日本 プロライフ ムーブメント

アフガニスタンに尽くした日本人

先日、タリバンが政権奪取した混迷のアフガニスタン。つい数年前まで30年以上アフガニスタンのために尽力、献身した故・中村哲医師のことが思い出されます。


 先日、タリバンが政権奪取した混迷のアフガニスタン。JICA関係者をはじめとする多くの日本人民間人がまだ出国できない状況下、先が見通せない辛く困難な日々が続いています。そういう中で、つい数年前まで30年以上アフガニスタンのために尽力、献身した故・中村哲医師のことが思い出されます。

 2019年12月4日、中村哲さんは車で移動中、何者かによって襲撃され、帰天しました。享年73歳でした。歌手のさだまさしさんは故人を偲び追悼して『ひと粒の麦~Moment~』という歌を作詞・作曲しました。

“ひと粒の麦を大地に蒔いたよ。ジャラーラバードの空は蒼く澄んで

踏まれ踏まれ続けて いつか その麦は砂漠を緑に染めるだろう(中略)

Moment 薬で貧しさは治せない Moment 武器で平和を買うことはできない

Moment けれど決してあきらめてはならない

ひと粒の麦の棺を担う人に伝えてよ 悲しんではいけない(以下略)”

中村さんの生涯をよく表現した詩ではないでしょうか。

 キリスト者中村哲医師のことを、少しご紹介したいと思います。1946年福岡市に生まれた彼は西南学院中学校というミッションスクールに進学します。プロテスタント系学校では聖書の授業があり、日曜日には自宅近くの教会に行くよう勧められます。中村さんは香住ケ丘バプティスト教会に毎週熱心に通ったそうです。実は、彼の尊敬する伯父で高名な文学者・火野葦平が53歳の若さで自死する出来事が起き、生と死、生きる意味をこの年齢で重く投げかけられていた時期でした。中学3年生の時、受洗。人生の苦難や痛みを抱える者にこそ、「天(神)は、共にあり(おられる)」と悲しみを慰めと希望へと変えてくださるキリストの福音に触れることができました。

 高校は進学校として定評ある県立福岡高校に進みますが、教会へは通い続けます。その教会の牧師は若くして不慮の交通事故で両目を失明した藤井健児牧師でした。全盲になった苦労を乗り越えて、神と他者に仕えて生きる牧師の姿は若き中村さんの心を打ちます。自然や生物が大好きで農学部志望だった彼は、「藤井先生のような病の人を救う医者になる」という明確な人生の目的が示され、九州大学医学部に進学します。その後、日本キリスト教海外医療協力隊から派遣され、パキスタンのペシャワールに赴任したのが1984年のことでした。そのことが、やがて人生を賭けることになるアフガニスタンへつながっていくのでした。

 中村医師の追悼礼拝の際、友人代表として弔辞を読んだ和佐野健吾氏(西南学院中学時代の同級生)は中村医師を支えた力の源として、人生の分岐点に立ったとき「イエスならどうなさるだろうか」と考え、それに忠実に従おうとしたことだ、と指摘しました。

 アフガニスタンに派遣されたのは医師として各地の病院や無医村地区で医療活動を担うことでした。しかし、ある時はサンダル製造工場長、ある時は1600を超える井戸掘りの司令官、そして紛争で荒れ果てた畑に水を引くため25キロ以上の用水路を掘る土木技術者として働きました。派遣された場所で、人々のため、また神が喜ばれることであれば「どんなことでもする」という精神。その精神がいかんなく発揮されたのは、キリスト者でありながら、イスラム教寺院(モスク)を建てるために奔走する姿でした。まず、その地域の人々と共生し、そこで仕えることをキリストが望まれているという信念に基づいた行動でした。

「武器ではなく命の水」を送りたいと語り続けた中村医師は現在のアフガニスタンをどのように見つめているのでしょうか。愛と平和の一粒はきっと意味を持ってくるはずだとの希望と確信を持って、天国からアフガニスタンの大地と人々に目を注いでいるに違いありません。

(中村哲著『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版)2013年刊行、常盤台バプティスト教会季誌「めぐみ」333号、以上を参照しました)

 Matsuo Mitsugi(マツオ ミツギ)

松尾 貢

主任司祭

出典 カトリック碑文谷教会ブログ

Copyright ©2021年9月12日

掲載許可取得日  2025年9月9日