日本 プロライフ ムーブメント

真実を隠すこと


涙が乾いた後、パティの淡褐色の瞳の下には、黒いマスカラが筋を作っていた。伏し目がちの顔には、悲しみの代わりに束の間の安堵感が奇妙に広がっていた。中絶から13年を経て初めて、パティはその苦しみを理解してくれる人に出会った。パティは、同じように心を痛めている男女が集まり、その経験を打ち明ける場所にようやくたどり着いた。言葉にできなかった苦しみを映し出すように、パティはその経験を話し始めた。 

中絶さえすれば、すべてが終わり、私の人生も元通りになると思っていました。クリニックのスタッフも皆そう言っていたのに。でも、中絶することで、人生は全く別のものになってしまうことを今は知っています。 

中絶によって、苦しみが終わることはありませんでした。むしろそこから苦しみが始まったのです。長い間、私は自分のことを頭がおかしいのだと思っていました。友人に自分の苦しみを打ち明けようとしても、彼らは非難めいた表情で頭を横に振るだけでした。そのことで私は孤独感と納得のいかない思いを募らせていきました。自分が狂ってしまうのではないかと感じることさえありました。 

それ以前のパティは、中絶は「組織の塊」を取り除くことに過ぎないという俗説を信じていた。事実、クリニックには、中絶の痛みとリスクは、抜歯のそれと変わりないと言うカウンセラーさえいた。それが真実だとすると、パティのような感情を抱くのはおかしいということになる。 

友人の誰一人としてパティの感情を当然のこととして受け入れてくれない事実が、さらにパティを「自分はおかしい」「不自然だ」という気持ちにさせた。友人たちの「非難めいた表情」を見て、彼女は、自分の「普通ではない」感情を心の奥深くに沈めなければと思うようになった。残念なことに、周りの人を安心させるために自分のネガティブな感情を押し隠すことで、彼女の苦悩はさらに尾を引くこととなった。 

パティのような経験をする人はとても多い。中絶を希望する大半の女性は、自分がその後、深刻な心理的問題に直面する可能性を予測したり、理解したりしていない。中絶によって「時計の針を元に戻せる」という誤った期待をすることで、その後生じる問題に全く対応できなくなってしまう。 

この誤った期待がもたらす悲劇が、ある女性から寄せられた「編集者への手紙」によく表れている: 

私は怒りを感じています。グロリア・スタイネムと、中絶の経験があるのに、その苦痛を私に教えてくれなかったすべての女性に対して、怒りを禁じえないのです。女性たちの間には、罪の意識や、自己嫌悪、恐怖について互いに語らないという暗黙の申し合わせがあるのです。中絶することは、イボを切除したり、爪の手入れをしてもらったり、髪を切ってもらうことと同じではないのに、[特別なことではない]ように言う人は、嘘つき以下です。[1] 

社会全体として、我々は中絶を理解せずに議論し、法律を制定している。中絶を道徳的、政治的問題として論ずる一方で、人生を変える経験とは考えていない。その点において、我々の社会は、中絶後の悲しみを予想もしていなければ、認めてもいない。 

このことは、国全体の悲劇であり、本書における重要なコンセプトであることから、繰り返し述べておく。我々の社会は、中絶後の悲しみを予想もしていなければ、認めてもいない。 

本章では、不用意な憶測、悪質な技術、そして中絶に関する政策が、中絶による精神的リスクはほとんどないという誤った認識をいかに増長しているかについて、簡単に説明する。次章では、中絶後に重大な感情的問題に直面した女性が、友人や家族、専門のセラピストのサポートを受けられず、無言で苦しみに耐えている理由について考察する。さらに、続く章では、私自身が治療した中絶後の問題を具体的に紹介し、この問題を、本人、家族、この国にとって非常に重要な問題とする理由を説明する。 

「中絶が安全なことは誰でも知っている。」

中絶は、合法的な行為であることから、安全と思われている。事実、中絶は女性の「権利」として広く認識されている。この権利、あるいは特権は、望まない妊娠から女性を解放するものと考えられている。中絶は、女性たちに安堵を与えても、悲しみを与えるものではないはずなのだ。 

実際、3人のうち1人以上は、中絶の直後に、悲しみ、喪失感、憂うつといった感情を持つが、中絶患者の大半は、安堵する。[2] これは、多くの女性が、中絶までに非常な緊張を感じているからである。彼らは、中絶そのものに対して神経質になっている。自分の選択が正しいのかどうか迷っているのかもしれないし、妊娠をその人生において問題と考える環境や人々からプレッシャーを受けているのかもしれない。 

中絶の直後は、そうした時間が終わることで、緊張が解ける。すべては終わり、問題は片付いた。すべてを過去として水に流し、自分の人生をやり直すのだ。中絶直後は、大半の女性において、妊娠に伴う緊張と中絶の恐怖が、少なくとも一時的に遠ざかる。 

しかし、中絶によってストレスが緩和されると同時に、新たなストレスの種が蒔かれることがある。後半の章で詳しく説明するが、中絶に対する割り切れない感情や記憶がプレッシャーの元になり、数年後に予想もしなかった形で爆発することも考えられる。 

一部に、これは、中絶が女性の自己概念を構成する3つの柱、すなわち、性に対する認識、道徳性、母性の認識に触れるためと考えられる。また、子どもを失ったこと、あるいは少なくとも子どもを持つ機会を失ったことにも関係する。いずれの場合にも、この喪失感に立ち向かい、それに対処し、悲しむことで、女性がその経験を乗り越えていく必要がある。 

中絶の前にこうした問題をすべて理解している女性はほとんどいない。それどころか、自分の将来が脅かされ、不確定に思えるこの時期に、女性は「その事態を終わらせよう」とするため、こうした問題を「棚上げにする」傾向がある。中絶直後の安堵感が、その後問題が表面化しないという保証にならないのは、このためである。割り切れない感情は、遅かれ早かれ無視できないものとなり、感情面や行動面での障害を伴う場合も多々ある。 

この見解は、精神科医であり、産科医として20,000件以上の中絶を施行しているジュリアス・フォーゲル医師の観察結果からも裏付けられている。フォーゲル医師は、以前から中絶を擁護する一方で、次のようにも述べている: 

年齢、背景、性に対する認識に関わらず、女性は皆、妊娠の中断によりトラウマを抱えることになります。人間性にも影響が及びます。その出来事は、彼女の人生の一部なのです。妊娠を中断することは、彼女自身を破壊することを意味します。中絶が何の影響も与えないということはあり得ないのです。中絶はいのちを絶つことなのです。そこにいのちがあることを認識しているかどうかは全く関係ないのです。何かが形成され、それが実際に起こっていることは否定できません。トラウマは無意識下に沈み、その女性の生涯を通じて表面に出てこないかもしれません。しかしそれは、中絶擁護派の人々が主張するように、罪のないこと、見過ごして良いことではないのです。精神的代償を払わなければなりません。疎外感を感じたり、人間としての温かい心を押しやり、おそらくは母性本能を閉ざすことになるかもしれません。妊娠を中断した女性の意識の深い部分では、何かが起こっています。精神科医である私にはそれがよくわかります。[3] 

中絶を「たいした事ではない」と考える傾向は、(1)直後のネガティブな反応が一時的で一過性のものとして消失する、(2)ネガティブな感情の大半は遅れてやってくる、という理由から一般的に問題視されていない。 

女性に中絶直後の気持ちを尋ねた家族や親しい人は、女性が安堵の表情を見せていることで、その事については、この先ずっと「大丈夫」と解釈するが、それは必ずしも事実ではない。一方、女性が気落ちしている場合、クリニックのスタッフだけでなく、家族や友人までも、それは一時的なことで、すぐに元気になると考えてその状況を見過ごしてしまう。実際、誰もがそう願っている。彼らは中絶によって「時計の針を元に戻すこと」ができ、女性は元通りの人生を送れると期待している。それを期待し、また、そうなることを信じたいがために、人々は、自分の期待通りだと納得できる理由をすぐに見つけようとする。 

一般に、女性が一度「私は大丈夫」と言えば、最も親しい友人でさえ、彼女の気分を害したくないという気持ちから、中絶について繰り返し尋ねることはしない。彼女の心中にあるものにどう対処すればよいかわからないので、敢えてそれを知ろうとはしない。 

次の章で説明するが、中絶後の女性が大丈夫であると近親者が確認してしまえば、その後、疑問や後悔の念を抱くようになっても、女性はそれを表に出しにくくなる。しばらくたってからネガティブな感情について相談しようとすれば、周りの人たちは不愉快になる。女性は、時にはっきりと、時に暗黙の了解として、「過去を振り返らないで、未来だけを見つめなさい」というメッセージを受ける。ヘレンの経験を紹介しよう: 

中絶の後、私の体調を聞いてくれたのはボーイフレンドだけでした。彼は、クリニックの帰り道に、私に大丈夫かどうか聞きました。帰宅途中、私は胃のあたりに不快感を感じていました。泣きたかったけど、まるで感覚を失ったようでした。ボーイフレンドに大丈夫と答えると、彼は「さすがは僕のガールフレンドだ」と答え、私を送り届けると、ビリヤードに出かけました。私を一人ぼっちにした彼にとても腹が立ちました。私は一人になりたくなかったのに。後で私が泣けば、彼は中絶のことは忘れろと言ったでしょう。果たして私が泣くと、彼は私のことを「陰気な奴」と言い、自分の関心を引くために泣いていると言って私を責めたのです。私たちはその後まもなく別れ、中絶のことを知る人はいなくなりました。私は、中絶したことばかり考えていました。そうしたかったからではなく、その経験を忘れることができなかったのです。その時点で、私は悲しみを飲み込みました。強くならなければ、誰も私を必要としてくれないと思ったのです。 

このように、中絶に対する社会的認識は、女性が中絶の直後に親しい人に対して「私は大丈夫。終わってほっとしたわ。もうそのことは話したくないの。」と言ったことに基づいている。残念なことに、女性の本心ではないこうした話が、「中絶はたいした事ではない」という社会の認識を強くする原因になっている。「ジュディは中絶したけど、たいしたことなかった。彼女は元気よ。」などと言う友人や親類たちも、中絶は大事ではないという考えを他の女性たちに伝える役割を果たしている。 

しかし現実には、中絶はきわめて個人的で、複雑な体験である。多くの女性たちは、中絶に対する思いや記憶について、気楽に話すことはできない。妊娠や出産に関する話を、お茶を飲みながら熱心に披露し合う女性たちは、過去の中絶に対する気持ちや記憶については決して語ろうとしない。私の患者であるビバリーは、自分の苦しみを打ち明けられなかったことについて、日記に次のように記している: 

私はこの事実を受け入れ、周囲にも元気な振りを続けてきた。でも時々、これ以上元気な振りを続けることはできないと思うことがある。傍目には元通りの生活を送っているように見えるかもしれないけど、内心はとても辛い。本当は一人で泣きたいと思っているのに、元気なふりをしていることで、ますます悲しくなってくる。でもいったん泣き出したら止まらなくなってしまうかもしれない。 

シャロンの場合、回復室で深い喪失感に気づくと同時に、中絶を受けた女性との不思議なつながりを感じた。 

中絶が終わると、私は「回復室」に移されました。私は、かつて共に妊娠していた女性の隣に座りました。喜んでいる人はいませんでした。重苦しい雰囲気が私たちを包んでいました。涙ながらに語り合い、私は妊娠12週であったことを打ち明けました。私の隣にいた女性が私を見て「そうだったのね」と言ったとき、私は強い衝撃を受けました。私の赤ちゃんは行ってしまった、永遠に。回復室から出るには、もう妊婦ではない新たな「患者」の間を通らなければなりませんでした。その中の一人と目が合い、目礼すると、彼女は身振りで返してくれました。私たちは何も言いませんでした。その必要はありませんでした。私たちは、望んでいなかったにしろ、そうするより他に方法がなくて同じ行動を取った悲しい仲間だったのです。前線で戦う勇敢な戦士のように、私たちに「選択肢」はなかったのです。 

中絶の後、シャロンが身を置いた「自己否定婦人団体」では、中絶を受けた女性たちが、ただ理解しているということだけで互いを支えあっていた。そこでは、共感という姿勢だけが必要とされた。言葉、特にどちらかの女性が絶えられない苦痛をもたらすような「単語」を発するべきではなく、それは不適切で、時に危険なことでもあった。 

一般的に、女性は妊娠について話す時のように、中絶について気楽に話すことはない。この社会的礼儀の唯一の例外は、中絶賛成派のフェミニストグループにおいて中絶経験が平然と語られるときだけである。しかしその場合でさえ、議論には厳しいルールがある。個人の経験を語るときは無関心を装わなければならない。疑問、悲しみ、あるいは罪の意識を長々と語ることは適切ではない。そのような会話は、非公式なグループセラピーに、お互いの過去の決断を裏付けるという目標を与えることになってしまうからだ。 

中絶クリニックの偏見

中絶は精神的に重大な影響を与えないという期待は、多くの中絶クリニックによって強調されている。中絶カウンセラーの多くは、その期待に反する根拠を無視することで、中絶に対する心理的反応は珍しい、あるいはそんなものは存在しないと女性たちに教える。パティのケースのように、中絶は歯を抜くのと同じくらい痛みも危険もないというばかげた比較をするカウンセラーさえいる。 

中絶後に問題を経験した女性252人を対象にした過去を振返ってみる調査において、66%の女性が、カウンセラーが中絶の選択に対して「偏った」意見を持っていたと述べている。カウンセリング前には決心がついていなかったとする女性が40%から60%いたことを考慮すると、これは重大な事実と言える。調査したすべての女性のうち、44%は、カウンセリングを通じて中絶以外の選択肢を見つけることに積極的だった。質問を勧められたのはわずか5%で、52%から71%は、自分たちの質問ははぐらかされた、矮小化された、あるいは十分に答えてもらえなかったと報告している。全体で、90%以上が、十分な情報が与えられず、情報に基づく決断ができなかったと述べている。83%の女性が、相談した中絶カウンセラーを含め、周囲から中絶を強く勧められなければ、別の選択をしたかもしれないと言っていることから、こうした情報の欠落が決断に特に影響していると考えられる。[4] 

また、研究の結果、危機に面した人は、良い意味でも悪い意味でも第三者の影響を受けやすいことがわかっている。第三者、特に、危機から脱出する方法を提供してくれそうな権威者に頼ることは、高度な精神的依存性とされる。[5] 中絶を考えている女性は、その疑問を無視するように誘導する指示的なカウンセリングの影響を特に受けやすい。ウエンディもその犠牲者の一人である: 

中絶前のグループカウンセリングで、私は中絶という選択をしたことに疑問を投げかけました。私は、自分は中絶したくないけど、ボーイフレンドはそれを望んでいると打ち明けました。私は自分ひとりで子どもを育てる余裕がないことに悩んでいました。カウンセラーはすぐに、それこそが私が中絶を希望した根拠だと言いました。彼女は、経済的余裕がないのに子どもを持つことは適切ではないとも言いました。彼女は、カウンセラーという立場から、どうすべきかを理解していたのだと思います。私は非常に感情的になっていました。自分で考えることにおびえていました。そして1週間後、私は中絶しましたが、もし私が子どもを産みたいと何度も言っていたら、彼女が果たしてそれを容認したかどうか疑問です。 

別の患者、ミッシーは、子どもを持つことで人生が狂ってしまうという恐怖に支配されていた。彼女のカウンセラーは、中絶することで望まない人生を送ることになるとは一言も言わなかった。 

中絶する前、カウンセラーは、私が自分の行動について不安になっていることを分かっていました。彼女が私に、赤ん坊を元に戻すことはできないし、子どもがいたら以前のような生活はできなくなると言ったとき、私はその場から立ち去ろうと思っていました。彼女の言葉は、妊娠を中止するという私の決断を正当化しようとしているように聞こえました。でも、中絶前のそうした重要な時のことを振り返ってみると、どうしてその場を立ち去らなかったのかという疑問ばかりが残ります。妊娠について肯定的な意見を言ってくれる人がいたら、別の選択肢を考えたかもしれません。でも、そんなサポートはありませんでした。誰もが中絶することが最善策だと言っていましたから。 

カウンセリングにおいて中絶カウンセラーが彼らの偏見を押し付けたり、女性自身の道徳や母性としての不安を無視して中絶を「最善策」として「売りつけよう」とする場合、結果は悲劇的なものになる。ミッシェルは、日記に次のように記している: 

カウンセラーは、2、3ヶ月すれば、気分が落ち着くと言った。もう2年経ったのに、状況はちっとも良くなっていない。このままだと気が変になりそう。こんなひどい状態は初めて。生きていくことがとても辛い。正しい選択をしたと思っていたけれど、こんなに心が痛むのだから、私の選択は間違っていたのかもしれない。こんな痛みには耐えられない。もう終わりにしたい。こんなに辛い状況になることを誰も教えてくれなかった。だれもが中絶が最善策だと言った。私は元気になるとも言ってくれた。でも私は元気じゃない!私の人生は、決して元通りにはならない。罪悪感、恥ずかしさ、何の価値もないという感覚、満たされることのない空虚感に支配された人生。この苦しみにはもう耐えられない。また自殺を考えた。自殺を考えるなんて恐ろしいことだけど、この痛みを終わらせるには他に方法がないと思う。 

ミッシェルの日記には、彼女の苦痛、後悔、悲しみの深さが正直に語られている。彼女は、そうしたネガティブな気持ちに襲われるとは全く予想していなかった。幸運なことに、カウンセリングと悲嘆のいやし作業によって、ミッシェル、ウェンディ、ミッシーは、否定的な考えや自責の念から立ち直ることができた。 

中絶クリニックで行われた調査では、中絶を考えている女性の大半が、中絶処置、そのリスクならびに胎児の発達についてほとんど、あるいはまったく知識を持っていないことがわかっている。[6] ナディーンのように、多くの女性にとって、クリニックで受けるカウンセリングだけが彼らにとって唯一の情報なのである。 

私の認識は甘かった。中絶の本当の意味を全くわかっていなかった。カウンセラーたちは、中絶がいかに安全で、容易で、単純な処置かを話すだけでした。中絶すれば問題は解決し、元の自分に戻って望む人生を送ることができると約束してくれました。彼女は、「あなたが私の娘でも同じことを言うわ。それが一番いいのよ。」とさえ言ったのです。 

皆が私に、心配することはない、怖がることはないと言ってくれました。私が受けたカウンセリングは、こんな風でした:ええ、あなたなら大丈夫;安全よ;心配しないで、何の問題も起こらないから。 

私は、24年間もこの経験に苦しめられてきました。中絶によって私の人生は憂うつと不安の落とし穴に陥ったのです。 

中絶クリニックのカウンセラーは、実際にはその反対の証言が圧倒的に多いにもかかわらず、中絶による精神的リスクはほとんどなく、あったとしてもごくわずかだという誤った認識に誘導する傾向がある。その理由は、個人の見解や彼らが教育を受けたクリニックによって異なる。 

一部の中絶カウンセラーは、経済的な理由から中絶を勧める。彼らは、中絶を売る「仕事」をしているのだ。[7] また、保護の観点から中絶が問題のある妊娠にとって最良の策と信じ、女性に「正しい」選択をさせることを彼らの義務と考えるカウンセラーもいる。[8] あるいは、別のカウンセラーは、かつて自分がそうしたように、他の女性が中絶を選択することで、自分たちを今も苦しめている選択が正しかったと確認しようとして、中絶を勧める。[9] こうしたカウンセラーたちは、患者を叱咤激励しながら、自身をも懸命に説得しようとしているのである。 

私の患者の一人であるリタは、中絶クリニックで4年間カウンセラーとして働いた後、やっとの思いで自分自身の中絶と向き合う勇気を得ることができた。 

私は、女性たちに中絶を勧めることに一生懸命になっていました。中絶を安全で合法的な行為と確信していたのです。自分が妊娠して子どもを望むまで、私のカウンセリングがいかに一方的で押し付けがましいものだったか考えてもみませんでした。私の周囲の人は、私の妊娠に対して批判的でした。そのとき私は、私自身がクリニックを訪れた妊婦たちに対して同じことをしていたのだと気づいたのです。まるで彼女たちを中絶させることで、自分自身の中絶に対する罪悪感をぬぐおうとするように。私は自分の行為を正当化することに必死で、自分がいかに悲しんでいたかに気づいていませんでした。 

一番気がかりなことは、一部の中絶提供者が中絶を社会事業のツールとして考えていることです。生活保護受給者の削減、「不適切な事」の排除、あるいは人口過多の防止など、理由にかかわらず、彼らは、中絶を「より良き選択」へのステップとして見ているのです。社会事業のエリートたちにとって、誤った情報、欺瞞、そして中絶を選択した男女が持つ「小さな」罪悪感は、「より良き選択」を実現する上での小さな犠牲でしかないのです。[10] 

去るものは日々に疎し

欺瞞について議論する必要はあるとしても、カウンセラーの大半は、まず患者である女性のことを心配するだろう。十分な教育を受けていない、あるいは雇用主により、中絶の本当のリスクについて誤った認識を植え付けられているとしても、カウンセラーたちが傷ついている女性の心を理解していれば、故意に女性を誤った方向に導くことはないはずである。もちろん、彼らは、回復室で涙を流す女性を大勢見てきている。しかし、カウンセラーたちは、女性たちはいずれ元気になると信じているのである。 

この誤った認識の背景には、自分のカウンセリングが相談に来た女性の役に立っているというカウンセラーたちの確信がある。中絶提供者の誰一人として、本書で紹介した女性の悲しい物語を信じようとはしないだろう。彼らは、本当に女性を助けたいのだ。カウンセラーたちは、彼らがカウンセリングを行った女性の一部が中絶によって苦しんでいると思いたくないのである。 

中絶カウンセラーがこうした期待を抱く理由には、中絶後に問題を生じた女性と接触した経験が非常に少ないこととも関係している。中絶によって精神的に傷ついた女性が中絶クリニックに戻ってくることは殆どない。[11] 中絶後の気持ちがネガティブであればあるほど、悲しみや罪の意識を感じさせる中絶クリニックやカウンセラーたちから離れていってしまうのだ。 

その一例として、私の患者だったアマンダのケースがあげられる。彼女は21歳で、まじめで明るく、外見も美しい女性だった。中絶の2日後、アマンダは、非常に危険な組み合わせである睡眠薬とアルコールを過剰摂取した。彼女が退院してから、彼女とその友人に会ったが、アマンダは、とめどない涙と悲しみで息を詰まらせていて、ほとんど話すことができなかった。当惑した彼女の友人たちが、何が起こったのを話してくれた。来る日も来る日も私たちは、彼女の身を守るための方法を考えた。アマンダの友人は、彼女にこの危機的状況を脱してもらおうと、彼女を支え、安心感を与え続けた。しかし、術後2週間の検査のため中絶クリニックを来院する日が来ると、アマンダはそれを拒否した。彼女は、「罪の場所」に戻ることはできないと思ったのだ。予約の時間が過ぎたが、クリニックの誰からもアマンダの容態について尋ねられることはなかった。クリニックでアマンダの自殺未遂を知っている人はいなかった。 

ルーサンのケースも同様である。中絶の数日後、彼女はクローゼットの中で首をつろうとした。幸い、棒を固定していたスクリューが彼女の体重で壁から外れたため、彼女は助かった。次に、彼女は、ガレージのドアを閉めて車のエンジンを回し、窒息死を試みた。これも自殺未遂に終わった。不思議なことに、ルーサンは2週間後の検査のため病院を再訪しており、そこで彼女はアンケートを提出している。自殺を試みるほど精神的に苦悩していたにも関わらず、彼女は、すべての質問に「肯定的」に回答している。彼女は、後に「早く検査を終えてその場から立ち去りたかった!」と述べている。結果的に、クリニックの誰一人として、急いでアンケートに答え、自分が大丈夫であると報告した女性が、実際には中絶によって自殺を考えていたことを知らなかったのだ。 

中絶のトラウマに苦しんでいる女性の大半が、中絶体験に関わる人物や物事との接触を拒んでいることは明らかだ。もし彼らに相談相手を探す勇気があったとしても、セラピスト、牧師、一般開業医、友人など、中絶カウンセラーとは別の人々に助けを求めるだろう。この点から、「問題はほとんどありません」という中絶クリニックのカウンセラーは、正直と言える。しかし、彼らが問題を見つけにくい立場にいるとからといって、問題が存在しないという意味にはならない。 

この点で、読者は、当然、私自身の見解も中絶カウンセラーとは反対の方向に偏っているのではないかと思うかもしれない。結果を述べると、私が診察した中絶経験者では、中絶を肯定する人よりも、中絶後に問題を抱えた女性が圧倒的に多い。したがって、私自身の臨床経験を中絶経験者全体に当てはめて、中絶後の問題の程度を実際より大きく考えている可能性がないとは言えない。 

その議論には、確かに一理ある。個人の見解は、その人の限られた経験に影響される。しかし、本書の論点は、すべての女性、あるいは大半の女性が本書で紹介した感情的問題を抱えていると主張することではない。私の目的は、中絶によってさまざまな感情的問題が生じる可能性があることを示すことである。こうした問題は、社会からも医療専門家からも無視されることが多く、その結果、大勢の女性を苦しめている。私は、統計的、臨床的観点から証言の検証を行うことで、それが真実であることを証明できると確信している。「完全に」バランスのとれた見解を得るための最善策として、私は、中絶の感情的利益を立証するために中絶擁護者が示す証言にも注目している。しかし、そうした証言が公表されたとしても、多くの女性が中絶によって大きなトラウマを抱えているという事実を消せるものではない。このことは、我々に2つの疑問を投げかけている:どうすれば彼女たちを救えるのか、同じネガティブな経験から他の女性を守るにはどうすればよいのか? 

例外

上記が一般的な現状だが、中絶による感情的な問題に女性たちが対応できるよう準備を促している中絶カウンセラーも一部にいることを知ってもらいたい。たとえば、シャーロット・タフトは、ダラスの中絶クリニックで14年間、カウンセラー兼ディレクターを務めていた。タフトは、中絶を巡る厳しい問題から患者の目を逸らすのではなく、彼女らと共にそうした問題に取り組んでいる。彼女は、中絶の前に、子どもの喪失に直面する女性たちの力になりたいと努力してきた。自分の子どもにさよならの手紙を書くよう勧めたこともある。カウンセリングにおいて、患者の多くは中絶しないことを選び、彼女はその決断を尊重した。[12] 

ただし、タフトの行動は、多くの中絶擁護者から厳しく非難されている。たとえば、家族計画連盟は、タフトのクリニックの紹介を中止した。その決定を擁護するため、ダラスおよびテキサス北東部の家族計画連盟の代表は、「中絶擁護団体は女性に対して十分に誠実でないとする〔タフト氏の〕声明に強い異議」を唱え、「中絶後に感情的に重大な後遺症が残るという根拠はない」という報告書を発表した。これに対し、タフトのクリニックで中絶を行うウィリアム・ウェスト医師は、家族計画連盟は、短期の追跡調査のみに基づいた自社の裏づけ資料において、少なくとも10%の女性に「顕著、重篤、継続的な」心理的問題が生じると報告していると述べた。ウェスト医師は、10%はアメリカ国内だけでも160,000症例に相当することから、家族計画連盟は、「女性に嘘をついているわけではないが・・・その思い違いや無知を残念に思う」と述べている。[13] 

残念なことに、中絶後のカウンセリングの必要性を認識する中絶クリニックのカウンセラーは増えているものの、その必要性を患者に説明する上で苦心している。たとえば、サンノゼの家族計画中絶クリニックのヘッドカウンセラー、シーラ・クリーフェルズは、中絶後のカウンセリング・プログラムを用意しているものの、希望した女性にしか提供されていないと話している。プログラムについては、広告も行っていないし、中絶前のカウンセリングでも紹介していない。実質上、公表されていないに等しい。中絶後のカウンセリング・プログラムが存在することを知っているスタッフもほとんどいない。 

クリーフェルズは、プログラムの普及が政治的理由によって妨げられていると述べている。中絶後のカウンセリングを提供することは、中絶によって女性が傷つくことを暗に認めることであり、「相手に爆弾を投げることはしたくない」という思惑があることを、彼女はレポーターに対して認めている。[14] 

誤った期待の普及

シャーロット・タフトのように、中絶カウンセラーの中には、女性自身が決断し、中絶の結果を受け入れる準備をするよう求める者もいる。しかし、70年代初頭以来、中絶カウンセラーの間では、中絶を促すことがその職務であるという見解が一般的になっている。大半のカウンセラーは、クリニックに来るまでに女性はよく考え、最終的な決断をしていると思い込んでいる。カウンセラーとして、女性のストレスを軽減し、すでに決意したことについて疑問をもたせないようにすることが彼らの仕事なのである。カウンセラーたちは、彼ら自身を、心理的に消耗し、身体的にも辛い経験をしようとしている女性たちの友人であり、指導者であり、応援者であると考えている。 

彼らは、相談役というより世話役として、女性が解決できていない感情的、道徳的葛藤を取り除こうとする傾向がある。患者が中絶のリスクや胎児の発達段階について尋ねると、カウンセラーたちは、自分の過剰な親切心が不安や疑問を生じる原因になるのではないかと警戒する。彼らは、患者の懸念をうまくはぐらかし、打ち消し、不安をそれ以上大きくしないような回答をしたがる。このアプローチが、1970年代初頭からカウンセラーの教育基準として使われているのだ。[15] 

結果として、中絶を受けた女性の大半は、(1)中絶において精神的なリスクはない、あるいは(2)精神的に深刻な問題が生じることはきわめてめずらしい、と教えられることになる。これらは、大半の女性が中絶後に安堵することから、受け入れられてしまう。一部のカウンセラーは、しばらくの間、悲しみや「憂うつ」に陥る女性がいることは認めているが、そうした気持ちはすぐに消えると主張している。また、こうした一時的な「憂うつ」は、単に妊娠から妊娠していない状態にホルモンが変化することが理由と考えるカウンセラーもいる。サンディーは、自分の体験談を次のように話してくれた: 

私が以前に中絶したときに相談した個人カウンセラーは、中絶の後、1ヶ月ぐらいは、悲しくなったり動揺したりすることがあるかもしれないと言いました。ホルモンが通常の状態に戻る過程なので、心配することはないと言われました。彼女は、最初の1年は中絶のことを時々思い出すかもしれないけど、その後は、記憶の彼方に遠のいて行くとも言いました。1ヶ月たっても元通りにならず、私は、自分はどこかおかしいのではないかと思い始めました。もう一度カウンセラーに会おうと思いましたが、彼女は私の中絶について一切話そうとしませんでした。彼女は、私が何か別のことで悩んでいると言い張ったのです。1年経っても毎日私は中絶したことを考えていて、自分は本当に頭がおかしくなったのだと思いました。自分の人生は元通りになると思っていましたが、実際には、粉々に砕け散ってしまったのです。壊れた人生の破片を再び元に戻せるのかどうかもわかりませんでした。私は、自分が悩んでいることを周囲が知ったら精神療養所に入れられてしまうと思い、みんなの前では平静を装いました。中絶に対してこんな風に反応したのは私だけだと思っていたのです。 

中絶擁護者は、中絶の前と中絶の3週間後に女性を調査したブレンダ・メジャーの研究報告を引用して、あらゆる感情的リスクを意図的に隠蔽しようとしている。この調査では、中絶後の対応に不安があった女性のほうが、対応に不安のなかった女性と比較して、より多くの感情的問題を報告したことが明らかになっている。[16] 発表以来、この研究報告は、潜在的なリスクに関する「不必要な」情報を女性に提供することで彼らの不安をあおり、中絶後の感情的問題のリスクを増加するという理由で、女性を動揺させる情報の提供を差し控える根拠として利用されている。 

この理論には、さまざまな問題がある。第1に、リスクの完全な開示を受けるという患者の基本的権利を侵害している。この理論では、女性は、子どものように無知で無力であり、真実を聞いて自分で判断する能力を持たない存在と考えている。それどころか、中絶カウンセラーたちは、(1)温情主義として女性が知るべきことと知らなくても良いことを決める、あるいは(2)中絶という選択を促す情報だけを女性に与えているのだ。 

第2に、メジャーの調査結果を妥当に解釈すれば、対応に不安のある女性が、中絶後すぐに否定的に反応することは予想可能と考えられる。こうした女性は、中絶の決断をめぐる葛藤を強く認識しており、彼女たちが状況への対応に不安を抱く可能性は高い。多くの場合、こうした女性たちは、自分の母性や道徳的良心に反して不本意な中絶を受けている。彼女たちは、中絶以外「選択肢がなく」、子どもを持ちたいという希望をあきらめざるを得なかったと感じている。彼女たちが、悲しみ、喪失感、後悔、罪の意識を持つのは当然かもしれない。彼女たちにとって、それこそが現実に予想されることなのだ。間違ったことを言って安心させ、こういった現実を退ければ、短期的に不安を軽減できるかもしれないが、結局、長い目で見れば、彼女たちはさらに苦しむことになる。後でごまかされたことに気づけば、中絶後の「当然な」反応に加えて、自分や他者、特に医療専門家を信じられなくなってしまう。ロリーは自分の苦しみを次のように打ち明けている: 

何年もの間、私は決断力の低下に悩んでいます。自分自身の判断を信用できないのです。私にアドバイスしてくれる医師、カウンセラー、ボーイフレンドさえも信頼できません。私は、「何か間違ったことをしている」という妄想に支配されています。そのときは、どうして決断できないのかわかりませんでしたが、今は、それが中絶したこと、そして他人任せにしたために恐ろしい選択をしてしまったという気持ちが原因だと確信しています。この問題は、私の人生そのものに大きな影響を与えることになりました。 

この理論の3番目の問題は、動揺させるような情報から女性を「守る」べきという考えにある。情報を取捨選択することで、中絶後の最初の数週間における悲しみ、喪失感、後悔、罪の意識を軽減できたとしても、それが長期的な利益になるという理論を裏付ける根拠はどこにもない。それどころか、否定的な反応の発現を遅らせ、悪化させるだけとも考えられる。たとえば、ジェーンは、19歳の時、妊娠3ヶ月目で中絶手術を受けた。その後、看護学校に入学するまでは、中絶処置のことを思い出すことはほとんどなかった。しかし、ある授業で、胎児の発達について学び、初めて超音波画像を見た。ジェーンは、その情報に直面して、大きな衝撃を受けた。それこそが、クリニックが意図的に隠していた現実だったのだ。 

私は、中絶についてあれこれ質問しました。私の質問はすべて、「心配する必要のないこと」として片付けられてしまいました。私は、赤ん坊の発達状態について尋ねました。カウンセラーは、紙の上に鉛筆を押し付け、小さな点を打ちました。そして「『受精の産物』はこんなものよ」と言ったのです。私は妊娠12週でした。彼女はとんでもない嘘をついていたのです!看護学校で真実を知ったとき、裏切られたことに対して大きな衝撃を受けました。そして、新たな事実を知った私は落ち込みました。悲しくて、看護学校を辞めようかとも思いました。自分の小さな赤ん坊のことを考えて…どうして子どもを殺したりしたのだろう。 

温情のつもりで女性に真実を告げないことの危険性は、ジェーンの例で明らかである。真実をひた隠しにすることが何の役に立つのか?テレビのドキュメンタリーやニュース雑誌の記事で胎児の発達の写真を見た女性のケアは誰が行うのか?出産する予定で妊娠生活を送っているときに、検診に行った病院で胎児の発達を描いたポスターを見た女性に対し、中絶した子どもが、今子宮の中にいる子どもより人間として軽んじられた理由を一体誰が説明するのか? 

4番目の問題は、中絶に関して不安を生じるような真実を隠す行為である。不十分かつ不正確で、偏見に満ちたカウンセリングは、中絶後の精神的問題をさらに頻発させ、悪化させることが統計的に証明されている。[17] 自分の予想が間違っていたことに気づいた女性は、自分自身だけでなく、中絶に関与した人々に対しても、利用されたという気持ちや怒りを抱く確率が高い。 

最後に、対応に不安を抱くことをネガティブな反応のリスク要因とするなら、情報を隠さず、楽観的な期待を誤って植え付けないことが適切な解決策と言える。医療関係者の倫理的義務は、このリスク因子を選別し、追加カウンセリングを行い、さらに、対応への不安が、中絶が女性のニーズや希望を侵害するという事実に起因することが明らかになった場合、望まない中絶を「強制された」と思わなくてすむように、妊娠をめぐる問題の解決を支援することである。 

中絶は精神的リスクを伴わないという誤った期待を修正できなければ、中絶クリニックは、無知だったために、悲劇的で、取り返しのつかない決断をするというリスクを女性に負わせることになる。レイナは次のように述べている。 

中絶の前に私が目にしたどの記事にも、中絶する女性の99.9パーセントは、中絶後にうつ状態になったり、後悔の念に悩まされることはないと書かれていました。それどころか、他のすべての女性と同じように、もう妊娠していないとわかった途端に安堵感を味わえるとも書いていました!その根拠はいったい何だったのでしょうか?私が以前の自分に戻ることはないでしょう!私の人生は完全に変わってしまいました。私と同じように傷つき、苦しんでいる女性がいるのではないでしょうか。 

クープの書簡に対する曲解

中絶後の精神的影響に関する調査は、非常に困難で、政治の影響を強く受けてきた。付録Aは、中絶後に関する研究の問題点を説明すると同時に、研究結果が政治的理由で露骨に歪められた例を検証したものである。 

実際のところ、論文を歪曲して解釈することは、例外ではなく、むしろ通例となっている。たとえば、1989年、公衆衛生局長官のC. エバレット・クープは、レーガン大統領宛の書簡でこの不可解な状態の解明を試みた。書簡の中で彼は、中絶に関する論文を1年かけて検証した結果、注目すべき研究のすべてに「方法論的に欠陥が認められる」と述べている。中絶後、身体的・精神的合併症を経験する女性の存在を認める一方で、クープは、「中絶が女性の健康に与える影響について決定的なデータを示した研究はない」と述べ、こうした合併症の頻度および重篤度を正確に評価することはできないと結論づけた。クープは、書簡の終わりに、1000万から1億ドルをかけて、中絶に関する5年調査を行うべきだと書いている。[18] 

すぐに中絶擁護者たちは、クープの書簡を、中絶における健康リスクは認められないと解釈した。事実、中絶支援者たちは、中絶の安全性はすでに確立されており、研究の実施は税金の無駄遣いであるという理由で、連邦政府の支援による研究を推薦するクープの提案を阻止している。 

クープの結論に対する曲解は、現在でも続いている。たとえば、ウォールストリートジャーナル宛の投書で、家族計画連盟のグロリア・フェルドは、中絶に伴う傷害について論じた社説に対して反論している。フェルドの主張は、中絶のリスクに関する問題は、クープと彼のスタッフによって「十分調査が行われ」、「中絶は女性に対して健康リスクをもたらすものではないと結論されている」というものだった。[19] 

一方、クープは、彼の結論に対する曲解について異議を唱え、次のように述べている。「私は、中絶が、女性に対して短期的および長期的に精神的な悪影響を及ぼすと認識している。私は、こうした問題の存在を確信している。」[20] クープは、既存の研究は、あまりにも不完全で、中絶に伴うリスクや、また、もしあるとすればベネフィットの程度や頻度を正確に立証できるものではなかった(あるいは現在もそうである)と、繰り返し主張している。 

クープがこのように明言しているにもかかわらず、中絶の安全に関する問題がメディアで取り上げられるたびに、フェルドのような中絶擁護者は、彼の声明を曲解し、「C. エバレット・クープでさえ中絶のリスクを明らかにできなかったのに、リスクがあるはずはない。中絶反対のプロパガンダには科学的根拠がない。中絶は安全である。」と主張している。 

このように、誤解されやすい声明が、中絶の安全性に関する誤った期待の継続に与える影響は軽視できない。これらは、政策立案者を惑わすだけでなく、問題のある妊娠に直面している女性やその家族にも誤解を生じさせることになる。こうした声明があることで、彼らは、中絶は「専門家」や政府役員によって「安全」と判断されていると信じ込んでしまう。最も残念なのは、中絶による精神的苦痛を知って、中絶したくないと考える若い女性が、近親者から、中絶による精神的リスクがないことは「専門家」によって証明されているのだから、怖がることはないと説得されてしまうことである。 

真実へのアプローチ

付録Bに記載した理由から、本書で説明した中絶後の問題が実際にどの程度広がっているのかは誰にもわからない。理解していると言う人がいたとしても、それは、情報に基づいた推測を述べているだけである。 

しかしながら、中絶後の問題を経験しているという女性グループの特徴も明らかになっている。本書の付録Cに、平均10.6年前に最初の中絶を経験した260人の女性に対し、エリオット・インスティテュートが行った調査の統計結果を記載した。この調査に回答を志願した女性は、中絶後の感情的問題についてのカウンセリングを求めていた、中絶後のカウンセリングを受けたことがある、あるいは中絶の経験を持ち、その後の妊娠では出産を希望して緊急妊娠センターで助けを求めていた、のいずれかであった。この調査の結果は、中絶に対するネガティブな感情を経験している女性たちを代表した声のように思われる。しかしながら、本試験で報告された割合を、中絶を経験したすべての女性に当てはめるのは不適切だろう。 

我々にとっての最大の課題は、自らの中絶を隠している女性の実態を知ることである。調査員がアプローチした際に、中絶の事実を否定する女性が中絶後にどのような経験をしたかを知ることは不可能である。さまざまな方法を駆使した結果、中絶経験者の約50パーセントがその事実を調査員に隠すことが判明した。[21] 過去の中絶に関する面談を拒む女性を人口学的に比較したところ、中絶後の大きな苦しみを報告する女性の特徴と一致する傾向がある。[22] ブリーンは、この問題について次のように述べています: 

私たちのように中絶後に苦しんでいる人の多くは、その事実を認めたくないと思っています。その感情は、ひどいことはすべて忘れたいという気持ちと同じです。誰かが中絶の話をすると、私は恐怖を感じ、部屋を出て行くか、そのまま黙ってしまいます。自分がしたことを誰にも知られたくなかった。発作的に泣き出してしまうのが怖くて、中絶について聞かれても、そのことについて話したくなかったのです。私は、誰にも見られないように、自分のベッドルームに行くまで涙をこらえていました。 

過去の中絶を隠している女性が抱える問題にアプローチする唯一の方法が、記録に基づく調査の利用である。記録に基づく調査では、女性に対して調査を行うのではなく、彼らの医療記録を直接閲覧する。残念ながら、こうした調査は、わずか4件しか行われていない。 

1件目は、フィンランドの政府記録を利用した調査である。中絶を含め、すべての医療費は、フィンランド政府によって支払われるため、女性が過去の中絶を隠したとしても、この調査結果が歪曲されることはない。ただし、この調査では、時間枠および調査対象とした中絶後の「症状」が限定的である。特に、研究者たちは、7年間に起こった自殺症例のみに注目している。彼らは医療記録を検証し、死亡証明書と自殺前の1年間における出産記録および中絶記録との関連を調査した。その結果、中絶した女性が中絶から1年以内に自殺する確率は、一般人口集団の女性より3倍も高く、出産まで妊娠を継続した女性と比較して6倍も高いことが判明した。[23] 

2件目の調査では、カリフォルニアに住む低所得の女性173,279人に対する医療費請求記録と死亡記録の関連づけを行った。この調査において、研究者は、中絶した女性の死亡率が少なくとも8年間高い状態を維持することを発見した。出産した女性と比較して、中絶した女性は自殺で死亡する確率が154パーセント高く、事故で死亡する確率は82パーセントに相当することが明らかになった(自殺行為が多いためと考えられる)。高い自殺率は、妊娠の転帰から最初の4年間で最も顕著だった。[24] 

3件目の記録に基づく調査では、フィンランド同様、政府支援の医療制度を持つデンマークの政府記録を使用した。この調査では、出産まで妊娠を継続した女性と中絶した女性の記録を検証し、中絶または出産後3ヶ月間における精神科への入院について調査した。研究の結果、「すべてのパリティにおいて、中絶した女性は、出産した女性と比較して、精神科に入院するリスクが高い」ことが判明した。中絶や出産後最初の3ヶ月間における精神科への入院率は、中絶した女性で10,000人中18.4人、出産した女性で12.0人、デンマークの女性全体で7.5人だった。さらに、離婚、別離、死別によって、中絶や出産の時に配偶者の支えがなかったことが、問題として明らかになった。精神科への入院率は、中絶した女性が10,000人中63.8だったのに対し、出産した女性は16.9人だった。[25] 

中絶後の精神科への入院率が意味ありげに高い点について、本調査の研究者が、調査期間を中絶または出産後最初の3ヶ月に限定したという事実に注目する必要がある。産後抑うつ症は、出産後3ヶ月以内に事実上すべての症例を確認できるが、中絶後の精神科への入院の多くは、3ヶ月以上経過してから起こっている。言い換えると、この調査では、事実上すべての産後抑うつ症による入院症例を、中絶後の初期段階での反応と比較していたことになる。 

こうした問題点は、妊娠の転帰から4年間における精神科への入院を調査した4件目の記録調査によりカバーされた。この調査では、年齢集団を問わず、出産した女性と比較して、中絶した女性において、後に精神科に入院する相対リスクが相当高かった。精神疾患の病歴、年齢、妊娠回数について調整を行ったところ、出産した女性と比較して、中絶した女性の入院率は、出産や中絶から90日の時点で最高の4.26倍、4年目の時点で最低の1.67倍だった。これを言い換えると、精神的問題で入院するリスクは、徐々に減少するものの、4年経った時点でも、67パーセントも高いことがわかる。中絶した女性は、適応反応、うつ病、神経障害、双極性障害で入院する確率が特に高い。[26] 

こうした記録に基づく調査は、対象となった反応(自殺および精神科への入院)、追跡調査の期間(3ヶ月~8年)、ならびに不完全な産科受診暦(出産グループの女性の多くが、調査期間の開始前に中絶を経験している)により、限定的なものとなっている。こうした制限はあるものの、これらの調査は、今日まで発表された中では最もよく計画されたものであり、少なくとも一部の女性において、中絶が重大な精神障害を誘発あるいは悪化させることを明確に示している。 

ロサンゼルスタイムスが1989年に3,583人を対象に行った大規模な全国調査では、より軽度な問題の発生が示唆されている。この調査では、過去の中絶を認めた女性の56パーセントが罪の意識を感じ、26パーセントが中絶を選択したことを後悔していることが明らかになった。過去に中絶に関与した経験のある男性では、否定的な反応がさらに大きかった。3分の2が罪の意識を感じ、3分の1以上が中絶を選択したことを後悔していると報告した。[27] 中絶に関する他の調査と同様、この調査において過去の中絶を認めた人の数は、全国平均よりかなり少なかった。過去の中絶経験を認めたのは、女性で8パーセント、男性では7パーセントに留まった。このことから、調査対象となった3人に2人以上が調査員に対して中絶経験を隠していたことがわかる。また、前述のように、「中絶経験を隠している人」が罪の意識や後悔を感じている割合は、「中絶経験を打ち明けた人」のそれよりも高いと考えられる。[28] 

しかしながら、一般の人口集団に、56パーセントが罪の意識を感じ、26パーセントが後悔しているという事実を当てはめると、これがいかに広範囲に及ぶ問題かがわかる。不満率がこれほど高い医療行為が他にあるだろうか?手術を好んで受ける人はいないが、果たして心臓発作を起こした患者の4人に1人が心臓バイパス手術を受けたことを後悔するだろうか?そんなことはないだろう。後悔する人の割合がこれほど高いのは、中絶に限った特徴であり、中絶後長い年月を経ても、男女にとって忘れることのできない心理的葛藤があることが推察できる。 

同様に、中絶以外の手術で、患者の56パーセントにおいて、何年もの間、罪の意識が消えないという手術があるだろうか?そんなものはない。中絶後に罪の意識を感じる人が多いのは、中絶を経験した男女の多くが、自分の経験に対して、精神的にも感情的にも穏やかでいられないことを表している。 

男女合わせて約6000万人が、合法的な中絶によって、1人以上の胎児を失っている。罪の意識を感じている人がわずか3400万人(56パーセント)、自分の選択を後悔している人がわずか1600万人(26パーセント)としても、この数字は、私たちが封印しているネガティブな感情が、国全体でいかに大きいかを表している。 

次の章では、こうした感情を抱く大勢の人が、そのネガティブな気持ちを見つめ、理解し、吐露できる癒しの環境を与えられていない理由について検証する。 

Burke, Theresa (バーク・テレサ)
David C. Reardon 共著
Forbidden Grief: Chapter 2
Copyright © 2004
許可を得て複製
www.lifeissues.net