前に死の四重奏について書いたが、ここに喫煙が加わるとさらに危険で「死の五重 奏」と呼ばれている。一九六四年にアメリカ公衆衛生総監諮問委員会は「喫煙には肺 がんとの因果関係があり、喫煙の影響は他の因子よりもはるかに大きい」と報告し た。俳優ウィリアム・タルマンはアメリカ政府が喫煙の危険を知らせたテレビCMの 最初の出演者だった。人気のテレビ番組弁護士ペリーメイスンで好敵手パーカー検事 役を演じていた彼の言葉に多くの喫煙者が耳を傾けた。広大な敷地を抜けて大邸宅に 帰った彼を家族が迎える場面で彼は言う、「私は名声や財産その他いわゆるアメリカ ンドリームを達成した。家族にも恵まれ私の人生たった一つのことを除いて成功だっ た。喫煙のために肺癌になって私の命はあとわずかです。皆さんタバコは止めましょ う」と。そして一九六八年八月三十日に死亡した。一九七〇年にアメリカではタバコ の箱に「警告:米国公衆衛生総監は喫煙があなたの健康に害を及ぼすと判断した」と いう情報の記載が義務づけられた。世界保健機関(WHO)によると、タバコは九秒 間に一人、一年に世界中で三百五十万人の人命を奪っている。
タバコの歴史
喫煙はマヤの宗教儀礼として始まったようだ。といっても釈尊の実母のマヤ夫人で はない。中央アメリカのマヤ文明で、太陽を崇拝し火や煙を神聖なものとする習慣が あったらしい。七世紀末頃のパレンケ遺跡にある神殿の壁の浮き彫りにタバコを吸う 神像が彫刻されている。その後タバコ文化は南北アメリカ大陸全土に広まった。コロ ンブスは一四九二年十月十二日にバハマ諸島にたどり着き、そこを日本と勘違いし た。そして十一月二日にキューバ島で初めてタバコ文化に接触した。元来パイプを意 味した「タバコ」という言葉をコロンブスは煙草と間違えて西洋に伝えた。
一五六〇年ポルトガル駐在のフランス大使ニコはタバコが偏頭痛などに効くという 論文をまとめた。フランス王妃の難治の偏頭痛が嗅ぎタバコで治った。そして有効成 分がニコチンと呼ばれるようになった。
コロンブスは中米の風土病であった梅毒もヨーロッパに運んだ。その後二十年で梅毒 は日本に入って来た。梅毒よりも約九十年遅れてタバコが日本に届いた。日本でタバ コは煙草、延命草、長命草などと呼ばれた。一足先に入って来た梅毒の特効薬として タバコは急速に日本に広まったという説があるが、実際には無効であった。
喫煙者は加害者
イギリス王ジェームズ一世は一六〇四年にタバコの税を四十倍に上げた。この禁煙政 策は現在でも通用する効果的な方法だ。WHOの「タバコ禍の実態をつかみ制圧する ためのガイドライン」でも同様の方法を推奨している。
前に「愚かな行いをする権利」について書いたが、タバコは他者に危害を加えるので 愚行権は認められない。他人のタバコの煙を吸い込むことを受動喫煙というが、これ が重大な被害をもたらす。受動喫煙は、成人の慢性呼吸器疾患の罹患を増し、かつ増 悪させる。小児の急性呼吸器疾患も増加させる。また、肺がんになる危険性が著明に 高まる。虚血性心疾患の危険度も高まる。母親の喫煙により乳幼児突然死が倍増す る。妊婦の受動喫煙で未熟児や脳障害、心臓病、流産、死産が増加する。
喫煙は健康被害のみならず経済的損害をもたらす。タバコによる損害は五兆六千億 円(医療費三兆二千億円、休業損失二千億円、消防清掃費用二千億円、喪失国民所得 二兆円)で、タバコの経済メリットは二兆八千億円、差し引き二兆八千億円の損失と いう試算がある。この試算によると、タバコ二十本入一箱の値段を六百円以上にし て、喫煙者に負担をしてもらわないと割に合わないそうだ。
平成十四年七月に「受動喫煙の防止」を含む健康増進法案が参議院にて可決成立 し、平成十五年五月から施行された。「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会 場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設 を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙を防止するために必要な措 置を講ずるように努めなければならない」とある。以前は曖昧だった受動喫煙の被害 の責任を、喫煙者ではなく、その場所を管理する事業主とした。例えば、妊婦が禁煙 にしていない寺院を参拝後に流産したら、寺の住職は受動喫煙被害の責任を追求され るかもしれない。受動喫煙を受けたか否かの鑑定は簡単で、ニコチンの代謝産物コニ チンを検出することで可能だ。
ある空気清浄機の広告を見たら「タバコの煙に含まれる有害物質の除去はできませ ん」と書いてあった。その通りであり、空気清浄機を置いただけでは、寺で喫煙を許 可することはできない。どうしても喫煙を許可したいなら、完全に分煙できる喫煙所 を設ける必要がある。喫煙は他者の命に危害を加えるものであり、不殺生戒を持つ立 場からも境内は禁煙にすべきだろう。
Tanaka Masahiro (タナカ マサヒロ)
田中 雅博(1946年ー2017年3月21日)
坂東20番西明寺住職・普門院診療所内科医師
出典 藪坊主法話集
Copyright ©2003年10月掲載
2021年9月25日複製