元旦に実家に戻りました。私が今住んでいる家から実家に至る道すがら,太平洋が開けて見えます。今年の正月は天気が良かったので,青い海がとてもきれいに輝いていました。
皆さん,あけましておめでとうございます。報道によればインフルエンザ等の感染症が大流行中とのこと,こうして,年末以来,このフロジャク講堂で皆さんにお目にかかれたことを大変嬉しく思います。
さて,東星学園はカトリックのミッションスクールなわけですが,カトリック教会は,25年ごとに特別な年を定めています。それを聖年といいます。かつては100年に1回,あるいは50年に1回,あるいはキリストの生涯年数と同じ33年に1回などという時代もありましたが,1475年以降は,25年ごとに聖年が実行されています。
キリスト者は,キリスト者に限らないでしょうが,人間はいつも平和,誘惑から守られること,そして,罪のゆるしを求めて祈っています。特に聖年には,それを一層心がけ,神様に自らの罪—ここで罪とは,行ったことだけではなく,思ったこと,やるべきなのにしなかったこと,悪い言葉を使ってしまったことを指します。思い,言葉,行い,怠り,これらは私たちが日常に犯してしまう罪です—を聖年には,自分を糾弾し,神様に告白し,恵みによってゆるしをいただき,また新たに生きなおすことが,神からの恵みとして一層求められています。
今日は,罪という言葉をたくさん使っていますが,人は歳を取れば取るだけ犯した罪の数は多くなります。聖書にも,重い罪を犯した女性を人々がイエスの前に差し出し,律法では石打の刑に処されるはずだと訴えたときのイエスと人々の様子が書かれています。イエスが罪を犯した女性を突き出した人々に対して「あなた方の中で罪を犯したことのない者が,まず,この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書8章7節後半)と言ったところ,「これを聞いた者は,年長者から始まって,一人また一人と,立ち去ってしまい,イエスひとりと,真ん中にいた女が残った。」(同9節)と書いてあります。つまり,生きるということはそれだけ多くの罪を犯してしまう,あるいは,犯さざるを得ない,という過酷さがあるということなのでしょう。
こうした前提に立ってであると思いますが,教会は,今回の聖年のテーマを「希望の巡礼者」としました。
皆さん,弱者や,負い目を持っている人,あるいは虐げられている人にとって,何が一番辛いでしょうか。大きな支えを失ってしまった人,罪を犯してしまった人,失敗ばかり繰り返している人,人からばかにされている日常を送っている人,いじめられている人にとって何が辛いかのか。もちろん,実際に起こってしまった事実や起こっている事実に直面することも辛いです。しかし,それよりも辛いことは,こんなことがいつまでも続くのかと思えてしまうこと。つまり,希望を失ってしまうことが最も辛い。希望を持てないまま生きていくことには大きな苦しみが伴います。
しかし,皆さん,私たちは「希望の巡礼者」です。私たちは一人ひとりが巡礼者ですが,希望を持つことができます。教会が定めた聖年「希望の巡礼者」のロゴは,私たちにそのことを思い起こさせてくれます。このロゴには真ん中に,赤,黄色,緑,青の各色をした4人の人間のモチーフが描かれています。これは地球上の四方向から人が集まっていることを意味しているのでしょう。アジア,アフリカ,アメリカ,オセアニアの四大陸と捉えてもいいのかもしれません。それぞれの人が散り散りになっているのではなく,同じ方向を向いて身を寄せ合っており,それぞれが前の人の体を支えているようにも,前の人につかまっているようにも見えます。それら4人の人々の下には海(あるいは湖・河)の波が描かれています。これは4人の人,すなわち,世界中の人々が巡礼者であることを象徴しています。巡礼では楽な道ばかりを通るわけにはいきません。ときには波風高い海原に身が翻弄されることもあります。この巡礼は,人の人生を指しているといえるでしょう。人生において苦難はつきものです。大荒れの波の中を往かなければならないときもあります。しっかり何かにしがみついていないと大波に飲み込まれてしまいます。このロゴは,そんなときのためにも救いのシンボルとなるでしょう。第一に人々が散り散りならずに,身を寄せ合って乗り越えようとしている姿がメッセージされています。そして,第二に,こちらの方が第一より,根底的なことなのですが,先頭の一人が十字架を抱いています。あるいは掴んでいます。このことによって,その他の人も沈まずにいられるのです。
人が寄り縋っている十字架はまた,錨にも連なっています。この錨も重要です。私たちが荒波に遮られ前に進むことが困難なとき,敢えて進まずに停止することにも意義を見いだすことができます。ただし,そのときに,立ち止まっている,あるいは進めない自分の位置を見失っては,さらに解決が困難になる場合があります。そんなとき,錨を下すことによって,漂流することを食い止めることができます。錨を下ろさずに,船のエンジンを止めるだけでは漂流が始まってしまい,やがては難破してしまう,あるいは,目指していた陸地を前にして衝突分解してしまうかもしれない。そうしたことを食い止められるのが錨です。錨を沈め,嵐が過ぎ去るのを待つ。
嵐はいつか去ります。そのときに,錨を上げて再出発すればいいわけです。待つのは辛い。嵐が過ぎ去るのを待つことは辛いかもしれない。しかし,海に投げ込んだ錨が十字架に連なっているのであれば,必ずあなたは救われますし,助けられます。失敗・破産・孤独・後悔は新しい何かの始まりです。十字架はそのシンボルです。人間の有限な感覚からすれば,イエスは人間としては大失敗をしたことになります。十字架上で処刑されたのですから。しかし,一方で,永遠の方,無限なる神から見たら,それは新な命,新しい永遠の命へ至る出発点となったわけです。
また,ロゴ中の人が独りでではなく,4人が身を寄せ合っていることは,繰り返しになりますが重要です。人は他人と共にいることによって,神と共にいることになるのです。
私たちは,十字架のもとに錨を下ろし,嵐が過ぎ去るのを待ちましょう。そして,時が来たら錨を上げて,漕ぎ出そうではありませんか。
海は広いです。
Ooya Masanori(オオヤ マサノリ)
大矢 正則
東星学園校長
Copyright © 2025年1月8日
2025年1月17日掲載許可取得