さる7月13日、参議院本会議において、臓器移植法改正案(いわゆるA 案)が可決され、成立した。これによって、わが国では脳死が一律に人の死とされ、また本人の意思が不明な場合は、 家族の書面による同意があれば、臓器移植が可能となり、15歳未満の臓器摘出と移植も容認されることになる。
ところで、臓器移植についてカトリック教会はどのように考えているのであろうか。この点について、 先日8月23日付カトリック新聞「意見異見私見」欄に「脳死と臓器移植についてーカトリック教会の基本的見解」 と題する記事が掲載された。この記事を書いたのは南山大学教授浜口吉隆神父で、「私見」 欄で述べられた私見を超えた教会の公式見解として、さわりの部分を以下に原文のまま紹介したい。
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ここではカトリック教会の比較的最近の公式見解を列挙しておくことにする。
1。 教皇庁の諮問機関である科学アカデミー(1985年10月12日)によれば、三徴候死(心臓死) および脳死を前提とする臓器移植の可能性を認めている。
2。教皇ヨハネ・パウロ二世の腎臓移植格国際学会の会員に向けての談話(1990年4月30日)によれば、 臓器不足を解消するために人間の連帯性と他者への人間愛に基づいて臓器提供の意思を登録することを勧めている。
3。『カトリック教会のカテキズム』1997年、邦訳2002年)でも臓器移植を容認し、 死後の臓器提供は高潔な行為であるとしてそれを推奨している(2296項)。
4。教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『いのちの福音』(1995年3月25日)によれば、 臓器移植は他者に自己を与える愛と責任をもってなされるものであり、 そのいのちのたまものを受け取る移植行為を評価するとともに、 十字架上ですべての人に対する至高の愛を啓示されたキリストの模範をも提示している(86 項)。
なお、臓器移植はあくまでも移植を希望する人々への自発的な善意による臓器提供を前提とするものであるから、 自らの生命維持と延命に関する日ごろの熟慮が期待される。
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参考のため、上記[3]と[4]に指摘された引用箇所の全文を以下に紹介しよう。まず、『カトリック教会のカテキズム』 の2296項は次の通りである。
「臓器移植は、提供者の身体的ならびに心理的な危険や緊張などが受け手が求める利益に釣り合っている場合は、 道徳律にかなうものです。死後の臓器提供は高潔でいさおしとなるものであり、 寛大な連帯精神の表現として推奨されなければなりません。しかし、 提供者あるいはその代理人の明白な同意が得られない場合は、 それを倫理的に容認することはできません。さらに、たとえ他人の死を遅らせるためであろうとも、 人体を切断して障害者にしたり直接死に至らせたりすることは倫理的にゆるされることではありません」
次に、回勅『いのちの福音』86項の関係部分は次の通りである。
「きわめて人間味豊かで、愛に満たされた英雄的な行為が生まれるのも、このような状況( 十字架の愛にこたえて生きる日々の行為)においてです。このような行為は、 いのちの福音のもっとも荘厳な実践であるということができます。それは、 その行為は自分を全面的に譲り渡すことをとおして、いのちの福音をのべ伝えるからです。このような行為は、 愛する人のために自分の命を与える(ヨハネ15:13参照)という、至高の愛のまばゆいほどの現れです。その行為は、 イエスがすべての人の価値を掲示し、自己を真心から贈り物とするとき、 いのちはどのようにしてその完全さに至るかを啓示した、十字架の秘義にあずかるものです。 このような際立った機会のほかに、真正ないのちの文化を造り上げる大小さまざまな分かち合いの医師から成る、 日常的に行われる英雄的な行為があります。そのような意志の特別に称賛に値する事例は、 時に何の希望もない病人に健康を取り戻し、場合によってはいのちを永らえる機会を与えようとして、 倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供です」。
Itonaga, Shinnichi (イトナガ ・ シンイチ)
出典 糸永真一司教のカトリック時評
2009年9月1日掲載
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