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冷凍胚の問題

人工授精の最新技術は、導入された時から様々な倫理上の難題を呈してきたが、中でもひときわ切迫した問題はヒト胚の低温保存に関するものである。それがきわめて深刻かつ許容できない状況になってきたため、1996年5月24日、教皇はヒト胚の生産および冷凍を中止すべきであると断固として訴えた(1996年5月29日付L’Osservatore Romano 英語版、12ページ)。

死の論理

試験管の中で、同時に母親の体内に移植される数より多く受精させられた人胚(いわゆる『余剰』胚)は、一度目の移植では失敗に終わることがよくあるので再度の試みに備えるため、あるいは移植が延期された場合には冷凍される。また、別の夫婦のために妊娠を肩代わりする代理母に移植されるために冷凍されることもあるし、欠陥のある胚を除去して良質な胚だけを移植するという目的で、いくつかの胚細胞の遺伝子検査を行う時間を十分とるために冷凍されたり、価値のある生きている細胞を実験や他の目的に使用するために取っておく、といった理由から冷凍されることもある。

低温保存の技術は1970年代初期に動物の細胞を使った実験によって精錬されたもので、そのわずか10年後にヒト胚に適用されるようになった。それまでは、移植されなかった胚は破棄されるか、研究のために用いられていた。しかしこの技術は、胚を完全な状態で生存させるにはまだかなり危険なものであり、その大多数は冷凍の過程で、あるいはその後の解凍の過程で死亡したり、取り返しのつかない損傷を受けてしまう。即座に現れるこれらの影響の他に、冷凍された胚から生まれた成体には行動上、形態機能上の重大な変異が見られる、ということが最近動物の実験で明らかになった。

そのような懸念される生物医学的データがあるにもかかわらず、この分野に関する現行の法律のほとんどは、試験管受精のために生産される胚の数を制限していない。したがって、胚の「余剰」が作り出され、遺伝学上の母親に将来移植するためにそれらを低温保存すること、時には寄付や実験の目的で低温保存することが認められている、というのが普通である。例えば英国では、人工妊娠を試みた際に作り出された「余剰」胚を研究や実験の対象にすることが認められているばかりでなく、単に科学的目的でヒト胚を生産し、保存することも可能なのである。

対照的に、胚の保護に関しては最も厳しく首尾一貫した態度をとっている国の一つであるドイツの法律では、必要以上の卵母細胞を採取することも、一度に三個より多くの卵細胞に授精することも禁じている。そして胚の「余剰」を防止するために、受精した卵母細胞全てを遺伝学上の母親の体内に移植しなければならない。胚の低温保存は、母親への移植を延期することが絶対に必要な時にのみ認められている。

この問題の最も懸念されるべき点は、胚の背負わされた宿命という問題であろう。実際、冷凍された子孫の存在に関する難しい法的議論を避けるために、胚の低温保存を認めており、冷凍による影響については不確かな法律は、たいてい低温保存の最長期限を示しており、それは国によって異なるが、一年から五年となっている。このことは、今後毎年何千、何万という数の「使用されなかった」胚が殺される、すなわち、何千、何万の罪のない生命が法律によって絶たれてしまうことを意味する。これは出生前の大虐殺である。立法府によって許容されたばかりか立法府によって計画され、指示された殺害である。今や法は、古代エジプトのファラオのような、死と暴力という邪悪な論理を実行するシステムへと化してしまった。

胚の権利

倫理的法的に非常に重要な論点は、胚の持つ人間としての本質を認めること、「人間の生命は、その存在の最初の瞬間から、すなわち接合子が形成された瞬間から、肉体と精神とからなる全体性を備えた一人の人間として、倫理的に無条件の尊重を要求する。」(Donum vitae『生命のはじまりに関する教書』 1章1)ということを確信することである。

ところが現在の慣例は、胚を特にその発達の最初の段階から人間として分類することを拒否することに基づいている。その背景には胚以前のもの、というあいまいな概念が存在する。著名な発生学者A.マクラレンによって1986年に発表されたこの概念は、超科学界において大々的に受け入れられ、今では医学界においても普及している。胚以前のもの、という概念の採用は空論的で偏向的である。胚の使用を中止したくない欲望から、それらを操作する慣例の正当化をねらっているようだ。

しかしながら我々の見解では、まだその人格が完全に形成されてはいなくとも、胚の確かな人間性は認められねばならない。この理由から、妊娠を全うするのに人工的な技術を用いることは過多な胚を作り出すことを正当化するものではないし、移植された胚の数が多すぎたからといって減数手術を施すことも、前もって優生学的選択を行うことも、胚を冷凍することも正当化されはしない。

低温保存の支持者たちは、冷凍すれば二次的な問題により移植できない胚や、数が多すぎて移植できない胚がだめになることを防げると言う。しかしこの「人命救助」は、全ての胚に成熟および誕生につながる分化と発達の過程をその後再開するという可能性が保証された時にのみ、確実に「人命救助」となるのである。不幸にも、冷凍によって胚が追い込まれる仮死という中間の状態は、しばしば死に向かう控えの間となってしまうことがある。冷凍というプロセスは無害だとされていたが、臨床の現場自体がそれに異議を唱え始めている。この評価は、胚の損失は現在の技術が完璧でないことによる一時的な問題であって、そのうち改善されるという主張にも変えられることはない。動物を使った実験で完成されるまでは、試験的な技術を人間に対して使用することは許されない。よって十分安全な保存方法が分かっていないのに合法的に余剰な胚を作り出してはならないのである。

最後に、胚の完全性と生存に関するこの処置の危険性から注意をそらしてみても、ヒト胚を冷凍すること自体が人間の尊厳に反するものであり、胚が内在する目的に沿って発達する権利、自らの目的性に沿って自主的に発生する権利に反するものである。冷凍はこの存在物の生成を妨害するものであり、始まったばかりの生命の存在が、我々の無謀な操作によってではなく、偶発的な要因によって危機にさらされた時に、これがその生命を守る(仮説にすぎないが)唯一の方法である時にのみ許されるべきものである。ある処置(特に試験管授精と胚の冷凍という処置)の結果、罪のない者を虐殺することをその他の者を誕生させる代償としてはならない。そのような行為は、目的の達成を最優先し、人間のいのちの価値の等級付けという受け入れがたい概念に基づき、未熟な胚には何の価値もない、あるいは出産予定日を迎えた胎児より価値が低いとする目的論的に功利主義的な観点によるものである。

これらのことを熟慮してみると、Donum vitae の教えに見られるように、生きている胚を低温保存によって保管するという慣例を非難する根拠は、依然として世間に通用するものであり目立つものである。「受精卵の凍結は、たとえそれらの受精卵の生命を保存するために行われるにしても、人間の尊厳に反するものである。そのような場合には、受精卵が傷つけられ、その生命が危険にさらされるうえ、少なくとも一時的に母胎による保護を奪われることになるし、さらなる傷害や操作の可能性が生みだされることになる。」(Donum vitae, 1章6)。

先述のアピールの中で教皇は、この分野における重大な責任を科学者たちに想起させた後、法律家や政府の指導者たちにこう呼びかけている。「全ての法律家に要求します。国家や国際機関が、人間の生命のまさしく原点であるものが本来持っている権利を法的に認め、また数千の「冷凍」胚が受精の瞬間から本質的に身に付けている、奪うことができない権利を守るようになるように働くことを。民主主義の真価は全ての個人の不可侵の権利を認めることに根ざすものですが、それを人間のまさに原点において保護しようとするならば、政府の指導者たちもこの責任を回避することはできません」

冷凍胚をどう扱うべきか?

ヒト胚の操作は、それを許している常軌を逸した法律と同様に、人工生殖の多くの慣例、特に試験管授精の中心にあるゆがんだ精神構造の一部である。そのような処置は、配偶者間の具体化した愛情の表現と、生命を後世に伝えることとの間の壊すことのできない関係を破壊し、人の生殖の深遠な意味をあいまいにしてしまう。したがって試験管内で胚を作り出すこと、まして故意に余剰胚を作り出して必然的に低温保存することなど正当ではない。これは胚の冷凍という問題に対する唯一の理にかなった答えであるように思われる。教皇もそういう意味で科学者たちに抗議したのである。しかし、それらの胚が受精した不自然な方法、および、それらが現在生存している不自然な状況のために、彼らが創造された人間であり、神の子自身の姿そっくりに創造された、神からの生きている贈り物であることを忘れてはならない。そこでこれらの創造物を救うためには、どのように介入したら倫理的に受け入れられる方法で、悲しむべきジレンマを解決できるだろうかという問題になる。

もちろん、胚が試験管内で授精された場合には、それらを母親の胎内に移植する義務があり、すぐにそうすることが不可能な時にのみ、胚を冷凍することができる。ただし必要な条件が整い次第、母親の子宮に移植するという意図を持って行うのである。母親の子宮はその人にふさわしい唯一の場所であり、そこでなら胚は、人工的に中断された発達の過程を自発的に再開することによって、生存の希望がいくらか持てるのである。カトリックの道徳とは対照的に、体外受精という方法にたよるのを正しいと信じている人々は、罪のない人間の生命を保護するための最低限の倫理を尊重するという義務を免れることはできない。また離婚する場合でも夫は、すでに受精している胚を受け入れたい妻の要求に反対してはならない。なぜならひとたび人の生命が始まったら、どの親にもその存在および発達を妨害する権利はないからである。もちろん胚は存在する権利を、両親が受け入れに同意したからといって得るのではなく、母親に迎え入れられて得るのでも、法律によって認められて得るのでもない。ただ人間であるということでその権利を得るのである。一方、妊娠が延期された場合、複雑な人類学上の精神力学における生殖の意味はさらにゆがめられ、曲解されることを見逃すことはできない。(そのようなものがある場合)性的結合と受精とを人工的に切り離すことは、体外受精の技術において、すでに過激で容認しがたいものであり、低温保存された胚の移植という場合には極端化している。

もし胚の母親が誰であるか分からない場合、あるいは母親が移植を拒否した場合、それを別の女性に移植することができないか、と考え始めた人々(その中にはカトリック教徒も含まれる)がいる。これは「出生前養子縁組」というケースとなり、代理出産や、ドナーの卵母細胞を用いた異質組織の受精とは別のものに分類される。この場合は夫婦のつながりを壊すことはないし、家族間の人間関係の均衡を崩すこともない。なぜならその胚は、遺伝的に見ると、養父母どちらとも同じ関係になるからである。生まれる前に養子となった子と養父母との間ではより強くて深い結びつきが生じるので、これまでの養子縁組ではたまに見られる心理的な障害が減るはずである。さらにそのような解決法によって、夫婦愛の子孫を残す能力の表現としての養子縁組、生命に対する寛大な態度の成果としての養子縁組の意義が強調されるであろう。そのような寛大さを持ち合わせている夫婦は、両親が死んでしまったり、両親に見捨てられた子どもたち(Familiaris consortio『家庭 愛といのちのきずな』#14、#41;  Evangelium vitae『いのちの福音』#93)、特に障害や病気のため見捨てられた子どもたち(Evangelium vitae#63)を喜んで自分の家族に迎え入れようとする。

この解決法は、確実な死の危険にさらされた胚を救うために提案された極端な案であるが、そのような危険にある胚のいのちの価値を深刻に受け止め、低温保存の挑戦を果敢に受けて立つというメリットがある。それは無秩序な状況が及ぼす悪影響を抑制しようと努めるものである。しかし、その無秩序な状況自体に倫理的分別が、この場合は深く踏み込んで、解決法を見つけようという試みに影響を与えるという役目を果たさなければならない。実際、隠しようのない深刻な問題が複数存在している。まず第一に、そのような特異な養子縁組は、人工生殖の技術を支配する、効率という非人間的な基準を避けて通ることはできないかもしれない。あらゆる形の選択を除外することは可能だろうか?養子にする目的で胚が作り出されるような事態は避けられるだろうか?不法に胚を作り出す施設と、それらの胚を合法的に養母に移植する施設との見え透いた関係を予測することは可能だろうか?この方法によって、はからずも、逆にヒト胚を、さらには人間というものを対象化し操作する新しい形態を合法化し、助長さえする危険を冒すことにならないか?

冷凍胚のケースでは、根絶しがたい迷宮という悪例がある。科学知識というものは、人類の真の幸福のためにではなく個人的な利益のため、良識ではなく欲望のみのために用いられると、自らその迷宮に迷い込んでしまう。これらの問題の重大さ、生と死の問題の重大さに直面した時、クリスチャンは生命の絶対的真理を宣言するという、神からゆだねられた任務をひしひしと感じる。彼らには善良なる全ての人と共に、新たに持ち上がっている問題に対する解決法、すなわち、必要とあらば大胆に、しかし常に人間の価値および本質的権利を尊重する、とりわけ最も弱く小さい者の権利を尊重するような解決法を持って応じる責任がある。

Maurizio P. Faggioni, O.F.M.
マウリツィオ・P・ファッジョーニ 
フランシスコ会士
(1996年8月21日付L’Osservatore Romano)
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