日本 プロライフ ムーブメント

なんのための改名か!

 このところ、聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとして、当の聾学校の人々の反撥を招いている。つまり、彼らは「 聾」という言葉に誇りさえ持っているのに、「支援されるべき」人々と見られたことでその誇りが傷つけられたのである。

思えばこの手の言葉は、どんどん酷く改名されてきた。たとえば「聾」や「つんぼ」という言葉も、「耳を聾する」「 つんぼになるほどの」大音声と云うように、本来誰にでも起こる「状態を示す」言葉だった。「めくら」も「びっこ」も、 じつは「目がくらんで見えない状態」や「傾いて歩く状態」を意味したから、誰にでも起こりうるし、 そこに差別的な視線はなかったのである。 

 ところがこれが、いつからか「聴覚障害者」「視覚障害者」そして「歩行障害者」に改名された。 状態を指す言葉から人物を限定する言葉に変わったばかりでなく、そこには「害」という嫌な文字が紛れ込んでしまった。 もともとは「障害」も「障礙」と書き、いつかは取れる差し障りやつっかかりを意味した。しかし字が簡単だからといって 「害」にしたのが大間違い。まるで「きずもの」のような意味が付加されてしまったのである。   

明らかに、こうした改名の背後には、欧米の「ハンディキャップト」という考え方が色濃く反映している。 要するに神の似姿としての「スタンダード」に比較して、劣った人々という見方である。「スタンダード」 そのものを認めない日本には馴染まない考え方が、安易な訳語めいた日本語で、無理矢理に流入してしまったのである。 

今回の「聴覚支援学校」だって、ああ、サポートを訳したんだ、英語が先にあったんだと、誰もが思うに違いない。   

最近私は住職になり、そのため法務局に登記する必要が生じた。耳に馴染んだ「登記簿謄本」も必要だったので、 これも求めたのだが、なんとこの「登記簿謄本」も改名されていた。新しい名前は「全部事項証明書」というのだが、 いったいこれはどういう日本語だろうか。   

まず訊きたいのは、何の必要があって改名したのかということだ。もしや「謄本」の「謄」が難しすぎるから、 円周率を三ぴったりにしてしまったのと同じように、簡単にしたのだろうか? しかし、たとえそうだとしても「全部事項 」というのは簡単な日本語どころか日本語でさえないのではないか。   

いったいどうしてこういうことが起こるのだろう。日本という国柄も日本語も理解しない人間が、 そういう言葉を作る権力を持っていることを、私は心底悲しむ。英語を訳してそのまま使えば洒落ているとでも思うのか、 その感覚が日本や日本語を壊していることに、気づいていただきたい。

Genyu Sokyu (ゲンユウ ソウキュウ )
玄侑 宗久(芥川賞受賞作家、臨済宗僧侶)
「福島民報」福島民報社
出典 玄侑宗久公式サイト日曜論壇 23回
2008年4月13日号
Copyright ©2020.11.2.許可を得て複製