09 カトリック平和旬間に

6日の広島原爆から9日の長崎原爆を経て15日の終戦記念日までの10日間は日本カトリック司教団が設定した“カトリック平和旬間“である。今年もわたしは一人のカトリック者としていろいろと考えをめぐらした。方や金融危機に始まる世界同時不況がもたらした世界の混乱があり、方や戦争や国際テロ、さらには民族紛争などによる血なまぐさい殺し合いが頻発して、世界中があらためて平和への思いを新たにしている。

地上の平和をつくるためには、社会的構造(外的平和)と個人的な心構え(内的平和)の両面が重要である。社会的構造とは人間の尊厳と権利を守るための社会の仕組みのことで、家庭に始まって国際社会に至る各共同体における共通善の確保を意味する。そのために、ますます多くの人が平和について考え、そして努力してきた。しかし、冒頭でも書いたとおり、平和は遠く、混乱し矛盾した社会構造の中で多くの人が苦しんでいる。それは、的外れの考えや行動によるのではないだろうか。

社会的な構造としての平和の仕組みとは、要するに、世界の人々が人間として暮らしていくために必要な「家庭と仕事を持てる」という単純なことに尽きるのではあるまいか。いつだったか、被差別部落問題の研修会で知ったのは、面白いことに差別の実態は、結局「結婚差別」と「就職差別」であるということであった。換言すれば、自由に結婚でき、そして家庭を守るために必要な仕事があれば、人間は一応幸せであり、世界は平和であるということであって、この単純なことが一部の人間のとどまることを知らない欲望のために守られないために、多くの人が不幸になり、世界は対立して乱れるのである。昨年来経験した金融危機の教訓もそのあたりにあったはずだ。しかし、経済大国だ、国際競争だ、と叫ぶ大企業本位の経済対策ばかりで、多くの若者が仕事に就けず、結婚もできない状態を放置することになれば、平和は遠のく。

一方、個人の心構えの問題は、言うまでもなく一人ひとりの平和に対する理解と関心のことであって、この面でも多くのことが考えられ、語られてきた。しかし、一人のキリスト者として次にあげる聖パウロの言葉を黙想するとき、平和の障壁、つまり、互いに別れ争う「敵意」や「無関心」を取り除くことの重要性を想起せざるを得ない。聖パウロは書いている。

「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。(分裂していた)二つのものを一つにして、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェゾ2,13-18)。

ここに言われているのは神の選民としての自覚と優越感に浸っていたユダヤ民族と異邦人(ユダヤ民族以外の人々)との区別と対立を前提として読まなければその意味がわかるまい。人間となった神の独り子イエス・キリストは、万民共通の人間性をとることによって全人類と結ばれ、ユダヤ人と異邦人との区別や差別を超えられた。そのうえ、十字架上にて全人類の罪を背負い、これを自らの犠牲によってあがなうことにより、一つのなった人類という、新しい人間性を創造された。従って、真の意味において世界が一つになり、平和を実現するためには、キリストを信じてこれに結ばれ、新しい人間に変わらなければならない。それは、人間がキリストの模範と恩寵の助けにより、内部矛盾を克服して愛の人に造り変えていただくことを意味する。

このような意味において、世界平和は人類共通の悲願ではあるけれども、わたしたちキリスト者にとっては、「わたしたちの平和であるキリスト」を宣べ伝えて、世界中をキリストのもとに一つにしなければならない。つまり、福音宣教こそがわたしたちにとって本当の平和運動でなければならないということである。カトリック平和旬間の真意がそのあたりにあることを改めてかみしめたいと思う。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の思い
Copyright ©2009年8月10日掲載
生前許可を得て2022年08月15日複製