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生命倫理とは?

倫理とは、善悪とは何か、そして道徳的義務と責任を扱う学問である。しかしながら、今「生命倫理」と呼ばれている学問が、従来の医療倫理およびカトリックの医療倫理とは全く異なるものであることを認識することが極めて重要である。2400年前にギリシャ人ヒポクラテスが創始した従来の医療倫理は、患者個人の生命と幸福を神聖なものとして、個々の患者に対する医師の義務を説いたものである。カトリックの医療倫理もこれと同じ点に注目し、自然法の哲学倫理、神意(Divine Revelation)およびカトリック教会の教導職の教えを組み合わせた道徳律の倫理原則を基本としている。 

一方、世俗的な生命倫理と言ったほうが適切な生命倫理は、人間の「好み」や「選択の自由」を最大限化することで、苦痛より喜びをできるだけ大きくしようとする実利原則に基づいている。異なる原則を根拠とすることで、異なる倫理的結論に到達するのである。 

ベルモント委員会

世俗的な生命倫理は、米国議会によって任命されたベルモント委員会と呼ばれる国家委員会のレポートに基づいている。1978年に発表された同委員会のレポートでは、人格の尊重(現在は自主性と呼ばれている)、正義および善行の3つが倫理原則として定義された。これらは「ベルモント原則」と呼ばれるようになり、新たに誕生した世俗的な生命倫理は「Principilism」と呼ばれた。ひとつの原則が別の原則を覆すことはないはずである。 

これらの原則が実際に機能しないことは、すぐに明らかになった。さらに、個々の患者に対して「善」を行うという義務は、社会の「善」によって覆された。「正義」は「公平」となり、個人として人々を公平に扱うのではなく、研究の利点と負担を社会に割り当てることに変わった。世俗的な生命倫理で尊重される「人」は、自主的な行動能力を持つ人だけである。胎児、乳幼児、昏睡状態の人、痴呆患者などは、「人ではなく」、人格権を持たないと見なされるようになった。世俗的生命倫理の主唱者であるプリンストン大学のピーター・シンガー教授は、乳幼児や障害のある成人より動物のほうに道徳的価値があるという考えを示している。 

政治的に正しいコンセンサスによる問題解決

ベルモント原則に基づく道徳的問題の解決は、特定の道徳問題を懸念する人々の意見が「コンセンサス」に達した結果と考えられる。このコンセンサスに達するのが難いことから、コンセンサスを促す目的で、アメリカの哲学者、リチャード・ローティは、説得術、すなわちレトリックの使用を示唆している。ニヒリストで、客観的な道徳的真実などはないと信じるローティ氏は、それでもなお、「レトリックを使用することで、人はその欲望を真実に変えることができる」という考えを示している(参照1)。 

こうした深刻な問題があるにも関わらず、ベルモント・レポートによって宣言された原則は、国連、ヨーロッパ政府、米国およびカナダ政府を支配するエリートたちによって国際的に受け入れられている。この原則は、世界の政治的構造において従来の医療倫理とカトリックの医療倫理の双方に取って代わり、医療や法律の専門家のみならず、学術分野やメディアにも受け入れられている。 

世俗的な生命倫理の擁護者たちは、善悪の観点から中立であるかのように振舞っているが、たとえば、胎児の人権に関する問題については明確な姿勢を示している。彼らはまた、自分たちを、多数派の見解に基づいて判断を行う「民主主義者」と称している。胎児の殺害を正当化する人が多数派であるという事実がないにも関わらず、世俗的な生命倫理を擁護する彼らは、その時点で「政治的に正しいこと」が何かを抜け目なく判断した上で、何の配慮も行うことなく、自分たちの狭い学問領域において道徳的立場を確立しようとしている。彼らは、究極の英知と道徳的真実として、メディアの中でその地位を普及している。カナダの政府機関であるカナダ保健研究機構の運営団体に所属する生命倫理学者は、先日(2002年)、科学およびテクノロジーの時勢に合わせた発展を維持し、世論および社会習慣の進歩に合わせるために、規制委員会を設置することを厳粛な面持ちで発表した。 

欺瞞

欺瞞に満ちたこのレトリックを表す他の例として、多くの医療専門家が中絶と乳がんの発生率増加の関係を強く否定し、学会が経口避妊薬と乳がんとの関係について沈黙していることがあげられる。さらに、いわゆる経口「避妊」薬の流産誘発作用の否定、コンドームが性感染症を予防するという誤った認識もまた欺瞞である。これらの虚偽的行為は、性交や中絶について選択の自由を認める世俗的な生命倫理の容認によって促され、またその論理的帰結として行われている。 

新たに登場した世俗的な生命倫理において注目すべき別の欺瞞として、この倫理の擁護者たちが、自分たちの運動を進めるために、重要な科学的事実を最初から誤った形で普及してきたことがあげられる。米国では、国家委員会(1975年)が、「胎児」の始まりを「着床」時と定義した(受精から57日後)。それ以前の段階は、単なる「前胚」と呼ばれた。「ヒト」および「胚」の定義は行われなかった。「妊娠」の始まりは着床時と定義された。しかし、実際には、1880年代以来、ヒトの胚、ヒトは、卵管での受精の瞬間に存在し始めることが科学によって明らかになっている。受精の瞬間に女性は妊娠し、母親になるのである。 

世俗的な生命倫理は、ヒトの胚、ヒトが、受精の瞬間にはまだヒトではないという誤った考えも普及させた。世俗的な生命倫理では、ヒトの存在は、解剖学的および生理学的基準によって恣意的に変わると主張している。着床時(受精から57日後)という意見もあれば、14日後(原始腺条の形成)、脳の形成時(妊娠後期の脳の新皮質形成時)という考えもある。こうした様々なエンドポイント以前は、一括して「前胚」、すなわち「幹細胞の集合」と呼ばれている。これらの主張はすべて誤った科学に基づくものであり、心と体の二元的分割を意味している。しかし、カトリック教会の教えによれば、心と体はひとつの物質として存在しており、それらは同時に誕生するものである。世俗的な生命倫理では、認知力および知力を失った人、すなわち痴呆などで認知力が低下した人や、いわゆる植物状態にある人の個性も否定されている。 

欺瞞が誤った考えを正当化する

誤った科学やそれに基づいた道徳的考えを使用することで、世俗的な生命倫理学者たちは、「中絶、避妊、妊娠中絶薬の利用、障害のある子どもを中絶する意図での出生前診断、代理母、ヒト胚や胎児の研究、ヒトのクローン作成、ヒトキメラの形成(他の種との交配)、ヒト胚性および幹細胞研究、精神疾患患者に関するハイリスクな実験的研究、安楽死、医師の自殺幇助、すべてに同意することを示したリビングウィル、非常手段としての食事および水分補給の中止」を正当化しようとしている(参照2)。これらの行為はすべて、道徳律から派生した倫理原則に基づくカトリックの医療倫理において非倫理的と判断されている。 

カトリックの責任

上記の行為をはじめとする多くの非倫理的行為は、メディアによって日常的に擁護され、流布されている。したがって、カトリックの医師、研究者および倫理学者は、こうした宣伝活動に積極的かつ公然と立ち向かう道徳的責任がある。Pontifical Council of Social Communications(社会コミュニケーション評議会)の教え、Dawn of New Era(新時代の夜明け)に次のような言葉がある。「法律的、政治的構造のエリートによってメディアの力が強くなっている今、教会としては、コミュニケーションの権利の尊重を主張すると同時に、信者および一般市民のためにメディアの代わりとなるコミュニケーションモデルを模索しなければならない。」 

道徳律は、自然法、哲学的倫理、神意(Divine Revelation)およびカトリック教会の教導職の教えを組み合わせたものである。聖トーマス・アキナスは、世界は神によって創られ、庇護されてきたと教えている。神は、永遠の法則としてその知恵に基づく考えにより世界を統治してきた。この法則は、すべての創造物の性質に反映される。正しい行為および目的に向かって自由に行動することは、我々人間の本質の一部である。したがって、我々は、その理性に基づいて、繁栄と目標、すなわち生きる目的の達成のために何をすべきかを見つけなければならない。物事の本質を考えることで、人間の理性によってのみ理解できる自然法、すなわち神の法を見出せるのである。 

第一に、善事を行い、悪事を排さなければならない。最も基本的なこととして、我々は、自分を生物として保存しなければならない。自殺は決して行ってはならない。自分の生命を大切にし、それを次の世代に受け継いでいくこと。子孫を育み、大切にしなければならない。精神の徳(思慮、教養および科学)ならびに意志の徳(正義、勇気、忍耐)において、理性と道徳心を高めなければならない。社会と調和して行動しなければならない(殺生や盗みを行ってはならない)。我々には、物事を知り、愛する無限の能力が備わっており、その能力こそが、我々が無限の存在、すなわち神について知り、神を愛する運命にあることを示しているのである(参照3)。 

道徳的な行為がどうあるべきか、すぐにわからない場合もある。道徳的問題を含んだ事例の(科学的または経済的)事実を理解するために、社会的、論理的議論が必要な場合も多々あるだろう。しかしながら、世俗的な生命倫理学者のコンセンサス、あるいは法律や世論に基づいた判断は、道徳的判断の基となる道徳原則の判断基準として適切でははい。神意(Divine Revelation)において、我々は、アダムとイヴの追放により「我々の心が闇となり、意志が弱くなり、悪に強く惹かれるようになった」と知っている。我々は、キリストの人間化、死そして復活により、我々が救われたことを知っている。祈りと秘跡により神を信じ、洗礼を受ければ、幸福な人生を送るための神の愛と魂の救済を手に入れることができる。聖霊によって導かれた聖なる伝統と教導職の教えにより、我々は、善悪を区別し、科学やテクノロジーの急速な変化により道徳的に正しい行いを見失いやすい状況が常に存在する社会において、道徳的に正しい人生を送ることができるのである。 

したがって、カトリックの道徳的教えは、我々が知っておくべき財産であるだけでなく、医療介護者や医療倫理学者が、我々自身の精神的善に対してのみならず、信仰者以外の利益のために道徳的義務を遂行する上でも重要な教えなのである。彼らは、信仰の光を隠すのではなく、すべての人にその輝きを与えなくてはならない。教皇ヨハネパウロ2世は、2002年4月26日に、カトリック大学連盟の生徒に向けたメッセージで次のように述べている。「皆さんの使命は、科学研究と専門訓練の分野において、福音書の「パン、塩そして光」となることです。」「これを達成するには、神の言葉を聴き、熱心に祈りを捧げ、(さらに)教会の典礼に参加することで、確固とした精神生活を開拓する必要があります。勉学などの活動と共に、神の神秘について熟考することも忘れてはなりません。」

Shea, John B. (シー・ジョン) 
Copyright ©March 2003 
2008.10.25許可を得て複製 
英語原文より翻訳: Catholic Insight