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死刑は間違いだろうか?

質問:「中絶擁護に対する反論」と人間のいのちがいかに尊いものであるかについて貴殿の書を拝読しました。しかしながら、カトリックのカテキズムでは極刑が容認されています。中絶反対と極刑容認は矛盾しているのではありませんか?ご意見をお聞かせください。 


確かに、カトリックのカテキズムには「公序良俗を維持するためには、侵略者に危害を加えさせないようにしなければならない。これを理由として、教会は、法的権限を有する公的機関に、罪の重大さに相応する罰、すなわち最も重大な罪には死刑をもって悪人を罰することをその正当な権利および義務として以前から認めている」(#2266)と書かれている。教会のこうした立場を理解してもらうために、この教義の基になっている基本原則について説明しよう。 

第1に、国家には公序良俗を維持し、国民を危険から守る義務がある。この義務を達成するために、国家はコミュニティーの外にいる侵略者に対して宣戦布告し、抗戦すると同時に、国民に対し自己防衛権を認めることができる。また、罪を犯したり、社会の健全性を脅かしたりする人物に対し、罰を課すこともできる。 

第2に、裁判により、犯罪に相応する罰を要求することができる。刑罰は被害に釣り合ったものでなければならない。このようにして与えられる罰には、犯罪に対する報い、犯罪の再発抑止、犯人の更正という効果がある。報いという形で犯罪者に罰を与えることで、彼によって損なわれた正義の秩序を回復できる。例えば、窃盗犯の場合、盗んだ物を返すといった行為により損害賠償を行わなければならない。さらに、犯罪者は、例えば投獄や罰金などにより自由の一部を奪われることもある。犯罪による被害を回復することができるのは犯罪者への処罰だけである。 

この線に沿って考えていけば、罰を与えることには将来的な犯罪抑止効果も期待できる。処罰が公平かつ迅速なものであれば、特定の罪に対して特定の罰を与えることで、犯罪者本人あるいは別の人物による将来的な犯罪の防止につながる。罰を与えることは一定の犯罪から社会を守るだけでなく、同じ犯罪の再発を防ぐことにもなる。 

最終的に、犯罪者に対する処罰は、その人物の更正を促すものでなくてはならない。処罰を受けた犯罪者には、自分の過ちを認め、悔い改めることで生活を変えることが期待される。 

処罰によってのみ、犯罪に対する報い、再発抑止、更正という3つの効果が同時に期待できる。処罰を与える場合、国家は、公平な裁判が行われ、適切な法的権限を持つ当局だけが刑を課すことができるよう最大の努力を払わなければならない。 

処罰に関するこうした見解に従い、極刑は、凶悪犯罪、すなわち社会の基盤を揺るがす犯罪で極刑という重い罰が必要と考えられる犯罪に対してのみ適用することができる。例えば、旧約聖書では、重大な罪に対して極刑の適用を認めている。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6)。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。」(出エジプト記21:12、14)。ただし、旧約聖書には計画殺人だけでなく、誘拐、父母をののしる・打つ、魔術、自然に反する性行為、獣姦、偶像崇拝も死刑に相当する罪として記されている。これらの罪は神の目から見て極悪であり、社会の精神的・肉体的繁栄を脅かすものであることから、司法によりその罪に相当する報いとして極刑が命じられた。死刑宣告には犯人の更正を促す効果がある。死刑囚となった犯罪者が、死に直面し、神の前で裁きを受けることを畏れて罪を悔い改めるとも考えられる。また、死刑宣告には将来的な犯罪を防止する効果もある。犯罪者を社会から永遠に排除し、神のもとでその裁きを受けさせることで、同じ人物による傷害は2度と起らない。トマス・アクィナスは、もし善良な市民が「悪人を排除することで守護され救われるのなら、後者を死刑に処することは合法と言える」と主張している。さらに、犯罪者の処刑は、同様の犯罪の再発を防ぎ、犯罪者の更正を促すと考えられる。 

旧約聖書には神の慈悲についても書かれている:「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」(エゼキエル書33:11)。ただし、「生きる」という言葉は、肉体的な生よりむしろ精神的な生を指したものであり、この言葉によって懺悔の意を示している罪人は地獄での永遠の罰を免れることができるのである。 

最後に、極刑は、「悪人」、すなわち自分の意思で凶悪な罪を犯した人物に課せられるべきである。トマス・アクィナスは、罪を犯すことで人は理性を失い、神にかたどって作られた人としての尊厳を無くしてしまう、と断言している。彼は、次のようにも述べている。極悪な罪を犯す人物は、獰猛な獣よりもさらに邪悪で有害である。こうした人物は、永久に追放されるべきである。体全体の健康を維持するために病気や感染症に冒された臓器を取り除くように、社会を堕落させたり、社会に悪影響を及ぼしたりする危険な人物や影響力の大きい人物は、死刑に処することで社会全体に危害が及ぶのを防ぐべきだろう。 

こうした悪人は、無実の人とは区別されなければならない。人のいのちはいつどんな場合においても神聖なものであり、私たち無実の人間には生きるための神聖な権利が与えられている。ただし、教会では「罪のないいのち」が持つこの権利の不可侵性について注意深く言及している。「安楽死に関する宣言書」(1980年)において、教会は「たとえそれが胎児、胚芽、幼児、成人、老人、不治の病に冒されている人、まさに死を迎えようとしている人であったとしても、何人もその手段にかかわらず罪のない人を殺すことはできない」という立場を示している。また、「堕胎幇助に関する宣言書」(1974年)では、「神の法と自然の道理により、罪のない人を直接殺害する権利をすべて排除する」と明言している。これらの極悪な罪が自由意志によって犯され、社会全体の脅威になると判断された場合、犯人は、その時その場所において社会生活の権利を放棄しなければならない。 

このような理由から、カトリック教会は、国家が特定の犯罪者に対して死刑を執行する権利を支持している。ただし、教会の伝統的な教示の一方で、米国カトリック司教会議は、「極刑に関する宣言書」(1980年)を発表し、「…現代アメリカ社会の状況では、刑罰の真の目的を考えれば、死刑は正当化されるものではない」と表明している。司教会議は次のような問題を提議している:凶悪犯罪に対するものだとしても、処罰および社会秩序の回復を理由に極刑を課すことは正当なのか? 極刑によって犯罪の再発は防げるのか? 犯罪者から社会を守り、犯罪者に更正の機会を与え、犯罪の再発を防ぐという面で、終身刑を含めた禁固刑でも十分な効果があるのではないか? 司法制度による刑の宣告が公平で差別のないものであると断言できるのか? 極刑は、犯罪者とその家族に苦悩をもたらす残酷な刑罰ではないのか? 最後に、司教会議は、極刑を排除することで社会の「悪の連鎖」が断ち切られ、人間のいのちの尊厳と寛大さが大切にされる社会が訪れると主張している。 

実際、極刑の是非は非常に難しい問題である。カトリックである私たちは、人のいのちを尊いものだと考えている。同時に、社会を安全で平和な場所として維持するために、遺憾ながら犯罪者のいのちを奪わなければならないこともある。社会秩序を守るために、私たちは戦争に行き、自分のいのちを守り、そして犯罪を抑止する。極刑を巡る問題は重大であり、私たちは、正義を維持するために常にこの問題に向き合っていかなければならない。善良なカトリック信者は、一信者として、また一市民として、これらの問題に対峙し、正義を守るために最善な方法を考えていくべきである。 

William Saunders
サンダース・ ウィリアム
Arlington (VA) diocese
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2003.9.21.許可を得て複製