日本 プロライフ ムーブメント

水子供養

日本各地の寺院を巡ってみると、あちらこちらの寺院に「水子供養」の文字が見受けられます。そして、多くの場合、水子地蔵と呼ばれるお地蔵さんを中心とした祠が作られ供養されていることが多いようです。水子というのは、ご存じのように流産や堕胎など不幸にしてお母さんの胎内にいるときに亡くなった胎児のことです。この水子供養をしている場所に行ってみると、無数のおもちゃやお菓子、また子どもの衣料品などが祭られているのが目につきます。また、水子供養のために訪れるのは、男性よりも女性の方が多いのではないかと思います。この状況は、一つのことを表しているのではないかと思います。それは、多くの人が自分の行った行為に対して、ものすごく後悔の念を持っているということです。 

流産にしろ、堕胎にしろ、お腹の中に子どもが宿ったときというのは、よほど何かの事情がない限り、女性にとってはうれしいものであり、愛しいものではないでしょうか?わたしは男性なので、女性の内面の気持ちまでは詳しくはわかりませんが、母性を感じる第一歩ではないかと思います。お母さんは、お腹の子どもが五体満足で成長し、元気に生まれてきて欲しいと願い、日常生活のあり方も激しい運動や作業を避けたり、食事などの節制をしたりなど、それまで以上に慎重になっていくことでしょう。そのようなときに、突然お腹の子どもを失ってしまうこと、それは筆舌に尽くしがたいことであり、その時のショックは想像を絶するものです。これは、身近な人を突然の病気や事故などで亡くした人であるならば、想像ができるのではないかと思います。さっきまで元気で生きていた人が、今は死んでこの世からいなくなってしまったという喪失感は、経験した人でなければ、なかなか理解できるものではありません。 

特に堕胎の場合、独身女性よりも、結婚をしている女性の方が多いという話もあります。結婚をしているということは、自分が選び、この人ならと信頼している男性との間に宿った生命です。その生命を、何らかの事情で奪ってしまうことは、女性にとってはショックに違いありません。でも、このショックは、残念ながら、男性にはあまりわからないもので、気軽に堕胎を勧めてしまうのも、主に男性の方でしょう。このことも、女性を苦しめる一つの要因となっています。つまり、自分が一番信頼していた人によって、お腹の子の生命を奪われてしまったわけで、この苦しみを打ち明けることのできる人は他にはおらず、結局は水子地蔵を心のよりどころとし、心の癒しを願っているのです。 

カトリック教会では、堕胎することは厳しく禁止されており、その理由も、胎児の生命を奪うからといわれてきました。たしかに、それも堕胎に関する一側面は表していますが、でも先ほども言ったように女性の立場からするとこれだけではもの足りません。女性は、精神的に傷つき、そしてまた自分の体をも傷つけてしまっているのです。この両面の傷が癒えるには、かなりの努力が必要となります。堕胎をした人を責めることは、簡単にできることです。でもその人たちの心の内を理解し、その人たちの心や体のケアをできる人はなかなかいないものです。しかし、わたしたちキリスト者としては、人を裁くことはゆるされていません。わたしたちに与えられているのは、愛とゆるしです。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、まさにこのことの実践です。やってしまったことを責めるよりも、その人が再び立ち上がり、再び、神様と共に歩み、また、心や体の傷が癒されていくように、サポートしケアをすることの方が大事なことです。 

そして、何よりも、わたしたち一人一人が堕胎ということに大きなリスクがあるということを再認識することが大切です。現象面だけを見れば、堕胎は簡単なことかもしれません。しかし、堕胎は、今言ったように、女性に対して、心や体の傷を与えることであるし、また、一人の生命を粗末にすることによって、他の人や物に対しても同じように接していくことになります。これは、神様の望んでおられることではありません。もっと、本当の意味での人間の生命、人間の尊厳を考えていきたいものです。 

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ) 
Copyright ©2005.2.9.許可を得て複製