日本 プロライフ ムーブメント

私たちは皆、知っている

 キリスト教の聖典「聖書」、仏教の経典、イスラム教のコーランを読み直さなくても、私たちは皆、知っているのではないか。何が善であり、何が良くないことかをだ。家庭では両親から、学校では教師から様々な事を学ぶが、私たちの中にはそれ以前にアーキタイプとも呼べる基本的な元型が刻み込まれている。即ち、筆を持って白紙に絵の具を塗るように、私たちは生まれてから学びだす知識はあるが、何が善であり、悪かという基本的価値観は既に織り込み済みではないか。
 

 それでは、どうして世界には戦争や紛争、いがみ合いや虚偽が満ちているのか、という疑問が当然出てくる。「分かっちゃいるけど、やめられない~」といった植木等さんの「スーダラ節」のセリフがあった。注意しなければならない点は、決して「分かっていないので、やめられない」のではないことだ。分かっていないのならば、何をしても許されるかもしれない。ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の主人公イワンのように、「神がいなければ全て許される」といった世界にもある程度通じる。

 私たちが悪いことして刑罰に処されるのは、何が善で、何が悪かを知っているという前提があるからだろう。善悪について全く白紙の罪びとに「お前がしたことは悪だ」と言って刑務所送りにすることは基本的にはない。

 それでは次だ。私たちは皆、知っているのに、どうして悪いことしたり、他者が苦しむ事をあえてするのだろうかだ。ここで「分かっているが、やめられない」という世界に入る。このテーゼは深刻だ。

 人工知能(AI)が広がり、多くの分野でAIが人間に代わって仕事をしてくれる時代圏がやってきている。そのAIは「分かっているが、やめられない~」と呟かないだろう。分かっているからするのであって、分からないのならばディ―プ・ラーニングを通じて再学習するだろう。人間だけが、「分かっているが、やめられない~」と嘯き、悪事を繰り返すことできる。AIは矛盾した世界には耐えられないが、人間はその矛盾した世の中の苦界をなんとか泳いで行こうと腐心する人々が出てくる。そこにAIと人間の差が出てくるわけだ。

 「分かっているが、やめられない~」の世界の極致は、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルが小説「1984年」の中で描いた「ビック・ブラザー・イズ・ウオッチング・ユー」の世界だ。「2+2」は4ではなく、5だと教えられる。その掟を破れば処罰される。矛盾、虚偽が正当化された世界だ。

 存在が矛盾を抱えている時、その存在は本来、苦悩せざるを得ない。なんとか矛盾から脱出したいともがく。その苦悩から解放されるために、宗教と科学が生まれてくる。科学者は宇宙・森羅万象から知を探求し、宗教者は自身の矛盾からの脱皮を求め修行を繰り返す。宗教が先行していた中世では科学は異端視され、科学至上主義の現在は宗教は科学から軽視される、といった具合だ。

 キリスト教を世界宗教にした聖パウロは「私は、内なる人として神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私を虜にしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(「ローマ人への手紙」第7章22節~24節)と嘆いている。まさに、聖パウロ自身が「分かっているがやめられない」という矛盾の中に生きていることを告白した有名な箇所だ。

 ところで、聖パウロですら矛盾と葛藤の世界で苦悩しているとしたら、通常の私たちはその矛盾の世界での戦いに勝利することなど期待できない、といわれれば、その通りだよな、と言わざるを得ない。ただ、聖パウロもそうだったが、私たちは本来、何が善であり、悪かを知っているのだ。そして悪事をすれば、自分は知っているから、程度の差こそあれ良心の呵責に悩みだすことになる。

 「聖パウロの悩み」はAIになく、人間だけが共有しているものだ。人間の威厳はそこにあるのかもしれない。アベルを殺害したカインの子孫には「カインの印」が記されているというが、矛盾の世界に落ちてしまった私たちも皆、知っている。すなわち、私たちには「神の印」が捺されているわけだ。

Editorial (オピニオン)
国連記者室 

出典 ウィーン発『コンフィデンシャル』

Copyright © 2025年07月13日
2025年9月8日許可を得て複製