日本 プロライフ ムーブメント

避妊に対する教会の道徳的教え

 

イエスは、もし誰かが教会の教えさえも聞くことを拒否するなら、あなたが異教徒や収税役人を扱うごとくにその人を扱えと言われるとき、私たちに非常に厳しい警告を発せられているのです。言い換えれば、もし教会の教えを聞くことを拒否すれば、とても困ったことになるとイエスは私たちに言われたのです。ある特別な道徳的問題が一つあり、その問題に関しては、多くのカトリック教徒が教会の教えに即した考え方をしていない、又は行動をしていないことが調査によってわかっていますが、それは、実際かなり不幸なことなのです。

さてこの道徳的な問題とは何でしょう。今おそらくあなた方の大部分が、私が中絶のことを話すとお考えでしょう。そうではありません。私はそれよりもっと根本的な問題について話すつもりですが、その問題は道徳的に悪であり、中絶への扉を開くものです。私の考えでは、それは今日おそらく最も重要な道徳的な問題です。この悪は他の何よりも私たちの社会と私たちの教会に害を与えてきました。それは実際非常に重要なので、このテーマに関する説教を何度も続けて行いたいと思います。もうこの道徳的な問題が何かおわかりでしょう。

前置きとして、ちょっとしたクイズをしてみましょう。それは3問からなるクイズで、(Ο)(X)式の問題です。自分だけで答えてみて下さい。大きな声で答えを口に出して言ってはいけません。最初の質問はこれです。(Ο)でしょうか(X)でしょうか?

  1. 1930年以前に、避妊は道徳的に許されると認めたキリスト教会は全くない。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?
  2. プロテスタントは19世紀に避妊に反対する法律を可決した。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?
  3. 宗教改革の指導者たちは、不自然な形態の産児制限に強く反対した。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?

正直に言ってください。3問全てに(Ο)と答えた人は何人いますか?それが正解、つまり3問全問○なのです。1930以前に避妊を認めたキリスト教会はないということは歴史上の事実です。実際、1930年になるまで、全てのキリスト教会は不自然な形態の産児制限を強く非難していました。1930年になって初めて、英国国教会のランベス会議がある特別な場合に限ってそのようなものの使用を許したのでした。私たちのプロテスタントの立法府が避妊具の購入と製造あるいは使用までも禁止する罰則つきの法律を可決したのは前世紀の歴史的事実でした。避妊は法律に反することでした。最後に、宗教改革の指導者たち、特にマルチン・ルターは不自然な形態の産児制限を強く非難しました。したがって、キリスト教の歴史の少なくとも1930年間は、避妊は全てのキリスト教徒によって非難され、大きな悪とみなされたと理解することができます。

さて、なぜキリスト教徒はそのようなことを教え、カトリック教会は今も不自然な形態の産児制限を重大な道徳的な悪だと教え続けているのでしょうか。実際、それは道徳的な罪なのです。なぜ教会はそのように教えているのでしょうか。それは、そのように神が明らかにしたからなのですが、そのことは神の啓示において見ることができます。今日は、神がこの問題についてまさにどこで私たちに話しておられるか、かいつまんでお話ししましょう。まず私たちは、人間のいのちとその価値について神が教えておられることと、人間のいのちがこの世に生まれるのを神が望んでおられることを心に留めておくことが必要です。まず、「創世の書」の中の、神がアダムとイブを創造した直後の章で、第1章28節に記録されている命令を神が二人に与えられたことを思い出してみて下さい。神はアダムとイブにこのように言っておられます。神は人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ。」と言われました。「生めよ、ふえよ」なのです。そして150編からなる「詩篇」を読めばわかるように、神は子どもは神の贈り物だと私たちに話しておられます。子どもは、大切にしなければならないものなのです。たとえば、「詩編 127:3」において、神は「見よ、子らは主の贈り物、胎の実は主の報いである。」と書かれてあります。言い換えれば子どもは贈り物なのです。今私たちはこのことを心に留めておく必要があります。というのは、明らかに私たちはこのような考え方を推し進めない社会の中で生きているからです。実際ローマ教皇は、非常に悲しいことに、私たちは死の文化、死を推し進める社会に住んでいると繰り返し繰り返し私たちに話してこられました。

つい昨日のことですが、私は、中絶をする前に24時間の猶予期間を女性に与えることを要求しているアメリカの法律について読んでいました。それには、女性は中絶クリニックヘ行く時に、胎児の心音を聞く機会が与えられなければならないと書いてあります。彼らは女性に胎児の心音を聞かせ、それから彼女が決断を下すための時間を与えなければならないのです。しかし中絶賛成派の人々は、このことに反対し、これは中絶を排除するためのなんらかの企みだと言いました。もちろんそのことはばかげたことですが、それは私たちが死を推し進める考え方の道をまさにどこまで歩んでいるか示し、私たちがいのちより死を優先していることを示しているのです。

神が人間のいのちをこの世にもたらすことにおいて、私たちに寛大であるように望んでおられること、そして人間のいのちが神からの贈り物であることはわかります。しかしそうならば、次のような疑問が生じるかもしれません。「神は不自然な産児制限の手段について特に何か言っておられるでしょうか?聖書に何かそのような記述があるでしょか?」答えはイエスです。書かれてあるのです。再び「創世の書」第38章にそのことが書かれてあるのがわかります。どう書かれてあるかを読む前に背景的なことを少しお話しする必要があります。旧約聖書には特別なおきてがあり、それによると、男が妻をめとり子どもが生まれる前に死んだ場合、その兄弟がその妻、つまり寡婦をめとり、その女性との間に子どもを作り、その子どもは死んだ男のものとならねばならないということでした。それが旧約聖書のおきてでした。このような特別なケースは第38章において見られるのですが、エルという男がタマルという名前の女性をめとって妻としますが、二人の子どもが生まれる前にエルは死んでしまいます。そこでエルの父であるユダは息子のオナンにタマルをめとって妻とし、子どもをつくりその子どもをエルのものとするように言います。それから話は次のように続きます。

「しかしオナンは、生まれる子が自分のものにならないと知り、兄の妻と寝るたびに、兄に子孫をやらないように地に流すのだった。」

彼が地に流したことに注目して下さい。神は彼が行なったことに激怒し、彼のいのちを奪ってしまいました。その罪、つまりオナンが行なっていた不自然な行為に対する罰として神は彼のいのちを奪われたのです。神はそれを道徳的大罪とみなし、その罪に対する罰としてオナンのいのちを奪われたのです。そして、お気づきでなかった人もいると思いますが、そのような不自然な産児制限の行為が教会の歴史において最近まで何と呼ばれてきたかを知ることはとても興味深いことです。その行為は「オナニズム(オナンの法)」と呼ばれてきたのです。そう呼ばれるのは、「創世の書」の中のまさにこの場所に書かれていること、つまりオナンによって実行されたこの不自然な産児制限の行為のためなのです。「オナニズム」という言葉の起源はまさに聖書のこの部分にあるのです。それは、神が好ましくないと考えておられることを明確に私たちに示しています。それは神がこの特定の行為、つまりこの不自然な形態の産児制限に強く反対しておられるということを示しているのです。

さて避妊への動きが強い現代、聖書の研究者の中にはこの文章の解釈を改めて行ない、オナンは彼が行なった特定の行為のために罰せられたのではなく、そのおきてを快く受け入れようとしなかったために罰せられたと言う人もいます。

しかし、「第二の法の書 第25章」に記録されているように、おきてを守らないことに対する罰は死でなく、むしろ人前ではずかしめを受けることです。したがって、それは、その特定の行為は神の目には非常に許しがたいものであったので、神がオナンが犯した罪に対して特別な罰を加えられたということを私たちに教えているのです。そしてもちろんそれは最初からずっと教会によってそのように解釈されてきたものであり、それは神が不自然な形態の産児制限の行為を非常に快く思われていないということを示しているのです。 

新約聖書の中に産児制限のことについて触れているところがあるだろうかと思うひともおられるでしょう。あると考えている聖書研究者もいます。「ヨハネの黙示録 第21章8節」で神は次のように話しておられます。「だが、臆病者、不信仰の者、いとうべき者、殺害者、淫行者、魔術者、偶像崇拝者、すべてうそをつく者は、火と硫黄の燃えている池すなわち第二の死を受ける。」言い換えれば、神はここで私たちに、もしこのようなことを実行し悔い改めなければ地獄が永遠に私たちの運命になるだろうと言っておられるのです。十分に注意を払って耳を傾けていても、もちろん避妊という言葉やそのような響きの言葉は聞こえなかったでしょう。ここで言われている言葉、又は避妊を表すために使われている可能性のある言葉は「まじないをする者」という言葉です。それは、ギリシャ語で書かれた原典において、そこで使われている言葉は[pharmacaea]であり、その言葉は英語の[pharmacy](薬学)、又は[pharmaceutica1](薬学の)のように聞こえるからなのです。そして、ここで言われていることは第一世紀における避妊の行為だといくらかの聖書学者によって考えられています。おわかりのように、避妊の歴史は古いのです。それは20世紀に生まれたものではなかったのです。それはキリストの時代、さらにはそれ以前までさかのぼるのです。

当時、その時代の女性たちは、ある薬または薬草を調合し、それが流産を引き起こすか、又は妊娠を防ぐことになると信じて、それらを飲んだのです。そのようなことが当時行なわれていて、この[pharmacaea]、つまり「まじないをする者」という言葉がその行為、つまり妊娠を妨げる又は中絶を引き起こすためにそのような薬を調合するという行為を指していると信じる聖書学者もいるのです。したがって、そのことは新約聖書においても述べられているといくらかの聖書学者によって考えられているのです。結論は、現在までの2000年の間カトリック教会は、そして1930年の間ほとんどのキリスト教会は、この特定の行為、つまりこの不自然な形態の産児制限の行為を強く非難してきたのです。そしてそのことは聖書のなかに見られる、神の啓示の証言に基づいているのです。

今日カトリック教会の中にもこの特定の問題の解釈を変えることを要求している教会がたくさんあります。そこで私は、聖霊が教会を導くのではないでしょうかと彼らに尋ねたいと思います。最終的にそれは、キリストと聖霊がカトリック教会を導いているという私たちの信仰の根本的な信念なのです。それでは、聖霊がこの問題に関して間違いを犯したと思いますか?聖霊は2000年間教会を導いてこなかったのでしょうか?私たちは聖霊が私たちを導いていくけれども、それ以前の私たちがまちがっていたので、今聖霊の気持ちが変わったと突然に言うつもりですか?そんなことが意味をなすでしょうか、また論理的に思えるでしょうか?いいえ。聖霊によって導かれた教会はこのような行為が悪であると2000年の間説き続けてきて、これからもそうし続けるでしょう。そしてその理由はもちろん神がこのようなことは道徳的に間違っていると私たちに教えてこられたからなのです。宗教の時間に私がこのようなことを生徒に教えるとすぐ手が上がり、「神父さん。これは、もし私が良きカトリック教徒の母親となろうとするなら、25人子どもを産むように努力をしなければならないということを意味しているのでしょうか?私は出来るかぎりの子どもを産もうと努力しなければならないのでしょうか?それが教会の教えなのでしょうか?」という声がします。さて皆さん、その質問に対する答えについては、次の説教までお待ち下さい。

今カトリックの夫婦は、どのくらいの子どもを産むように神から求められているのでしょうか。自分たちを良き聖なるカトリックの夫婦と考えるために、カトリックの夫婦はたとえば25人もの子どもを産まなければならないのですか、というこっけいな発言に答えないままにしておいたのですが、その質問に今お答えしましょう。35年前の第ニバチカン公会議において示された教会自身の教えを参考にするのが一番良いでしょう。その1965年の公会議の最終文書が「Gaudium et Spes」つまり「現代世界憲章」であったことを思い起されるでしょう。「Gaudium et Spes」の中には、人間のいのちの問題、つまり子どもをこの世界にもたらすことに関する部分があります。私は、私たちの教会のその公式の教えを参照することによってその質問に答えることがよいと考えました。私は特に50節目を参照し、それを読んで見たいと思います。そこには次のように書かれてあります。「婚姻と夫婦愛はその本性上、子どもを産み育てることに向けて定められている。事実、子どもは婚姻の最も貴重なたまものであり、両親自身の善のためにも大いに寄与する。…夫婦は人間の生命を伝達し、人間を育てる任務を自分に固有の使命と考えなければならない…夫婦は自分が創造主なる神の愛の協力者であり、いわばその解釈者であることを知っている」

さてたった今「Gaudium et Spes」の中からあなた方に読んだその文章についていくつかコメントをいたしましょう。まず第一に、教会は私たちに婚姻と夫婦愛はその本性上、子どもを産み育てることに向けて定められているということを教えていますが、それは神が福音の中で明らかにされているのを前回見ての通りのことです。今まで私が宗教を教えると学生が私に次のように言うときがありました。「神父さん、結婚したくても子どもが欲しくなければどうなのでしょう。私たちは結婚しても子どもは作らないつもりなのです。」私は即座に、それなら結婚すべきではない。なぜならあなたはまだ結婚する準備ができていないからですと言いました。神が教えておられるように、教会は私たちに結婚の第一の目的は子どもをこの世のなかに生み出すことだと教えています。したがって、結婚して子どもを作らないのは明らかに間違っています。また公会議は、子どもは結婚における単なる一つの贈り物ではなく結婚の最高の贈り物だと教えています。母や父となっているあなたがたは、子どもが生まれたあと子どもを手にとってきっとこのことが本能的にわかったと思います。結婚の最大の贈り物は、新しいいのちつまり子どもなのです。その子どもを抱き締めたとき、これが夫婦の愛情の表現であることはきわめて明らかなことです。それは本当に美しい贈り物なのです。そのときまた、子どもは両親自身の善のためにも大いに寄与することも理解することができるのです。

私には子どものいる2人の姉妹がいますし、当然2人の義理の兄弟もいます。結婚してから、子どもを持つことによって彼らが大変変わったことが私にははっきりとわかります。子どもを持つことは夫婦をよい方に必ず変えるのです。なぜなら子どもを持てば、あなたがたは愛情、特に自分を犠牲にする愛情を深めていくことが明らかに必要だからです。あなたがたは子どものために自分を犠牲にすることが必要ですし、また忍耐力や他の美徳も培わなければなりません。したがって、子どもを作ることは、夫婦に大きな利益、特に精神的な利益をもたらすのです。私たちはまた、夫婦には創造主である神の愛と協力するという特権があるということも読み取れるのです。ご存じのように、神は人を天から産み落とされるのではありません。夫婦は新しいいのちをこの世界にもたらすことにおいて神と協力する必要があります。神が一人でそのことをなさるのではありません。夫と妻は、子どもをこの世にもたらすことにおいて、創造主である神と協力をしなければならないのです。だから結婚した夫婦が創造主である神にどんなに近いかちょっと考えて下さい。神とそんなに親密な関係を持って働けるということはなんと素晴らしい贈り物でしょうか。

さてそれでは、神が子どもをこの世にもたらすことに関して何を望んでおられるかという問いの答えにはなりませんね。神はどのくらいの子どもを望んでおられるのでしょうか。私たちが最初に心に留めておかなければならないことは、公会議がこの部分の最後で私たちに語っていることで、そこには次のように書かれています。「神から託された任務をこのように果たす夫婦の中で特記すべきは、慎重と共通の同意と勇気をもって多くの子どもをりっぱに育てるよう引き受ける人々である。」

言い換えれば、教会は私たちに、多くの子どもをこの世にもたらすことにおいて寛大で勇気のあるカトリックの夫婦は特に賞賛されるべきだと教えているのです。もちろん歴史的に見ておわかりのように、過去30年から40年の間ずっとカトリック教徒で大家族の人はかなり一般的なことでした。私は5人子どもがいる家族で育ちましたが、今であれば5人の子どもの家族とは大家族だと考えられるでしょう。正直に言えば、私の妹や弟が生まれた時には、私は時々両親に、「どうしてそんなにたくさんの子どもを産まなければならなかったの?」と不満を言ったものでした。私たちは貧しかったので、お金も物もあまりありませんでした。どうしてそんなにたくさんの子どもを産まなければならなかったのでしょう。利己主義的な観点から、もし子どもの数が少なかったら、もっと暮らしが楽で、新しい車やカラーテレビなどのもっとすてきな物が買えるのにと私は思いました。

20年30年経ってそのことに目を向ければ、そのような子どもが5人もいる大家族の中で育つということは素晴らしいことであったことがわかります。それは人生で私たちが頼ることができる人々は、究極的には家族だからなのです。3人の妹と1人の弟がいて、ある程度人生を共有できるということは私にとってなんと素晴らしいことでしょうか。大家族の中で育つことができることはなんて素晴らしいことでしょうか。教会は、多くの子どもをこの世にもたらすことにおいて寛大で勇気のあるカトリックの夫婦は特に賞賛されるべきだと教えているのです。

しかしあなたがたは、その文章の中で、慎重と共通の同意と勇気をもって決定されなければならないという言葉が教会によって話されていることに気づいたはずです。言い換えれば、その決定は夫婦によってなされるということです。この部分の最初で、教会はこのように教えています。「この判断は、最終的には夫婦自身が神の前において行なうべきものである。」言い換えれば、いのちをこの世にもたらすことにおいてどのくらい神と協力するつもりであるかについての決定を神の前で共に下さなければならないのは夫婦なのです。神父として私は、あるいは他の神父も、司教も、さらには教皇も、あなた方は5人子どもを作らなければならないと言うことはできません。神の前で、神と相談して、神の前で祈り、神に「主よ、何人子どもを産むことを私にお望みでしょうか。」と尋ねながら決めるのは、夫婦であるあなた方なのです。そのことを第一に心に留めておかなければなりません。それは神の前での夫婦の共通の決断なのです。

また教会は、このことを決断するときには慎重な判断の後、ある種の要素を考慮しなければならないと言っています。そのような要素のいくつかは、また教会によってリストアッブされています。それには、夫婦自身のためとすでに生まれている又はこれから生まれる子どものためを考慮すること、時代の風を読む能力、夫婦の物質的精神的レベルの状況、そして最後に家族と社会のため、そして教会のための判断が含まれています。言い換えれば、神の前で祈り決断をする夫婦は、決断にいたるときに特別な要素を心に留めておくべきなのです。

子どもを産むことを遅らせる又は子どもを産むことを止めるための正当な理由がいくつかあります。その正当な理由とは何でしょうか。3つあります。最初の理由は次のものです。それは経済的な理由と呼んでいいでしょう。言い換えれば、もし夫婦がお金がない、家がないという状況にあるならば、子どもを産むことを遅らせることが賢明で分別のあることでしょう。私は子どもを産むことを1年半遅らすことに決めた夫婦の例を知っています。彼らがそうした理由は、夫がそのとき収入がなかったということです。彼は医学研修中で、家族の中で収入を得ていたのは妻だけだったのです。したがって夫が収入が得られる仕事を始めるまで彼らが子どもを作ることを延期したことは分別のあることでした。したがって一つの理由として経済的な理由があります。子どもを産むことを思い止まる二つ目の理由は、遺伝学的な理由です。言い換えれば、生まれてくる子どもが深刻な障害を持って生まれることがかなり確実な場合です。このことは子どもを産むことを思いとどまる正当な理由になりうるでしょう。最後に3番目の理由ですが、それは健康です。子どもを産むことで女性の健康が危険にさらされることがかなり確実な場合、それは子どもを産むことを遅らせる、又は生涯子どもを産まないことの正当な理由となりうるでしょう。これらは明らかに重大な理由です。

夫婦は教会の教え、つまり夫婦は自分たちの行動において、自分たちの嗜好だけに従ってはならないというということをいつも心に留めておかなければなりません。彼らは良心に従い、またその良心は神のおきての本物の説明者である教会の教えに照らして神のおきてに従うものでなければなりません。したがって、夫婦として神の前でこの決定に達する時、夫婦は教会の教えを心に留めておかなければならないのです。教会が神のおきての説明者なのです。今日その役割を忘れてしまっている夫婦が信者の中にたくさんいるのではないかと思います。人間のいのちを受け入れる決定を下すときに、あなたはキリスト教会の教えを心に留めておかなければなりません。もちろんそうしないことは、神の声を聞かないことです。

それでは私がこの説教の中でたった今述べたこのようなことをするメリットは何でしょうか。「Gaudium et Spes」の最後の文に次のように書かれてあります。「神の摂理に信頼し、犠牲の精神を尊び、人間として、またキリスト者としての強い責任感をもって人類繁殖の任務に従事するキリスト者の夫婦は、創造主に栄光を帰し、キリストにおいて完徳に向かうのである。」あなたがたは犠牲の精神を持ち、神の摂理を信頼してこれらの責任をはたすとき、神聖で聖人に近い存在となるのです。さて、そうなると最後の問いが残ります。それは夫婦として人間のいのちを産むことに寛大であるが、子どもを産むことを遅らせる又は結婚生活で全く子どもを産まないことができる正当な理由がある場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか。そうすることができる正当で道徳的な手段とは何でしょうか。どのようにしてそれをすればいいのでしょうか。またそれは次回の説教の中でお答えしましょう。

前回の説教で私はあなたがたに次のような問いを残しました。「もしカトリックの夫婦が子どもを作ることを先にのばすことがふさわしいと神の前で決めるとすれば、そうするための道徳的な手段、良い手段とは何でしょうか。」カトリックの夫婦はどのようにすればいいのでしょうか。「カトリック教会のカテキズム」にはまさにどのようにすべきかが書かれてあります。「カテキズム」の2370段落目にこのように書かれています。「定期的な禁欲、つまり自己観察に基づき妊娠しない時期を利用する産児制限の方法が、客観的な道徳的基準と一致する。」

カトリック教会は私たちに、カトリック教徒である夫婦はこの方法、つまり自然な家族計画法と呼ばれる子どもと子どもの間をあけるための神のおきてを尊重する自然な方法をずっと教えてきましたし、また今も教えています。教会が私たちに教えているのは次のようなこと、つまり結婚生活において定期的な禁欲をすることです。それは新しい考えでもなければ、教会が最近思いついたものでもなく、今日教会がただ夫婦に押しつけているものでもありません。それは聖書のなかに見られるものなのです。「レビ記:第15章」を読めばわかるように、旧約聖書の中で夫婦が定期的に禁欲をすることが神によって命じられているのです。

また聖パウロは「コリント人への第一の手紙」の中で、結婚した夫婦は祈りに専念するために時々禁欲をすべきだと言っています。二人は少しの間離れ、祈りの生活に専念し、それから一緒になるべきなのです。さて、自然な家族計画法を実践する価値は何なのでしょうか。カテキズムは次の文章でいくつかの価値を述べています。第一の価値は、このような方法が配偶者の身体を尊重し、優しさを助長し、本物の自由の教育を助けるということです。私は、自分の家族や他人の家族の何組かの夫婦と話をしたことがあります。彼らが教えてくれた利点を私はリストにしてみました。第一に、そして私はそれが最も重要だと思っているのですが、自然な家族計画法を実践することで夫婦の愛情が増すのです。もし自然な家族計画法というこの方法を実践するならば、夫婦それぞれが犠牲を払わなければならないということは明らかなことです。その犠牲は夫婦の間の愛情の結果であり、またその愛情を強くするものです。第二に、それは夫婦間のコミニュケーションのレベルを強めたり、深めたりします。愛情がさまざまな方法で表現されなければならないということは明らかなことです。自然な家族計画法を実践している夫婦はそうすることができるようになります。最後に、この方法を実践することで結婚生活における利己主義が根絶されるということに夫婦が気づいたということです。

このことが真実であるということを社会のレベルで見ることができます。研究によって自然な家族計画法を実践している夫婦の離婚率は3%未満であることがわかっています。それでは避妊薬の使用を大いに推奨している社会の離婚率はどうでしょうか。それは50%を越えているのです。対照的に、教会は避妊について次のように言っています。生殖能力を奪う、または生殖を不可能にさせる全ての行為は本質的に悪なのです。言い換えれば、そのような行為は本質的に悪なのです。それでは、教会はここで何のことを話しているのでしょうか。教会は人工的な避妊手段や不妊手術やもちろん中絶のことを話しているのです。このようなことは全て本質的に悪なのです。

皆さんが本当に知っておかなければならないもう一つのことは、今日市販されている避妊薬の多くはとんでもない副作用を持っているということです。私はショックを受けてそれを今日持ってきませんでした。それを家から持ってくるのを忘れてしまいました。しかしピルを使用する際に読まなければならない使用説明書を初めて入手したとき、それを初めて開けてみてその膨大な量に驚きました。次に、私はピルを服用することによって女性が耐えなければならないかもしれない副作用がぎっしり書かれてあるのを見てとても驚きました。もし私が夫で、妻を愛していたら、彼女の害となる可能性のあるものを彼女に服用してもらいたいだろうかと心の中で思いました。そのようなものを使用して配偶者を危険にさらすことが愛でしょうか。私はそうは思いません。避妊に関して私たちが心に留めておかなければならないもう一つのことは、避妊薬には恐ろしい副作用があるということなのです。今日ある避妊薬についてはあまり多くのことが語られていません。このような避妊薬の多くは、中絶薬、つまり中絶を引き起こすものなのです。女性がその事実を知らないことが多いのです。多くの避妊薬は受精を妨げるものなのです。それらは胚子が女性の胎内で成長するのを妨げるのです。受精のあとで中絶が引き起こされるのですが、女性はそのことに気づいていないのです。

アメリカ合衆国の統計によると、1年間に140万件の中絶が行なわれています。しかし実際の数は、中絶薬によって引き起こされる中絶のためにそれよりもはるかに多いのです。さて、このこと、すなわち私たちは自然な家族計画法を用い、避妊薬は道徳的に悪なので使用しないと人々に言うと、すぐ人々は、「何が違うのですか?最終的に目的は同じ、つまり子どもを作らないことでしょう。どこが違うのでしょうか?」と言います。この質間に答える時、私たちはこのこと、つまり目的は手段を正当化しないということを心に留めておくことが必要です。それは道徳的神学の基本的な教義なのです。

聖パウロもローマ人への手紙の中でそのことを教えています。目的は手段を正当化しないのです。良い目的を持っているからといって、それを達成するためにどんな手段を使っても良いということにはなりません。ちょっとした例をあげてみましょう。昨日私の学校のフットボールのチームが試合をするために他の学校へ行きました。相手の学校の方が明らかに私たちの学校より足が速く、ハーフタイムまでに28対7で劣勢でした。私たちのコーチはハーフタイムのときに次のように生徒に言うことができたでしょう。「目標はもちろん勝つことだ。ところで、どうやって勝つ?一方ではハーフタイムの後全力でプレーすることもできるだろう。また後半相手のチームの選手に怪我をさせることもできるだろう。それはまた別の手段だ。たとえばやすりを取り出して、ヘルメットのバックルを剃刀のようになるまで削り、相手に当たったときに相手の選手に怪我をさせることもできるだろう。」まあそれはかなり極端な例ですが。手段が同じでないことはわかります。目的は同じです。フットボールの試合に勝つことは良いことですが、その手段は同じではありません。一方の手段は良い手段で、それはもっとがんばってプレーすることです。また相手のチームに怪我をさせようとする手段も使えますが、それは悪です。したがってそれらは違っているのです。

一方の手段は、つまり自然な家族計画法は神のおきてを尊重し、夫婦の妊娠期間と不妊期間を尊重し、結婚という行為の本質を尊重するもので、それは良いものです。避妊は違います。避妊は神が一つにされたもの、つまり結婚の夫婦を一つにする面と夫婦の行為の生殖に関わる行為を分けようとするものです。「Familiaris Consortio(家庭一一愛といのちのきずな)」が指摘しているように、その二つは一つにならなければなりません。このように書かれてあります。「夫と妻が全面的に相互に自已を与え合うことを本来意味する人間の性という言語は、相手に自已を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相入れないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり、人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。」言い換えれば、結婚生活において避妊をすることは、夫婦がお互いに「この特別な結婚という行為において、私自身を全面的にあなたにあげるつもりはないのよ。」と言っていることなのだと教皇は言っておられるのです。  さて、最初にこの説教のシリーズを始めたとき、私は私の意見として避妊の広範囲に渡った使用ほど今日の社会において悪なものはないと言いました。さて私はどうしてそのように言ったのでしょう。避妊が強制的な悪となっている分野を2,3紹介しましょう。まず、お分りのように避妊は中絶につながります。そのことについては疑問の余地はありません。西洋のあらゆる国で、避妊が導入されたところでは、そのあとにすぐ中絶が始まっていることがわかります。明らかに避妊の使用は夫婦の行為をその真の目的、つまり生殖から切り離します。もちろんそのようなことが起きれば、夫婦の行為は当事者が望むあらゆる使用方法への道が開かれることになります。多くの場合、その結果を取りのぞくために中絶が必要となるのです。

次に、避妊はアメリカ合衆国におけるカトリック教会を明らかに弱体化させてしまったので大きな悪です。それは権威の失墜をもたらしました。今このことは非常に重要です。というのはカトリックの信仰は権威に基づいているからです。何よりもそれは神の言葉の権威に基づいているのです。私たちは神の言葉を受け入れます。私たちは、それを受け入れてそれに従って生きなければならないのです。それを拒否することは、イエス・キリストにもはや従わないものになることです。私たちの信仰は神の言葉の権威に基づいているのです。第二に、信仰は神の言葉を忠実に伝え、それを私たちのために説明しているキリスト教会の権威に基づいています。だからもう一度言いますが、教会の権威を拒否することは、キリストの権威を拒否すること、神の権威を拒否することなのです。以前にも述べたように、初めて多くのカトリック教徒が教会の教導権を拒否し、したがってキリストの教導権を拒否し、神の教導権を拒否し始めたのは、避妊の問題に関する教会の永遠の教えを繰り返したパウロ6世の回勅である「フマネ・ヴィテ」を拒否した1968年のことでした。このことによって明らかに教会は大いに弱体化しました。もはや教会の権威を受け入れないことは、もはやキリストの権威を受け入れないことなのです。

したがって、このようなこと全ての結論に至り、私たちの社会において、特に私たちの教会において、悔い改めること、改心することが本当に必要だと思います。私たちは、この特別な道徳的問題に関して心を入れ替えることがぜひとも必要です。旧約聖書を通して神は、祝福は神のおきてに従う者に与えられるであろうと私たちに言っておられます。そのことは、この問題においては非常に明らかです。自然な家族計画法を実践し、私が話しかけたことのある、教会の教えを尊重している夫婦には、祝福が、大きな祝福があります。一方、神は旧約聖書の中で、神のおきてに従わない者は、災い、大きな災いを自分に引き寄せることになるとたびたび警告されています。私たちの社会においてそのことが起こっているのが見えます。だからカトリック教徒である私の友人の皆さん、私たちはこの特定の領域において心を入れ替え、悔い改めることが必要です。「そこであなた方に言うが、神の王国はあなたから取り去られ、神の果実を作り出す人に与えられるだろう。」という 主の言葉に注意を払えば、良い行動を取ることができるでしょう。

私たちが神の言葉に背き、この特定の領域における神の意志に背いたために、そのようなことが私たちに起きることがないことを祈ります。改心のために祈りましょう。

Anthony Kopp アンソニー・コップ神父

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