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2月11日は『世界病者の日』

教皇ヨハネ・パウロ2世は1993年、「ルルドの聖母の記念日」である2月11日を「世界病者の日」と定めた。聖母マリアは、救い主キリストの母として、十字架のもとに立って御子の苦しみに深くあずかり、同時に、信じる人々の母として彼らの苦しみをともにしながら、人類の救いのためにとりなしておられる。だから、聖母の記念日に病者を記念することはふさわしいと思う。

また、ルルドは聖母マリア出現の聖地として世界中から巡礼者が絶えないが、中でも多くの病者が身体的かつ霊的ないやしを求めて集まっており、その意味でルルドは病者の巡礼地であると言ってもよいから、ルルドの聖母の記念日を世界病者の日とすることはなおふさわしい。

今から55年も前になる1953年の夏、わたしは最初のルルド巡礼をした。車社会になるずっと以前であるから、巡礼者たちは鉄道を使って集まるのであるが、そのときすでに2万人の巡礼者がひしめいており、その中に多くの病人たちが松葉杖をつき、あるいは担架に載せられて来ていた。あまり詳しくは思い出せないが、確か午後3時ごろに、ご出現の洞窟前から記念聖堂前の広場まで聖体行列があり、そこで聖体賛美式が行われる間、所定の位置に並んで待っている病者たちが一人ひとり顕示台の聖体の祝福を受けていた。病気の癒しの奇跡はこの聖体の祝福のときに起こると聞いたが、その日には奇跡はなかった。しかし、ルルド駅で帰りの列車を待つ病人たちの一様に嬉しげな満ち足りた表情を見た時に納得するものがあった。身体の病気は癒されなかったとしても心は癒され、あらためてキリストと苦しみを共にする喜びを得たことがルルド最大の奇跡であると言われていたのである。

さて、世界病者の日に際し、病気をもって象徴される「苦しみの意味」を考えることは的外れではないだろう。

苦しみはすべての人性に深く沁みこんでおり、病気など身体的な苦しみのみでなく、精神的かつ霊的な苦しみはまさに人性の本質的な特徴であり、文明開化の現代においても人類を覆う苦しみはますます深刻である。なぜ人性に苦しみがあるのか、昔から人々はその謎を問い続けてきた。そして、苦しみは人性の試練として人々を鍛える修徳の貴重な手段として有益であるとして、積極的に苦しみを評価する伝統はあるにしても、しかし、なぜこの世に苦しみがあり、その意味や目的は何であるかという究極の答えは見出しえなかったと言ってよい。

しかし、ただひとりキリストはこの謎を解いたのである。第2バチカン公会議は断言する。

「苦しみと死の謎は、キリストにより、キリストにおいて解明される」(現代世界憲章22)。

なぜなら、人間となった神の子キリストは生涯の苦しみと十字架の死をとおして人類をあがない、至福のいのちへの道を開いたからである。こうして、キリストは苦しみに本当の意味と目的を与え、神への愛、人々への愛のために苦しむ喜びを与えたのである。こうしてまた、苦しみと死によって灰色に覆われていた世界は、苦しみと死があるからこそ世界は希望と喜びの中にあることを明らかにしたのである。

ヨハネ・パウロ2世は、苦しみのキリスト教的意味を語るその回勅の結語で、次のように述べている。

「苦しみはまぎれもなく人間の秘義の一側面です。たぶん苦しみは殊のほか計り知れない秘義であるが、人間自身の秘義には及ばないでしょう。第2バチカン公会議は以上の真理を、『実際、受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義は本当に明らかにはならない。事実、・・・最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする』(現代世界憲章22)と表現しています。もしその言葉が人間の秘義についてすべてを述べているなら、人間の苦しみについて必ず、特別な仕方で言い及んでいます。まさにその点で、『人間を自分自身にあらわし、その崇高な召命を明らかにする』ことは、とりわけ必要なことです」(教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』31)。

キリストは苦しみの秘義を明らかにすることによって人間の秘義そのものを明らかにしたのであるが、そのようなわけで、キリスト者は日々の苦しみをとおしてキリストの苦しみにあずかり、また人々への愛の証としてその苦しみを分かち合うことを喜びとしている。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の想い
Copyright ©2009年2月10日掲載
2021.7.21.許可を得て複製