですね、こんなことはここで通ることでない。 ここでは、私は何でもハイハイ言うように慣らされてきて、そうした人間にとても通ることでないのに、 父親は何も知らないものですから、思ったことをずけずけ言いました。だけどこれはできません。父親もあきらめて、「 そういうことか。それなら、お前がこういうことになったのは、お前の病気のためではなくて、 ここで無理やりに仕事をさせられて病気を悪くされたんだから、帰ったらみんなにこのことを話す。心配するな、 家に帰って来い」と言いまして、沖縄に戻っていきました。 

◇ 28年後の帰郷

そのあと、「来年帰って来い、来年帰って来い、母が待っているから、母が心配しているから」と手紙がき、 弟たちも面会に来るということがありましたけれども、帰る勇気がなかったんです。 

だけど「母が生きているうちに、母に会いたい。母の恩を忘れてはならない。死ぬなら母といっぺん会ってから死にたい」 と思いまして、昭和42年に、父親と会ってから7年後ですが、私は帰りました。友だちに連れられて。 まだ沖縄が返還される前でしたから、渡航ビザが要りました。 

帰りましたら、母が亡くなって1週間目という時でした。私はもう言葉がありませんでした。父が仏壇に線香をあげて、「 しげが帰ってきたよ、安心しなさい。元気で帰ってきたよ」と仏壇の前で一生懸命言っておりました。私は線香をあげて、 そこで泣くだけで、何も言うことができませんでした。そしたら妹弟たちが次々に来てくれました。また、妹・ 弟のつれあいが家族ぐるみ子どもたちも連れてきて、みんなが私を大歓迎して迎えてくれました。 

私が昭和14年に星塚敬愛園に来る時に、まだ生まれて間もない赤ん坊で、何ヵ月もたっていなかった一番末の妹が、 その時に、昭和42年と言ったら結婚してもう30歳になっていました。子どもが2人できてですね。私の目の前に、「 姉さん」と来たんです。ああ、あの時の赤ん坊がこんなになったのか。「あんたほんとうに美津子か。美津子、 大きくなったね」と言ったら、みんな笑ったんですよ。30年も経ったら当たり前だと。 そして旦那さんもついてきてですね、何のこだわりもなく、「家に来なさい。今夜は家で一緒にご飯を食べましょう」 っていうことで、父も来て、妹のマンションに案内されてですね、夕食を食べました。 

そしたら、次の日は弟の家、その次の日はもうひとりの上の妹の家という具合いに、もう次から次に、私の兄弟の家、 実家の姉の家、それから親戚中に、父親が車で私を連れて、あっちこっちにひき回されました。親戚のみんなが、 その頃は叔父・叔母も祖母も亡くなっていますから、いとこたちが迎えてくれまして、「よう来た、よう来た。 何で元気なのに、お母さんが元気な時に、生きている時に来ればいいのに。まだ1週間も経たないのに、なんで。 1ヵ月前に来ればお母さんにも会えたのに」とみんなが言ってくれました。その言葉が私の身にしみて、 もう言葉もなくてただ涙、涙で、みんなの暖かい言葉が身にしみてほんとうにうれしかったです。 初めて30年ぶりに帰ったあの身内の人たちのあの大歓迎は、ほんとうに忘れることができません。 

それから私は毎年沖縄に帰るようになりました。父が生きている間は毎年こういうことで、 兄弟たちに迎えられて沖縄に帰りました。その父も亡くなって20年になります。もう兄弟もなくなっております。 一番末っ子の、私が来る時に生まれた美津子という妹が、今大阪で暮らしておりますが、今日も一緒に来てくれました、 その妹だけが現在ひとり残っています。 

◇ 国賠訴訟第一次原告として

そして、かつて思いがけなく父が言ったあの「裁判」という言葉、とんでもないと思った言葉がですね、 私にとって大変な現実となったのです。平成8年に国が予防法を廃止してくれました。予防法が廃止され、皆喜びましたが 、国はこれからどうするのかと思いました。その時、私もすでに80歳になっていました。 80歳になって予防法が廃止されたって、私は家に帰ってもひとりで暮らすことはできない。親もいない。 もう兄弟たちにもむろん世話になることもできない。予防法廃止で、 園の人もそれぞれ自由にあっちこっちに出ましたけれども、家に帰って、家で生活するっていうことは、 めったにできなかったのです。これはおかしい、ということで、裁判の話が始まったのです。 

九州弁護団の弁護士の方々が、137人の連盟で私たちの敬愛園においでになりました。「予防法が廃止されましたが、 全国13の各療養所の中で、皆さんが人権を無視され、人間の扱いを受けなかったということを、 私たちは知りませんでした。これは弁護士としての恥です。人権を擁護するという私たち弁護士が、 皆さんのことを知らなかった。赦してください」と。最初10人の弁護士の方が、敬愛園に初めておいでになったんです。 

その時、「弁護士の方々がおいでになっていて、公会堂でお話があるから、皆さん来てください」 と放送があったのですけれども、みんな疑いを持ったんですね。公会堂には誰も集まりませんでした。 

そこで宿舎のほうで、せっかくおいでになってるのだから、話を聞きたい人、弁護士と話したい人は、行こう行こうって、 個人的に友だち同士で誘い合って行ったんです。10人が集まりました。 私たちも恐る恐る行ってみたら男の人が多いんですね。そこには10人の弁護士の他、マスコミもカメラマンも来ていて、 パチパチ写真を撮ったりしていたので、これは大変なことだ、写されたら大変だと思って、恐る恐る「 新聞に載せないでください。写真を撮らないでください。ただ話を聞きに来ただけなので」と言いました。 

そしたら女の弁護士の方が、私たちをつかまえてですね、この時私は女の弁護士がいるということを初めて知ったのですが 、その方が「さあ来なさい。あなたたちは話を聞きに来たのだから、いらっしゃい」と言って、 もうほんとうに優しく私たちを中に案内してくれました。そこでまず話したあと、宿舎の個室の部屋に連れて行かれ、「 みんなの前で話したくなかったらここで話しましょう」ということで、 他の人もみんな個室の部屋に1人ずつ連れて行かれて話をしました。 

それで済んだかと思っていたら、その晩、夕食が済んだあと私の家に弁護士の方が来たんです。 女の弁護士の方と男の弁護士の方と見習い生という方と3人で、私の小さな四畳半の部屋に入って来たんですね。 びっくりしていましたら、「あなたの昼間の話を聞いて、もっと聞かせてほしいと思いました」と言うんです。「 私はああいう話をしていいのかどうか分かりませんけれども」と言ったら、「あなたたちを心配させるような、 困らせるようなことは絶対にしません。あなたたちのために、私たちはしなければならない、私たちの仕事だ」と。「 迷惑をかけるようなことは絶対にしないから、できるだけここであったことを隠すことなく話してください。 秘密は守ります」と言います。夜中の2時3時まで3人の方の前で話しました。 

私だけではなくて、他の人もそういうことがあったみたいです。そしてその次の時に、 137人の弁護士の方の名簿を作って持ってきて、「私たちは、 こんなふうに名前を連ねて皆さんを支援しようとしているので何も心配は要らない。あなたたちの人間としての尊厳、 人権を守る役目が私たちの仕事だ。これは大変な人権侵害だ。それを私たちは知らなかった。 弁護士としてまことに恥ずかしい。何も心配要りません。あなたたちからお金を取るなどということは絶対にしない。 お金などは要らないから、絶対この裁判に勝つようにしなさい」と言われました。 こんなにまで優しく私たちのためにしてくださる、人間を取り戻すということ、人権というものはこういうことかと思って 、「分かりました」と申しました。こうして9人が立ち上がったのです。そうしたところが、 熊本でも4人の人が立ち上がって、第一次原告として13人が立ち上がったんです。 

◇ 信仰を支えに立ち上がる

ところが、熊本でも敬愛園でも、裁判の原告になったということで、それはもう目の敵どころか、 寄るとさわるとあっちでもこっちでも私たちはほんとうに大変な目に遭いました。 

教会に行っても、同じ教会の人でも私たちとまともに口をきいてくれなかったんです。教会の中では、「 お前たちは80になって片足は棺桶につっこんでおって何が裁判か。今更裁判するとは馬鹿の骨頂だ。自分の年を考えろ。 3年間でこの裁判は終ると弁護士たちは書いているけど、嘘だ。弁護士は嘘を書いている。 お前たちは弁護士にだまされているんだ。何が3年間で裁判が決着つけられるか」って。 

園からは、「お前たちは」ってもう頭から怒鳴られました。そうかなって思いながら、ほんとうに恐ろしかったですね。 そう言われて落ち込んで、「神様助けてください、私は間違ったことをしたのでしょうか」と尋ねました。その時、 み言葉が飛び込んできました。「今は、恵みの時だ」「すべてのことには時がある」「この時を用いなさい」と。もう、 み言葉が次々に飛び込んでくるのです。ああこのみ言葉、「私はあなたを孤児とはしない」「勇気をもって戦いなさい」、 こういった言葉が一つひとつ私の心に飛び込んできたのです。 

そしてもう1人、同じ沖縄出身の友だちがいました。上野正子さんです。私たち2人は、 このみ言葉によって立ち上がらなければと、祈りながら励まし合いました。 私たちいつまでもこの法律の中に閉じ込められて、人間として生まれ、親から当たり前に生まれたのに、 不幸にもこれからという時に病気になって、このようなことをされて、このままで死ぬことはできない。親不孝のままだ。 今こそ親に恩返しをする時ではないか。立ち上がろうと。 

いつも私の家で、2人はお祈りしながら励まし合ってきました。教会の人たちまでが私たちを白い目で見て、 裁判して負けたら、あなたたちはここにおれなくなるぞ、ここを出て行け、と。裁判に責任を持つかと。 責任の問題まで言われたら、死ぬのは簡単だ。けれども、 自分ひとり死んだからといって他の人たちの責任まで持つことはできない。神様どうしたらいいでしょう。 それに対してもまたみ言葉が次々に私を力づけてくださいました。 

ほんとうに、この信仰を持っていなかったら、私は絶対に生きることはできませんでした。 裁判を闘うこともできませんでした。人がどんなことを言おうと神様はちゃんと私たちに、「あなたの道を主にゆだねよ」 「私の光の内を歩みなさい」「あなたを孤児にしません」と言ってくださいます。 この一つひとつのみ言葉が私を包んでくれました。そして友だちとそのみ言葉に包まれて立ち上がって、 3年間がんばろうと心を定めました。 

弁護士の先生方が、1ヵ月に1回3人ずつ星塚においでになって、私たちを励ましてくださいました。その間、 敬愛園ではもう裁判に関係した人間はみんな中に入れない、泊まることもさせない、集会所も貸さないと、 園から締め出されてしまいました。そして、もうマスコミが来ても園内に入って写真も撮るなって、 それは大変なことでした。私たちはそれに負けてはいけないとがんばりました。 

そしたら今度は、自治会が、園長と連名でですね、この裁判が済むまでは、園内に裁判に関する者は出入りを禁ず、 放送も絶対にさせない。新聞、ラジオ・テレビもこの裁判に関するものはみんな、園の者に見せることはできないと、 そういう締め付けをしたんです。私たちは会場も与えられない。そこで集まる時は個人の家でしたのです。今日はこっち、 今度はこっち、次はこっちってね。だんだん原告が増えて、そして支援者が鹿屋の町、 鹿児島からどんどん集まってこられて、会場がないものですから夏の間は庭に立って、 また個人の部屋にあっちこっちで分散していろんな話し合いをしました。そしてマスコミが来ても、 家の中では写真を撮っても、庭には立つなって言われ、また道でも写真を撮ることは許されませんでした。病棟に入って、 入院してる人の所に写真撮りに来ても、それも婦長からやかましく言われて、撮ることはできませんでした。 

そんな状態が3年間も続きました。そこで私たちは、抗議を申し込もうとしたら、弁護士の先生方が、 園内でいざこざを起こしたらいけない。穏やかに、穏やかにと、忍耐することを私たちに話されました。イエス様は、「 忍耐しなさい、希望を持ちなさい、どんなことがあってもくじけてはいけない、あなたを孤児にすることはない」と、 み言葉を教えてくださっていますから、それに慰められ、強められて、祈って祈って、 心穏やかにさせてくださいと祈りながら、やりましょうと思いました。 

この3年間、敵対することは絶対いけないと、弁護士の先生方から教えられました。団長の徳田靖之という先生は、 東大総長矢内原忠雄先生のキリスト教の聖書の勉強会で学んだ方なんです。その先生がおっしゃったのです。 私ははじめ知らなかったものですから、どうして先生はクリスチャンなのですかって尋ねました。「実はね、 私もクリスチャンのはしくれだ。聖書の勉強をしたことがあります。あなたたちもクリスチャンですね。 お互いに聖書のみ言葉を信じ、神様が聖書で教えていらっしゃることは必ず実行してくださると信じて、 穏やかにいきましょう。忍耐もっていきましょう。希望をもっていきましょう」っておっしゃるのです。そして「 敵を愛していきましょう」って言われるのです。その言葉が身にしみました。 

私は人を恨んだり、仇をとってやらなければ、と思っていましたが、国の間違った政策がこういうことをさせたんだと、 裁判が済んでから分かりました。先生がおっしゃったように、「はい、愛します。敵を愛します」って言いましたが、 敵を愛しなさいって言うけれども難しいことだ、こんなことを言われてどうして敵を愛することができるかと、 涙しながら思いました。 

◇ 勝訴と国の控訴断念まで

けれども3年経たないうちに、裁判の判決が下りて、政府は控訴を断念することになりました。私たちはその間に、 厚生省や国会まで乗り込んでいきました。こんな者が、こんな病者、元患者だって言われ、 園から一歩も外に出ることが許されない、外に出れば罰則だと、ほんとうに監獄のような所に入れられてきたのです。 いろんな罰則の中で、科(とが)を負った死刑囚のような扱いをされた者が、 まさか国会のあの赤じゅうたんを踏むってことは、夢にも考えられないことでした。 

そして、裁判が済んで控訴断念の時に、国会まで、自民党だけでなく各党の代議士の先生方全部にお願いに行きました。 そうしたらもうどの先生も、「これは国の間違いだ。控訴を断念するのが当然だから、あなたたちに自分たちの力を貸す。 心配は要らない」と言われるのです。 

私はまた、当時の阪口厚生大臣のところまで連れていかれて、私の意見を言ったんです。そうしたら阪口厚生大臣は、 何か筆記をしておられたけれども、手をとめて、私と差し向かいに座っておられたのですが、 後は涙ぼろぼろ落としてくださったんです。私はその時に、やっぱり厚生大臣も医者だなと、よく分かりました。「 私も医者だ。医者としてこういうことを許すことは出来ない。必ず控訴をとりやめるようにがんばります」 とおっしゃったのですが、その言葉どおりに、それから2、3日せん(しない)うちに控訴断念となりました。 

ほんとうにあの時、控訴を断念するまで、国会に何回行ったか分かりません。けれども、 みんなからいろいろ言われながらも、この年になっても、ほんとうに神様は最後までちゃんと守ってくださると思いました 。 

私、歩きながら倒れても、神様から喜ばれればうれしいな、このまま死んでも私は悔いはありません、って言ったら、 いやそんなこといわんねって(言いなさんなって)また言われましたが、「私はもう自分のやることはやる、 このまま人間として扱われぬまま敬愛園の中で焼かれることは、私はしたくありません。 ちゃんとやる時には神様がついていてくださる。神様がちゃんとしてくださることを私は信じて、どこまでも行きます。 神様、イエス様の十字架は重たい。私にはとても負うことできませんけれども、 せめてその十字架の100万分の1でも負うことができたら、神様は赦してくださると思いますから、 たとえ倒れても私は負っていきます。私は絶対負けません。私、命のある限り闘います」。 そう偉そうなことを言ったんです。そしてまあそれが、みんなが喜ぶような、この裁判がよい結果となって、 喜びの日を迎えたと思います。 

だけど、これだけの締め付けをされて、いろんなことを言われながら、泣きながら…それが裁判の3年間ですよ。 冬も夏も朝の3時4時に、熊本地方裁判所に行くのに、敬愛園から熊本まで、あの道のりをですね、何時間もかかって…、 冬の寒い時はつらかったです。夏はよかったんですけれども、氷の張った雪の降る中を凍えてですね、もういっぱい着て、 みんな不自由ですよ、みんな年をとってますけれども、みんな元気よく励まし合いながら行きました。そして、 夜中にまたとんぼ返りに帰ってくるんですよ。2時3時に。こうして3年間通いました。 

弁護士の先生方、支援者の方々は、私たちをほんとうに自分たちの身内のように暖かく見守り、 この3年間私たちの手とり足とり、食事の世話からいろんな世話までしてくださった。この支援してくださった心ある方々 、鹿児島県のたくさんの方々、それから熊本、長崎、福岡、宮崎の方々が、みんなそれぞれ、誠意を見せてくれました。 

判決の日、熊本の裁判所に行ったらですね、あの裁判所の庭がもう誰が誰だか分からんような、人だかりですよ。 あの庭を人で埋め尽くして、もう誰がどこにおるか分からないような中を、人をかき分けてやってきて励ましてくださり、 肩たたいて、「がんばれ、がんばれ」言ってですね。そして法廷の中に入ったら、法廷を傍聴できる人は決まってますので 、私たちが済んで帰るときにはもうみんな庭に立ち上がって、裁判がどうだったっていうことを聞いてくださったんです。 

◇ 裁判支援者との交流

その後に、またこの支援者の方々と一緒に懇親会があるんですよ。その第1回は7月、そして9月でしたか、第2回の時に 、私たちの敬愛園にお父さんが病気で入所していて、お寺を作ってくださった馬場広蔵さんという方がいたんです。 後から山中っていう名前に変えられましたけれども、その方の息子さんが九州産業大学の先生で、まだ大学在任中に「 私の父親はらい者だった」という本を書いてですね、学生たちに公表してるんですよ。 

その方は、自分の親が経験したことを同じように経験させてはいけないと部落解放の運動をしている方でしたが、 親が生きてる間は、「らい病だなんて恥だ。親がらい病だということが分かればお前の仕事に差し支えるから、親は死んだ 、父親はいない、子どもの時に死んでる、父親のことは分からないと必ず言え」と言われたそうです。 

そして福岡で小学校を卒業してしばらくしたら、今度はお母さんが東京に連れてってですね、 親戚のほうの林っていう姓に変えて、お父さんの苗字を捨てて林力っていう名前になったんです。大学の先生として、 今はもう82歳ですか。この方もずっと私たちのこの裁判を支援してくださったのです。 その方が裁判の済んだあとの500人位の人々の前で、話をされたんです。その時に、「私の父親はらい者、 父親は星塚敬愛園に20何年間おって、亡くなって今、20何年になる」と。そういう事をみんなに言ったんです。 そしたらみんながびっくりしましてね。力先生は涙を流しながら、ほんとうに親身に話してくださり、「今この中に、 敬愛園から来られた方々、10何人がいる。この方々の中に私の父親を知ってる方がおられる。 私は父親のことは絶対隠してはいけない。父が生きておったらこの裁判に参加しておったかどうか分からないけれども、 この病気は父が恥だ、恥だと言ったけれども、これは恥ではない。国が間違っていたのであって、何が恥だ」。 ほとんどの人が恥だ、と言う。「親戚の恥だ、病気だったから、隠せ、隠せ」って。その方は、「この病気が何で恥だ。 どろぼうしたんじゃない、人殺ししたんじゃない、犯人でもないのに何がそんなに恥だ。病気になったからといって、 この病気が恥だなんてことは、どういうことか」っておっしゃったんです。 

この先生のこのような言葉に、私はまたほんとうに力づけられました。そしてすんだら、私たちの所に下りてこられて、 私たち星塚の者は一番後ろに座っていたんですが、私たちの肩を抱いてですね、「よう来た。来た」って言ってね。 敬愛園の皆さんと父親のことを話したいから、またゆっくり来ますからっていうことで、 その時はこういうことで帰ったんです。 

それから何年も往き来があって、私もその先生と福岡のお寺さんで、対談をしたこともあります。 その時の録音なんかもありますけれども。 

その先生のひとり娘の方もわざわざ敬愛園までおいでになって、「うちの父親は、ここにおったというおじいさんのことは 、一言も言ってない。自分の書いた本も私に見せたことがない。私のおじいさんは、ここでどういう方だったですか」 と聞きに来たんです。この娘さんも40歳を過ぎておられるのですが…結婚され子どもいる。「初めて父親から、 こうだったということを聞きました」と、わざわざ聞きに来られたんです。「この真宗のお寺、この建物は、 あなたのおじいさんがここに造ってくださったんですよ。入った時は、馬場広蔵っていう名前だったけれども、 戦後このお寺を建てるときに、馬場広蔵ではいけない、全国の方々にお寺を建てるお金を寄付してもらいたいために、 山中捨五郎っていう偽名を書いてここにお寺を建てたんですよ」と私はお話しました。 

そしたらもう感極まって泣いてですね、おじいちゃんの書いた石碑を前にして泣いたり、 おじいちゃんの肖像画が掲げてあるんですが、それを見てつくづく感無量の様子でした。 

このように、人それぞれの思いがありますけれども、自分の身内が病気だということをなぜ隠さなければならないのか、 私も自分の身内に、「この病気はね、絶対に何も悪い病気じゃない。病気になったからといって隠す必要もない。 何でそれが、恥か」と言います。私、自分の身内がそう理解してくれていますから、堂々と沖縄に帰ります。 

大阪におる妹の子どもたちも、私をいつでも歓迎してくれ、私の所にも行ったり来たりしてくれます。 3年間妹は大阪から飛んできてですね、裁判に加わってくれたんですよ。それを見て、弁護士の先生たちが「玉城さん、 あんたの妹さんは偉い。皆さんの身内の人が1人でもね、こうして顔を出して、自分の身内がこんな病気で、 こういう裁判をすると言って顔を出してくれれば、ほんとうにいいと思うんだけど。みんな、 人それぞれの考えがあるからね」って言われました。 

私が裁判を始める時に、まだ生きていた私の沖縄の弟たちは、私が「裁判するよ」と言ったら、それは「 国が間違いだったのだから当たり前のことだ」、「がんばんなさい」って言ってくれました。 その弟たちはもう亡くなりました。今はもう甥っ子姪っ子がほんとうに「がんばんなさい」って応援してくれまして、 裁判は済みました。裁判の最中に、私のことが新聞・テレビに出たら、こんなに見苦しい私なのに「 おばさんが出て誇りに思う」って言ってくれた言葉は、今でも忘れられません。 

今はもう、甥っ子姪っ子が、家族ぐるみで私のところに面会に来たり、私が何かあったら来てくれたり、 沖縄に呼んでいろんなお祝いもしてくれました。 

◇ 今は恵の時

私は自分のこのことをうれしく思う反面に、まだこういうこともあります。 この裁判が終わりになってから4年目になりますか、私は今、鹿児島県のあっちこっちの中学校・ 高校に話の出前に行っています。そうしたら敬愛園の中の者が、うちの所に行ってくれるなと言うんです。 寝た子を起こすようなことをしてくれるな、困る、迷惑だ、と。自分の所にあんたが行ったおかげで、 自分の身内の者にどんなに迷惑がかかっているか分からないかって言うのです。それで私は、これはすまんかったな、 申し訳ないと、そう言われれば私は謝るほかありません。 学校からハンセン病の話をしてくださいって言ってくれば行かない訳にはいかないですね。敬愛園がこういうことで、 私はこういうことで裁判をしました。隔離政策だったということで国が謝った、とお話します。これが分かれば、 何も家族は隠れる必要はないと思いますよ。 

だけど、敬愛園に入った人たちは、もう今更そんなこと言ったって困る、行ってくれるなと言います。もう、 ああのこうのって言われれば、本当に身が縮む思いをしますけれども、熊本、長崎そして鹿児島県など方々に行ってます。 もう行ってない所はほとんどないくらいに。 

近辺の学校でも、中学校にも行ってます。小学校の5年生まで、人権教育っていうので私を呼んでくれる所があります。 そのようにして行けば行くほど、みんなからいろんなこと言われますけれども、今はもう私、 あっけらかんになって笑い飛ばします。「あなたたちには迷惑か分かりませんけれども、『来てください。 あなたたちのことを、どういうことがあったかということを話してください』言われれば、私はどこへでも飛んでいきます 」と言ったら「年取って、よたよたしておって」って言うから、「よたよたしとっても、神様が支えてくださるので、 神様がよしっていうところで、どこで倒れても私は悔いはありません。もう途中で倒れても全く悔いはありません」 と言うのです。うちの教会のある人が、「倒れたら私たちはもう連れにいかんぞ」って言いましたから、「はい、 連れに来んでも私はもうちゃんとその覚悟はできています。私は鹿児島大学に献体しますから、私が倒れたら、 どこで倒れても、鹿児島大学から遺体を運びにきます。敬愛園の中には戻りません。敬愛園で葬式もしてもらいたくない」 と答えました。 

私は死んでも、私はあの屈辱は忘れることはできません。しかし、人を恨もうと思ったけれど、 その恨みもこの国が謝ったことによって、全部洗い流しました。憎んでおった人たちも、これは国の政策によって、 同じ人間でありながら私たちに、汚い言葉、人間扱いしなかった言葉を言ったのだ。これは国の法律がさせたことであって 、この人たちも私たちの世話をしながら、お前たちは人間のくずだ、日本の厄介者だ、ただ飯食いって言ったのは、 法律が言わせた言葉と分かりました。きっとこの方々もそう言いながら、どんなに心が悔しかったろう、同じ人間ですから 。人の子であり、人の兄弟である以上は、私たちにそういった言葉を吐いた人たちも、言いながら、 すまないっていう思いがあったと思います。私はそれを思ったら、この方々に恨みをもった言葉は出てきません。今は、 こっちがすみませんと言って、生きてる方には会いたいと思います。 あの当時の人は亡くなった方がほとんどですから林園長を恨みますが、おかげでここに来ることになったのですから、私、 園長先生が会いたい、会いたいと言っても、絶対隠れて会わなかったです。林園長も、 人間でありクリスチャンでありながら、私に嘘をついて連れてきたことを、赦すことはできない。 クリスチャンが嘘をつくってことはけしからんことだ。私は自分がクリスチャンの勉強をしてからそう思いました。「今、 林先生も天国で、すまなかったと祈ってくださっていると思いますから、こちらこそ赦してくださいと、 私は亡くなった皆さんにはそう言おうと思っています」って言ったら、ある学校の校長先生がですね、「玉城さん、 その言葉は身に染みました。あなたはさすがクリスチャンですね」と言われました。 こんな小さな取るに足りない者に対して、校長先生からこんなりっぱな言葉を言われて、身が縮む思いがしました。 取るに足りないような人間が、今まで人間扱いされなかった者が、「今、 人前に出て堂々とこういった言葉を言うっていうことは、あなたはほんとうのクリスチャンだ。 あなたはこれから大事にして、元気でそのことを述べ伝えてください。自分たちは応援しますから」と言われて、 もうこの先生方の言葉の一つひとつが、私は身に染みました。「ほんとうのクリスチャンだなんて、 私は取るに足りない罪深い女です。ですから、そんなふうに言われることはありません」って言いました。 そんなふうにおっしゃる先生方はクリスチャンじゃないと思ったら、自分たちもクリスチャンです、とおっしゃるのです。 私、それにはほんとうにうれしかったのです。まあ、そういう話はたくさんあります。もう時間が過ぎましたので、 これで終わりにいたします。 

今日は私のような者の、この87歳のばあさんのとりとめのない話を皆さんにさせていただき、聞いていただきまして、 ほんとうにありがとうございました。どうか悪いところは聞き捨ててください。皆さん、ありがとうございました。(拍手 ) 

Tamashiro Shige (タマシロ シゲ)
玉城 しげ(国立療養所星塚敬愛園入所者)
好善社「ハンセン病を正しく理解する講演会2005」(関西)
Copyright ©講演日2005年7月2日(土)
講演場所 日本キリスト教会西宮中央教会
2013.2.22許可を得て複製