日本 プロライフ ムーブメント

家族になるとはどういうこと?

家族になるとはどういう事でしょう?家族の一員としての責任を持つ事でしょうか? 

どういう人達の集まりを家族と呼ぶでしょうか?ゲイの男性カップルが子どもを引き取って育てている場合もあるし、レズビアンカップルでも同じ事があります。ただ何人か集まって一緒に住んでいる場合もあれば、新興宗教の生活共同体もあります。 

子ども達は、親が何人もいる事に混乱してきています。生みの母親とも育ての母親とも関わり合っていかないといけないし、それぞれの母親にはそれぞれのおじいさんおばあさんがいます。実の父親、育ての父親にも同じ事がいえます。都市部の多くには父親のいない子ども達が沢山います。その子達には、責任感が強く思いやりを持つ人になるとはどういう事かを教えてあげる大人の男性がとても必要なのです。 

更に、道徳に関する教育を学校の授業からはずしたいとする社会工学者たちがいます。その理由は、神、道徳、宗教の価値観は家庭で学ぶべきものだからと彼らは言います。それは一見正しいようですが、そういう事を学べる家庭を持たない子ども達が数え切れない程いるという事を彼らは忘れています。彼らにとっての家とは、単に食べて寝るだけの場所です。彼らの本当の家庭は、街中にあるのです。 

昔は、男と女が結婚する時は、結婚とは新しいいのちを育てる責任を神と共に二人で分け合う神秘的なもので、それには真剣に関わらなければならないと認識していました。カトリック教会では、それをサクラメント(秘蹟)、婚姻の秘蹟として認めています。そこでは、これから結婚する二人の心構えとして、結婚とは何かという教会の考えを教えます。結婚するとは、子どもを育てていく責任を神と共に二人で分かち合うという神秘に真剣に関わることだと二人に分かってもらおうとするのです。更に、その「育てる」には、子どもの成長や発達だけでなく、自分達の成長や発達も含まれているのだということも伝えられています。 

しかし、アメリカ国民である私達は、一体どうしてしまったのでしょう?どのような邪悪な力が、伝統的なアメリカの家族の在り方を崩壊させてしまったのでしょうか? 

そこには複数の原因があります。しかし私にはその中でもひとつの原因が際立って見えます。それは「快楽本能原則」です。それは、二人の人間が結婚するのは快楽の為という概念です。つまりこういう事も言えます。快楽が得られている間だけ結婚しています。別の言い方をすると、結婚の意味とは、ただ単に快楽を提供するという事です。責任感や献身、子どもの養育(カトリック教会が熱心に説く考え)といった他の概念は、個人の自由の否定とみなされ、楽しいことや気持ちのいいこと、なんの束縛も煩わしさもなく自由な楽しみを求める個人の権利を違法に剥奪するとみなされているのです。 

私に言わせれば、伝統的な結婚や伝統的な家族をダメにしている他のどの要素よりも、快楽原理は結婚や夫婦関係に害を与えています。現代のポップ文化が少女達に発信している基本的メッセージは、彼女達の個性や美点はどれだけ男の子を喜ばせられるかにあるということです。少女達は、ボーイフレンドを喜ばせることが自分の役目と思っているのです。ボーイフレンドを喜ばせられなかったら、存在価値がなく用済みとして捨てられるかもしれないと。私が大げさなことを言っていると思うなら、彼女達が毎日聞いている音楽の歌詞を聞いてみたらいいでしょう。 

少女達は、男の子に好かれたいならセクシーでなければならないと聞かされています。結婚もそういうもので、それが出来なければ、結婚は失敗すると言われているのです。すべては男性の世話をすることだと言われているのです。そのメッセージは大人になっても続きます。男の子は面倒を見てもらうもので、女の子は面倒を見るものだということです。 

私達の文化は、これまで見てきたとおり、非キリスト教だったローマ帝国の文化にいろんな意味で似ています。ローマ時代初期における殉教者のリストに、処女でいた為に殺された若い女性達が入っていたことを思い出さねばなりません。聖アガサ、聖ルーシー、聖セシリアを含む何人もの女性達の存在は、非キリスト教国であったローマ人の価値観、女性の存在価値は男性に喜びを与える事だけだという彼らの価値観にとって脅威だったのです。女性の価値は、快楽原理にのっとって、どれだけ男性にとって便利かで測られていたのです。若いキリスト教の女性達が、自分達には違う価値があるとはっきり宣言した時、男性の性の対象としてではなく、神が価値を認めてくださるのだと公に言明した時、彼女達は死に追いやられたのです。彼女達は非キリスト教社会の秩序と快楽原理に大きな脅威を与えたので、その死は公に行われました。 

アメリカの処女の少女達はそこまでひどい目にあっていませんが、しかし似たような苦しみを味わっています。彼女達はあざけられ、笑われ、軽蔑され、クズのように扱われているのです。 

ですから、この聖家族のお祝いの日に、家族が集まって話し合うことがあるのではないかと私は提案するのです。この時代までの長い間に、危機に瀕しているキリスト教の価値観があります。この時代とは、文明社会が2000年目に突入する時代です。この先どのような文明社会になっていくのでしょうか?それはどのような原理の上に成り立っていくのでしょうか?この途方もない未来で生きていく子どもたちに、私達はどのような価値観を伝えていくのでしょうか?夫と妻になるというのはどういう事か、男性であるとは女性であるとはどういう事か、そして家族になるとはどういう事かを家族で話し合うのは非常に大切な問題です。それはかつての古風な考えではないのです。それは今私達が懸命に生活しているこの社会を今現在盛んに形作っている、現代の原理なのです。 

それは、毎年この日に聖家族として生きる意味を考えるのに、十分な理由になるのではないでしょうか。 

Charles E. Irvin, M.B.A., M.Div., J.D.
アーヴィン、チャールズ
St. Mary’s Catholic Church
Manchester, Michigan
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net
Copyright © 2003.10.15.