日本 プロライフ ムーブメント

私が弟の番人でしょうか

中絶を、「決してなくならない問題」と呼ぶ人がいます。中絶に関する国内の論争は激しくなる一方で、全く沈静化の兆しがみえません。教会に来て、ちらしを一部受け取って小声で、「中絶の話を聞く場合にそなえてこれをもらいましょう。」とただ言う女性のように、そのことにもう耳をかそうとしない消極的な人もいます。また、中絶について寄せられた手紙に対して、いつ命が始まるのかについて考える気もしないと発言した政治家もいます。私達を不安にさせる情報から身を守る手段はたくさんあります。

史上初めての殺人を犯したカインもそうでした。「さあ、野原へ行こう。」とカインは弟のアベルに言いました。彼らが野にいたとき、カインはアベルを殺しました。(創世の書四:8)主はカインに弟はどこにいるのか、と尋ねられました。これは今までにカインが直面したことがないようなつらい質問でした。どうしてカインは神様に立ち向かって自分自身の弟を殺したと説明することができたでしょうか。それは無くなってほしいと彼が望んだ問題だったのでした。しかし、それはいかんともしがたい真実でした。だから彼は必死にその問題をはぐらかそうとして、知らないと主張したのでした。「私は知りません。」というのが彼の神様への返事でした。それからカインはさらに神様に挑み最初に、「私が弟の番人ですか。」と尋ねたのでした。(創世の書四:9)

このような言葉で、彼は弟に対する責任を免れようとしたのでした。アベルの所在、安全、そして命そのものはカインが責任を負うものではありませんでした。しかし、神様は弟に対する行為の責任を取らせるために、カインをすぐさま呼び戻されました。「あなたは何をしたのですか。」と神様は問いただしました。カインはその問題が無くなってほしいと思いましたが、どうしても無くなりませんでした。弟の命を奪ったのは彼自身の行為でした。しかし、彼が兄であるというまさにその事実によって、彼は弟の番人なのです。弟には、カインが尊重し、守ってやらなければならない権利があるのです。カインがしたのは、その正反対のことでした。彼は弟の権利を軽蔑したのでした。彼は弟の生きるというまさにその権利を軽蔑したのでした。彼は弟を野原に連れ出すことによって自分の行為を隠そうとしました。というのは野原では他に誰も彼らを見ることはなさそうだったからです。しかし神様は、その行為を隠すことができないことを確かめ、カインに「聞きなさい。あなたの弟の血の声が土の中から私に叫んでいます。」と言われました。(創世の書四:10)その問題は決して無くなることはないのです。

私達は私達の弟の番人なのです。このことは選択の自由のあることではないのです。むしろ、人間という家族のなかの神様の子どもとしての私達の存在そのものからにじみ出てくるものなのです。好もうと好まざると、私達はお互いに対する責任があるのです。私達には、特に社会で最も弱く、最も無力なもの、つまり胎児に対する責任があるのです。しかしその胎児は毎日母親の子宮の中で、中絶によってずたずたに引き裂かれているのです。私達は、カインがそうしたように、胎児の所在について知らないと言い切ることはできません。私達は、カインのように、胎児に対する責任を回避することはできません。私達はその問題を消し去ってしまうことは出来ないのです。

「私が弟の番人なのですか。」というカインの問いの現代販は、私達は「自分のことだけを心配する」べきだという主張です。そのほうが人生が楽じゃないでしょうか。そうすれば、私達は病気の人々、貧しい人々、ホームレスの人々やエイズに罹っている人々のことを全く心配しなくてもいいでしょう。私達は戦争によって引き裂かれた地域のことや、経済の不正や国民や国家の搾取のことで自分を悩まさなくてもよくなるでしょう。私達はただ自分の事だけを考えていることができるでしょう。私達は中絶のことを耳にしなくてもよくなるでしょう。なぜなら、胎児に対する正義、自分以外の他の全ての人々に対する正義の問題はただ消え去るだけだからです。私達はただ自分の事だけを考えていればよくなるでしょう。

中絶は「プライバシー」の問題だと言われています。私達は干渉しないようにと言われます。これもまた弟や妹に対する私達の責任を回避しようとすることなのです。実際、中絶の決定は、その決定を下している女性の自由に影響を与えるだけではないのです。女性の子宮の中にいる子どもにとっては生か死かの決定なのです。私達の弟や妹のまさにその命が、中絶の決定によって危うくなるのです。どうしてこれが「プライベート」な問題でありえましょうか。

究極的に、私達の主イエス・キリストだけが、「私が弟の番人ですか。」というカインの主張や、「自分の事だけ考える」とか「プライバシー」とかについての私達の主張に答えられるのです。キリストだけが、はっきりとした言葉で、私達がお互いに対して責任あることを、そして私達の身近にいる人に対する不正の問題を無くならせることはできないことを教えておられます。なぜなら、キリストは私達に、「私が愛したように、あなたがたが互いに愛し合うこと、これが私のおきてである。」と明言されているからです。(ヨハネによる福音書十五:12)どのようにしてキリストは私達を愛されたのでしょうか。聖パウロは私達に次のように述べています。「だが、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死去されたことによって、神は私たちへの愛を示された。」(ローマ人への手紙五:8)言い換えれば、キリストは先手を打たれたのでした。キリストは、私達が求める前に、私達がキリストに値しないにもかかわらず、私達のところにやってきて私達のために死んで下さったのでした。私達は全く無力だったのでした。キリストは私達が困っているのを見た時、純粋な愛情から行動されたのでした。キリストは少しの間も躊躇されませんでした。キリストは天の父に、「私が弟の番人でしょうか。」と尋ねることはなさいませんでした。

キリストが私達を愛されたように、私達も胎児である私達の弟や妹を愛さなければなりません。私達は、彼らが求めるから、値するから愛するのではありません。彼らが私達の助けを必要としている弟や妹であるから愛するのです。中絶は、それが消えてしまうことを願うことによって、あるいはそれを無視することによって解決される問題なのではありません。それは積極的に愛することによってのみ解決されるのです。私達こそが、私達の弟の番人なのです。

フランク・パヴォーン
出典 英語原文
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