日本 プロライフ ムーブメント

中絶・自然法理論の正しい適用

導入

中絶に関する修辞的技巧は「選択の自由派」「生命尊重派」そして「進歩派」「保守派」双方を論戦に巻き込み、混乱させている。多くの「進歩派」は妊娠中の子供を生かすために女性に死ぬことを求めるのは非合理的で残酷だ、また中絶は希望があれば、特に女性の健康とか生命に危険がある場合、さらに近親相姦とかレイプの場合でさえも、基本的には即可能であるべきだと主張する。それだけでなく、彼らは中絶が合法化されていると指摘する。反面、このような議論に、多くの「保守派」は中絶が決して正当化されたり、合法化されてはならないと主張する。どのような状況のもとであっても、またどのように法律が定めていても、何ら罪のない人間である胎児を殺害することが基本的に不道徳であることをその主張の根拠にするのである。時として、双方の立場を主張する人たちの議論は、相手の言い分に何らかの倫理学的正統性がある可能性すら忘れて、互いにすれ違いしているように見える。それだけではない。今のところ、高度に政治化されてしまった対決を回避するか、もしくは真剣に考慮すれば、両「陣営」にとって受容可能になるこれら悲劇的な道徳上のディレンマに取り組むために、組織的で、理にかなった手段が何もないように見える。

このような対決はしばしばかなりの程度まで、誤解とか重要な倫理学的区別をしないことから生じる。倫理学的に大事な区別は1(例えば中絶のように)本質的に悪である行為と2)(例えば化学療法、癌にかかった子宮の摘出のように)本質的に善(もしくは中立)であり、母親の生命を救うために、その結果として悪い結果が起きるとしても、許される治療行為である。すなわち直接的に悪を意図する行為と悪が生じることを許容するという意味で間接的に意図する行為を区別するのである。このように大事な事柄を個人的感情とか無原則な政治的妥協に委ねるのでなく、倫理学的に重要なこれらの区別を正しく理解すれば、この対決には共通の道徳原則を適応できるようになる。これらの区別は、例えば、胎児・胎芽の抹殺を前提とする研究(前記の研究を本質的に必要とする)人間クローニングのように、中絶に関連するその他多くの事柄にも適応できる。

これら困難な事態においてしばしば使用される共通した道徳原則は、二重結果の原則1として知られる自然法2の伝統的原則である。正確に理解された二重結果の原則は、困難な倫理的ディレンマを解決するために発達した。この場合、関係してくる二つの生命のどちらにも責任はないが、何かしなければ、必ず片方の生命が危険に晒されることになる。本論の目的にとって明らかな適用は、自分に責任がなく、その生命は貴重であり、守られねばならない女性が妊娠していて、その胎児も(受精直後から)同じく罪のない人間であり、その生命は同じく貴重であり、守られねばならないという場合である。自然法の理論によれば、罪のない人間の殺害を直接的に意図することが許されないから、3どのような事情や条件があったとしても(1)女性が中絶を受けることが倫理的に許されるだろうか?(2)それともそれ以外の、倫理的に許容できる治療法によってこれら罪のない二人の中の一人が不幸にして死ぬようなことになったとしても、もう一人が生きることができるように医師が治療することは許されるのだろうか?という問題になる。

実を言えば、これらは二つの異なる倫理的問題であり、従って別々に取り組まれなければならない。一つは中絶の問題であり、もう一つは、緊急で正当な医学的状況があれば、母親の生命を助ける(逆もまた真)ために許される、医学的治療行為であって、中絶ではない。これら二つの大いに異なる問題の解決は、少なくとも現在の中絶論議に見られる両極端を解明する助けとして、伝統的に確立された道徳原則をまったく緩和することなく、応用できるのではなかろうか? 解決は、これら二つの問題の間に横たわる倫理学的区別を見いだし、伝統的に確立されている二重結果の原則を正しく適用することにある。

しかし、しばしば使われる二重結果の原則のこの適用をさらに詳しく取り扱う前に、昔から現代に至るまでしばしば誤解され、誤って解釈されたり、適用されたりしてきた自然法による道徳理論をごく簡単に説明することによって、予想されるいくつかの反対を回避しておくことが重要である。

自然法による道徳理論

自然法による道徳理論が何であるか、または何でないか、またなぜ本論においてそれが役に立つと考えられ得るか、のいくつかの例を次に挙げよう。

1神学に関連があり得るし、また実際に関連している場合もあるが、それは神学の理論ではなく哲学的、倫理学的学説である。つまり、自然法による道徳理論は、神的啓示もしくは教会の教導職に頼ることなく、人間の理性のみに頼って、どの人間行為が倫理的に正しいか、間違っているかをわたしたちが知る際の助けになる。それは困難な倫理学的ジレンマに直面するとき何が倫理的に正しいか知る手段として、何世紀にもわたって研究・洗練されてきた。それは決して何か新しい、生意気な、試されても、吟味されてもいない道徳理論ではない。自然法による道徳理論がその定義からして自分の宗教を他人に押しつけることでないことに人々が同意したとしても、自分たちの道徳体系を他人に押しつけることであると非難する人々がいる可能性は残る。

そういう非難に応えるために、次に挙げるいくつかの事実を参考にして欲しい。まず、(ここで詳しく立ち入ることはしないが)他の哲学的諸道徳理論と比較して、自然法による道徳理論には、どれほど複雑で、学問的で、過熱気味の論争にあっても堂々と渡り合えるだけのものがある。第二に「中立」であれたら便利かも知れないが、現代多元社会に「ピッタリ」の「中立的」道徳理論などあるわけがない。これは実利主義、相対主義、共産社会主義についても言える。これらは一つとして「中立的」などではなく、それぞれ自分が規範であることを主張している。だから、それを認めようが認めまいが、わたしたちは米国で、実際、常に非中立の哲学的もしくは社会的道徳理論を他人に押しつけている。最後に「人工中絶に関する宣言」の中で指摘されているように「異なる観点から一つを選択すること、一つの観点を他に優先させて押しつけることが法律の仕事でないのは真実である。しかし、胎児の命はすべての意見に優先させねばならない。この命を奪うために思想の自由を引き合いに出すことはできない」。

2その他多数の道徳理論と比較すれば、自然法による道徳理論は、個人もしくは人間共同体の一員として人間にとって何が本当によくて、何が本当に悪いのかについて、可能な限りまた客観的に知ることのできる人間の性質に基づいている。6それは単に観察とか経験に基づかず、問題を抱えた「哲学的」諸前提とか宗教教義、もしくは変わりやすい感情とか個人的意見から演繹されたようなものではない。例えば、コカイン吸引を続けるとそれはわたしたちに重大な害をもたらすだけでなく、時としては体、心、魂の生命さえ滅ぼすから、コカインは悪いのである。それによって周りにいる人々も、広くは人間社会も重大な被害を被る。わたしたち人間はそのように「できており」わたしたちはこの事実を客観的、経験的に知ることができる。

3 自然法理論の基本的掟は、大体において客観的に知ることのできる人間性に基づいているので゛、これらの掟はすべての人間に適用できる。わたしたちは一人残らず正にそのような人間性を持っている。これは時間、文化、背景、人種、性別、宗教、支持政党に関係なく真である。

4このように、人間社会を構成するのは例外なく人間であり、少なくともそれを事実としてすべての人が認めているので、正しく理解され、適用された自然法理論こそ現代の「多元的」社会にとっては理想的であるはずである。一般的に見て、人間にとって基本的によいもの、もしくは悪いものは、わたしたち一人一人にとってもそうである。もちろん、二次的な違いは考慮に入れなくてはならない。しかし、自然法の基本的掟は共通している人間性のために市民全員にとって同じである。そして、人間性と人間にとって基本的によいもの、悪いものは変わることがないので、これらの掟も変わることがない。実に、それは単純に、人間が構成する国家を導く最低の倫理的必要条件である。

最後に、自然法道徳理論においては、人間行為の善悪を決定する三つの決定要因があり、行為が善であると考えられるためには、これらがすべて善でなけばならない。

1まず、その性質そのものによって善か悪かである(行為者が意志する)行為自体。これは自然法道徳理論の中心的主張であり、自然法の「均衡主義的」解釈はこれを否定する。例えば、中絶行為は本質的に悪であり、化学療法もしくは子宮摘出は本質的に善であるか中立である行為になる。

2行為者が、その行為によって達成しようとして(意識的に意志する)その行為に付随させる動機もしくは意図、つまりその行為の目的。

3 (行為がもたらす結果を含む)行為の付随的環境である状況―例えば、合意している配偶者間の性行為、または他者による強姦、近親相姦、他に治療法がない場合の中絶。

それ自体において(もしくはその性質自体によって)悪である行為が、それ自体としてはよいものであったり、賞賛されるべきものであり得る意図、目的、状況によって善になったり、中立になったりすることは絶対あり得ないことを理解することは、重要である。他方、それ自体において(もしくはその性質自体によって)善である行為は、いかなる悪い意図もしくは状況によってでも倫理的に悪くなり得る。倫理的行為に関するこれら三つの決定要因は、次に述べる二重結果の原則の簡単な説明と明確化に明白に組み込まれている。

二重結果の原則

二重結果の原則と呼ばれる自然法道徳理論のこの部分は、考えられる限りどのような手段を取っても、その難問を解決しようとすると、罪のない人が一人もしくは複数傷ついたり、時としては死ぬことがあるという不幸な、しかし実際にある倫理学的ディレンマに対処するために何世紀にもわたって少しずつ洗練されてきた。ここでする二重結果の原則とその四つの必要条件の説明は、オースティン・ファゴシーの Right and Reason.(正義と理性)から、ほとんどそのまま引用してある。その中絶論争への適用は同原則のそれぞれの条件の下に特別に指摘することにする。

二重結果の原則は、悪を直接的、自由に、それ自体のために望まれてはならない、また、それを目的としてでも手段としてでも望んではならない、という事実に基づいている。さらに、予想されるが望んではいない結果として、決して直接に悪を望んではならない。そうではなく、悪は、ある人がその権利として追求する、倫理的に許容される善に付随する不可避的副産物になってしまう。

このように、悪を望むことがわたしに決して許されなくても、10 わたしには悪の存在を常に排除する義務があるわけではない。自分自身と隣人に他の意味での悪をもたらすことなくそれらの悪を排除できないので、この世界にある悪の存在を我慢することが許されるように、自分の行為から生じる悪い結果も、もしその行為を控えることが自分と隣人に重大な悪をもたらすのであれば、時としては許容することが許される。でも、そうすると不幸なことに、時として、その性質からしてわたしが望む善と不可分に結ばれている悪の存在を許容することなく、現実的には合法的善を望むことができない。しかし、だからと言っていつでも無分別にそうしてもいいというものでもない。手短に言えば、わたしには悪を防がなければならない場合があり、そういう場合、わたしがその悪を許容することは悪になる。しかし、悪い結果が起こるのを許容することが許される場合もある。ではこれら二つのケースをわたしたちはどうやって見分けることができるのであろうか?11 こういう場合に役立つのが二重結果の原則である。

二重結果の原則によれば、次に述べる条件の下でのみ悪い結果を伴う行為が倫理学的に許される。

1再度、問題の行為はそのものとしては善であるか、中立でなければならない。これは明白である。なぜかと言えば、もし行為がその性質自体からして悪であれば、その行為を善にするとか中立にすることは不可能だからである。であるから、悪が直接目的として、あるいはある目的のための手段として望まれることになるから、それを単に許容するとか我慢するとかの問題ではなくなる。12 もしある行為が基本的そして本質的に倫理的悪であれば、どれほど意図と目的がよくても、つまり、どのような場合であっても倫理的には許されない。

中絶への適用―中絶行為は罪のない人間を意図的、直接的に殺害することであるから、そのような性質自体からして本質的悪である。これはレイプと近親相姦によるケース(と人間の胎児と胎芽を代償とする研究、人間クローニング)を含むすべての中絶に適用される。故に中絶手術を受けることが倫理的に許容されることは決してない。二重結果の原則を中絶のケースに適用すると、中絶行為はその性質自体からして悪であるから、倫理的に非合法行為である。しかし、例えば化学療法とか癌に冒された子宮摘出のように、倫理的に善であるか少なくとも中立的行為であるほかの治療法は、胎児が不自然に死ぬことになったとしても、その他三つの条件がすべて満たされる限り、母親の生命を救うためであれば許される。13 

2悪い結果はその行為の付随的副産物として許容されるとしても、それ自体のために直接意図されてはならない。14 

中絶への適用―胎児の死が直接に意図されているので、倫理的に非合法である。他方、化学療法とか癌に冒された子宮摘出、その他のケースの場合、胎児の死は起こり得る副産物として認められるか許容されるだけであって、直接に望まれてはいない。15 

3意図される善が悪い結果によって達成されてはならない。善を達成するために悪が実際の要因であってはならない。16 

中絶への適用―(たとえ、それ自体としては合法的に善であったり、中立であったとしても)家族の人数を制限するとか、障害児の誕生を防止するとか、キャリアのためとかという理由で、胎児の死が望まれてはならない。17 他方、死に至る可能性のある癌の治療は、化学療法とか癌に冒された子宮摘出などの倫理的に許容できる治療法によって達成され得る。胎児の死は癌を治療するための手段ではない。

4悪い結果を許容するためにはそれなりに重大な理由がなければならない。もし、善が小さく、悪が大きいのであれば、その悪は付随的であるなどとは言えない。悪い結果を避けつつよい結果が実現できる方法が別にあれば、その別の方法が選択されなければならない。18 

中絶への適用―すらりとした体型を保持するため、男の子もしくは女の子を生むため、障害児を生まないため、社会的非難を被らないため、これらは胎児の意図されないが不可避の死を許容するために十分な理由とは言えない。他方、化学療法とか癌に冒された子宮摘出など倫理的に許容できる治療法とか、(もう一人の人間である)母親の生命を助けるためであれば、胎児の意図されないが不可避の死を許容するためにはそれなりに十分な理由があると言えよう。もし、胎児に不必要な害とか死をもたらさずに、母親の生命を救うほかの治療法が可能であれば、その方法が選択されなければならない。19 

そして最後に一言。「ほかの治療法」の例は二重結果の原則の四つの条件がすべて満たされていない限り、倫理的に許されない。これらの条件が三つだけ満たされていても、一つが欠けていれば、これらの治療法は倫理的に誤っている。

結論

最後にまとめてみよう。例えば化学療法か子宮摘出に頼らなければ死の危険に瀕することになる妊婦は、胎児の死がこれらの手段の目的として直接意図されず、単にそれが彼女の生命を救うための手段であり、これらの治療法に付随する服産物であって、ほかに有効な治療法がない場合に限り、これらの治療法なりその他の倫理的に許される治療法に頼ることができる。しかし、中絶による胎児の死を直接的に意図するのは、それがたとえ母親の生命を救うためであっても、動機がどれほどよくても、近親相姦とかレイプのように非常に困難な状況の下にあったとしても、倫理的に許容できない。

罪のない何百万もの女性や胎児の生命がかかっているというのに、それを単なる個人の気まぐれとか政治的駆け引きに委ねておいてはならない。合衆国の社会的繊維はもうぼろぼろにされ、限界まで痛めつけられている。中絶論議にまつわる悪意とか誤解をある程度減じるために、共通の倫理学的な手段をここに提供できたのではないかと思う。二重結果の原則の正しい理解と適用は、これらの非常に悲劇的、そして困難な倫理学的ディレンマの中にあってなされなければならない重大な倫理学的区別を明らかにするため、共通して受け入れられ、倫理学的にも合法である基本を提供する。


Reference:

1 For a simple, brief summary of the Principle see, Austin Fagothey, S.J., Right and Reason (second or third editions only)(St. Louis: The C.V. Mosby Company, 1963), pp.107-110. For a brief but accurate explication of the Principle, see, Peter J. Cataldo, “The principle of the double effect”, Ethics and Medics (Braintree, MA: Pope John Center, March 1995), 20:(3):1-2. See also, Kevin O’Rourke and Philip Boyle, “Double effect”, Medical Ethics: Sources of Catholic Teachings (St. Louis, MO: The Catholic Health Association of the United States, pp. 102,103 (hereafter referred to as Sources …). [Back]

2 Although many of the quotations below are derived from traditional Catholic documents, the truth of these statements has been acknowledged by most thoughtful persons and religions over the centuries. [Back]

3 Pope Pius XI, “Encyclical Letter on Christian Marriage” (Dec. 31, 1930), The Human Body: Papal Teachings, 1960, pp. 31-34, in Sources …, p. 35, 36: “…Whether inflicted upon the mother or upon the child, [direct abortion] is against the precept of God and the law of nature: ‘Thou shalt not kill’. The life of each is equally sacred, and no one has the power, not even the public authority, to destroy it …Those who hold the reins of government should not forget that it is the duty of public authority by appropriate laws and sanctions to defend the lives of the innocent, and this all the more so since those whose lives are endangered and assailed cannot defend themselves. Among whom we must mention in the first place infants hidden in the mother’s womb.” See also, “Declaration on Procured Abortion” (Nov. 18, 1974), Vatican Council II, Vol. 2, 1982, pp. 441-443, in Sources … p. 38: “Divine law and natural reason, therefore, exclude all right to the direct killing of an innocent man.” [Back]

4 For examples of several classic explications of natural law theory, see A. Fagothey (note 2), esp. pp. 124-139; also, Vernon J. Bourke, Ethics (N.Y.: The Macmillan Co., 1953); Ralph McInerny, Ethica Thomistica (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1982); McInerny, Aquinas On Human Action (ibid, 1992); Charles Rice, 50 Questions On The Natural Law (San Francisco: Ignatius Press, 1993). [Back]

5 Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith, Declaration on Procured Abortion (1974)(Alexandria, VA: St. Paul Books & Media), p. 19 (emphasis mine). [Back]

6 See Fagothey (note 2), pp. 128-131. See also Pope John Paul II, Encyclical Letter, Veritatis Splendor (Boston, MA: St. Paul Books & Media, 1993), #72 (p. 91): “Acting is morally good when the choices of freedom are in conformity with man’s true good and thus expresses the voluntary ordering of the person towards his ultimate end [good].”; also, ibid., p. 92. [Back]

7 Fagothey (note 2), p 112. See also Veritatis Splendor, #74, p. 93: “But on what does the moral assessment of man’s free acts depend? … [It is] the intention of the acting subject, the circumstances – and in particular the consequences of his action, [and] the object itself [i.e., the kind of action, i.e., inherently right or wrong or neutral]…”. [Back]

8 Note that Pope John Paul II has clarified in Veritatis Splendor that “proportionalism”, an ethical theory proposed by some dissident moral theologians, is not properly natural law or morally acceptable – in particular because it rejects the very possibility of actions which are morally good or morally bad per se, i.e., by their natures – see Veritatis Splendor, #79-80, pp. 100-102: “One must reject the thesis, characteristic of teleological [consequentialist, e.g., utilitarian] and proportionalist theories, which holds that it is impossible to qualify as morally evil according to its species – it’s “object” – the deliberate choice of certain kinds of behavior or specific acts, apart from a consideration of the intention for which the choice is made or the totality of the foreseeable consequences of that act for all persons concerned … There exist acts which per se and in themselves, independent of circumstances, are always seriously wrong by reason of their object [i.e., the kind of act willed] … [E]xamples of such acts: ‘whatever is hostile to life itself, such as any kind of homicide, genocide, abortion, euthanasia and voluntary suicide; whatever violates the integrity of the human person, such as mutilation, physical and mental torture and attempts to coerce the spirit; whatever is offensive to human dignity, such as subhuman living conditions, arbitrary imprisonment, deportation, slavery, prostitution and trafficking in women and children; degrading conditions of work which treat laborers as mere instruments of profit, and not as free responsible persons; all these acts and the like are a disgrace, and so long as they infect human civilization they contaminate those who inflict them more than those who suffer injustice …'”. See also ibid, # 75 (p. 94), #76 (p. 77), #77 (p. 98), #78 (p. 99), #90 (p. 112), #96 (p. 119), #97 (p. 119). See also John Finnis, Moral Absolutes (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1991). [Back]

9 Fagothey (note 2), p. 107. [Back]

10  Pope Pius XI, “Encyclical Letter on Christian Marriage” (Dec. 31, 1930), The Human Body: Papal Teachings, 1960, in Sources … (note 2), p. 36: “Evil is not to be done that good may come of it.” See also, Pope Paul VI, “Humanae Vitae” (1968) (Boston, MA: St Paul Books & Media), p. 7, If it is sometimes licit to tolerate a lesser evil in order to avoid a greater evil or to promote a greater good, it is not licit, even for the gravest reasons, to do evil so that good may follow therefrom.” See also Veritatis Splendor, #80, pp. 102-103. [Back]

11 Fagothey (note 2), p. 107. [Back]

12 Fagothey (note 2), pp. 107-108. [Back]

13 Pope Pius XII, “The Attempt on Innocent Human Life” (Nov. 26, 1951), in Sources … (note 2), p. 103: “…Deliberately, we have always used the expression “direct attempt on the life of an innocent person,”, “direct killing”. Because if, for example, the saving of the life of the future mother, independently of her pregnant condition, should urgently require a surgical act or other therapeutic treatment which would have an accessory consequence, in no way desired nor intended, but inevitable, the death of the fetus, such an act could no longer be called a direct attempt on an innocent life.Under these conditions the operation can be lawful, like other similar medical interventions – granted always that a good of high worth is concerned, such as life, and taht it is not possible to postpone the operation uontil after birth of the child, nor to have other efficacious remedies.” See also, Pontifical Council for Pastoral Assistance, Charter For Health Care Workers (Boston: St. Paul Books & Media, 1995), pp. 122-123. “If the abortion follows as a foreseen but not intended or willed but merely tolerated consequence of a therapeutic act essential for the mother’s health, this is morally legitimate. The abortion in this case is the indirect result of an act which is not in itself abortive.) (from Pius XII, To “Face of the Family” and the “Associations of Large Families” Nov. 27, 1951, in AAS 43 (1951)p. 859). See also, Ethical and Religious Directives for Catholic Health Care Services, (Washington, D.C., 1995), pp, 19-20: #47, “Operations, treatments, and medications that have as their direct purpose the cure of a proportionately serious pathological condition of a pregnant woman are permitted when they cannot be safely postponed until the unborn child is viable, even if they will result in the death of the unborn child.” [Back]

14 Fagothey (note 2), p. 108. [Back]

15 See note 13. [Back]

16 Fagothey (note 2), p. 108. See also Veritatis Splendor, #81, pp. 102-103: “If acts are intrinsically evil, a good intention or particular circumstances can diminish their evil, but they cannot remove it. They remain ‘irremediably’ evil acts per se and in themselves … Consequently, circumstances or intentions can never transform an act intrinsically evil by nature of its object [the kind of act willed] into an act ‘subjectively’ good or defensible as a choice.” [Back]

17 “Declaration on Procured Abortion” (note 5), pp. 14-15: “… We do not deny these very great difficulties. It may be a serious question of health, sometimes of life or death, for the mother; it may be the burden represented by an additional child, especially if there are good reasons to fear that the child will be abnormal or retarded; it may be the importance attributed in different classes of society to considerations of honor or dishonor, of loss of social standing, and so forth. We proclaim only that none of these reasons can ever objectively confer the right to dispose of another’s life, even when that life is only beginning.” [Back]

18 Fagothey (note 2), p. 108. [Back]

19 See notes 13, 14. [Back]

 

Dianne N. Irving, M.A., Ph.D.
ダイアンヌ・アーヴィング医学博士
Full Professor, History of Philosophy, and Medical Ethics
Dominican House of Studies, and
Lecturer in Ethics, Department of Philosophy
The Catholic University of America
Copyright © February 2000
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net