日本 プロライフ ムーブメント

「食べる」:たがしゅう哲学カフェ in 新宿の御報告

台風一過、波乱の週末が明けた後の鹿児島は晴れやかな天気が待っていました。

さて本日は、その週末の間に東京で2日連続でゲリラ的に開催した哲学カフェの内容について振り返っておこうと思います。

まず初回の土曜日は、「食べる」をテーマに6名の参加者で語り合いました。

小川仁志先生の哲学カフェでの問いかけを参考に、まずは「もし食べなくても生きられるとしたら、それでもあなたは食べますか?」という質問で始めてみることにしました。

必然的に参加者は皆たがしゅうブログの読者なので、程度の差こそあれ全員糖質制限実践者です。

食べるという事への執着が少ない人も多いかと思いましたが、これについての意見はほぼ等分された印象でした。 つまり糖質制限実践者でも食べることに価値を強くおいている人と、それほど強い執着がないという人に分かれるということです。

その違いはどこから生まれるのかという事にも興味は及びますが、食の価値観を高める要因が何かということをもう少し掘り下げて知るために、「生命を維持するため」という以外にあなたが食べる目的は何かということについて意見を求めました。

その中で「こどもは成長するために食べるけど、大人にはその要素はない」という面白い意見が出ました。

確かにこどもは食べることによって成長します。しかし大人は食べれども脂肪の蓄積はあれど骨格や体格自体が成長する事はありません。

ならばその違いはどこにあるのかという事を考えていくと、「大人は成長していないように見えて実は成長している」という発想に行き着きました。

いわゆる体格が大きくなるという意味の狭義の成長は確かにこども時代にしか訪れませんが、大人の身体を構成する骨や筋肉や皮膚、その他様々な組織も基本的に新陳代謝が行われていて常に部品交換がなされています。

いわゆる「動的平衡」と呼ばれる状態だと思いますが、それを広義の成長と捉えれば、こどもにしても大人にしてもヒトは皆成長するために食べているという風にも言えるかもしれません。

その純粋に体格が大きくなる狭義の成長から必ずしも大きくならなくてもよい広義の成長へ変わる生物学的な要因はまた別に存在するのでしょうけれど、ここではその要因が何であるかという事にはあまりこだわりません。物事の本質について考えていくのが哲学の基本的スタンスです。

あるいは「食品産業が生計を立てるために食べるよう誘導させられている」というまた視点の異なる意見も出ました。

つまり何か目的があって食べているというよりも、いつの間にか気づかないうちにそうさせられているという視点です。

そしてその原因が複雑化した社会構造にあるのであれば、それをなかなか変え難いという事実に直面させられます。

もし食というものがなくなれば、食で生計を立てている企業、関連会社、膨大な数の人達がお金が稼げなくなってしまいます。

従ってもし皆が一斉に食べることを止めてしまったら、社会システムが立ち行かなくなるわけなので、もはや私達は食べないわけにはいかないという意見です。

こういう御意見を聞くと私は、やはり食の本来の重要性は過剰に駆動された欲望とともに過大評価されてしまうようになり、それがいわば不可逆的な段階まで肥大化してしまって歪みを生じてしまい、本来の姿に戻そうにも軌道修正困難になっているという状況が頭に思い浮かびます。

まるで進行したパーキンソン病を元に戻そうと軌道修正するのが困難な状況かのようです。

そのような状況に対して、私達は一体何ができるのでしょう。多くの場合、今更食べないわけにもいかなくなってしまっている状況です。

少なくともそのようなこじれた状況に今私達がいるという事に自覚的になることから始めるべきなのかもしれません。


これとは別にまたもう一つ面白い話題が出ました。

「糖質制限の指導者にアルコールに対して寛容な人が多いのはなぜか?」というものです。

確かに私の二大師匠、江部先生も夏井先生もお酒は大好きです。

糖質制限はきわめて理論的な治療法であって、身体に必須でなくかつ摂りすぎると有害となる物質を除くというシンプルかつわかりやすい治療法です。

それならばアルコールも同じく「身体に必須でなく摂りすぎると有害となる物質」であるので、理論的に考えればアルコールを飲む理由はなくなるはずなのですが、実際は両先生ともアルコールをそれほど制限されているように思えません。

それに対してアルコール好きの参加者の方から「お酒を飲む時間が1日1回まるで疲れた身体をマッサージするかの時間になっている」という御意見がありました。

私流に言えば「アルコールをストレスマネジメントに活用している」と言えるでしょうか。

要するにここにおいては身体に悪い、必須ではないといった理論的な云々はおいておくにしても、

アルコールを摂取することが自分にとってのいやしであったり、ほっと一息の時間になっているという紛れもない事実があるということです。

という事は、それは糖質についても同じことが言えないだろうかという発想が思い浮かびました。

つまり、糖質は必須ではなく摂りすぎると身体によくないけれど、それがいやしやほっと一息の大切な時間を生み出しているのであれば必ずしも悪いことではないのではないかということです。

問題はその行動の元となっている欲望がコントロールできているかどうかということですが、「食べる」という行動は欲望とセットで動いている所があります。

欲望ゼロで食べるという行動に出る事は基本的にないはずです。何せ他の生物の命を奪うという行為であるわけですから。

その欲望ベースで動いている「食べる」を暴走させるかさせないかを決めているものは何なのでしょうか。

ある人にとっては適切な糖質摂取で良好なストレスマネジメントになっていることでも、かたや過剰な糖質摂取で自分はやめたくてもやめられず明らかに健康を害しているという人もいます。

どちらも欲望ベースで動いているには違いないわけですが、両者は明らかに違った道を進んでいると思います。

一体何がその違いを生み出しているのでしょうか。

一方で話題を「ダイエット」にも切り替えても意見を募ってみましたが、ダイエットの方が欲望ベースでは動いていないという意見が出ました。

やせたいという人は生物学的な欲求ベースではなくて、常にその欲求は社会生活の中で獲得された高次の欲求、つまり小さい頃からテレビの情報にさらされて、やせている人が素敵だという価値観が植え付けられて、結果、動物の世界では誰も望んで行動しないはずの「ダイエット」という不自然な行動にヒトを駆り立てているのだという意見です。

そう考えると「食べる」という動物界共通の生理的現象が、ヒトの世界だけでいかに肥大化して過大評価されて、さらには180度違った方向へと歪んでいる構造が見えてくるような気がします。


そんなことをあれやこれやと語り続けて、あっという間に1時間が過ぎ終了となりました。

短い時間でしたし、これといった結論が導かれたわけではなかったですが、参加された方々からは口々に参加してよかったとのコメントを頂くことができました。

今回ゲリラ的に哲学カフェを開催してみてわかったことはいくつかあります。

例えば、同じテーマで哲学カフェを開催したとしても、参加メンバーが違えば話の展開が大きく変わってくるということ、また割と少人数であったとしてもそれなりに成立するということ、さらに私のように哲学の初心者が開催したとしても、哲学カフェは参加者にとって割と満足のいく催しとなりうるということです。

そして事前告知は急だったにも関わらず、これだけの人数に集まって頂くことができました。

今後この活動をどのように発展させていくべきかという方向性が少し見えたような気がしています。

もう一つ、「幸せ」について語り合った2日目の哲学カフェのレポートに関しましては、長くなるので次回改めて書かせて頂きます。

Shuugo・Tagashira(タガシラ シュウゴ)

田頭 秀悟

オンライン診療医

出典 たがしゅうブログ

主体的医療ダイアロジカルスクール(Proactive Med Dialogical School)

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