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「痴呆症とお彼岸介護」老いる苦しみ

老いる苦しみ

前回紹介した物語『河童』の主人公は痴呆症だった。痴呆症、それは高齢化が進んだ現代、年老いての主な苦しみの代表だ。四門出遊伝説によると、お釈迦様 は東の門から出ていって一人の老人に遇った。その老人は老衰のあらゆるさまをあらわし、脈絡はふくれ、歯はかけ、 皺だらけで、杖をついてよろめき、手足がふるえていた。当時は、まだ痴呆症は主要な老苦でなかったようだ。 

介護保険

高齢者の約7%が痴呆症になる。痴呆症は病気であって、正常の老化現象とは全く違う。 正常老化に伴う物忘れでは思い出すことが難しくなる。病的な物忘れでは記憶の一部が消えてしまう。 トイレの使い方等の簡単なことを忘れ、どうしたらいいか分からず不安に苦しむ。次第に脳が衰えて、ついには動くこともできなくなる。夕日が沈むように人生の最後を迎える。 

介護保険の対象は老化に伴う身体障害と痴呆症だが、日本では痴呆症の早期発見対策がなされていない。 健康診断が行われているのは身体の病気だけだ。癌や心臓病は進行してからでも、本人への説明と自己決定が可能だ。 しかし痴呆症が進むと説明は理解できなくなり判断能力もなくなってしまう。 痴呆症こそ早期診断と本人への早期病名告知が必要なのだ。 

餓鬼道でなくても、食べられないで苦しむ

ある痴呆症の女性が次第に食事を摂れなくなり、衰弱して死亡すると思われた。 本人は説明を理解できないので病状の説明は家族に行った。流動食を入れるボタンをつける胃内視鏡手術で延命は可能だが 、苦しむ時間を延ばす結果になることを説明した。本人なら苦痛緩和だけを望んだであろうが、家族は延命を希望した。 患者は栄養不良で衰弱することは免れたが、次第に手足を動かせなくなり、言葉を失い、 床ずれ防止のため体位を変える毎に痛そうな表情を見せた。スウェーデンから招いた市福祉長と看護婦がこの患者を診て私達を責めた。スウェーデンでは、 判断能力を失った痴呆症患者についてケア関係者が会議を開き、あらかじめ数年前に聴いておいた本人の延命治療拒否の自己決定を確認する。痴呆症患者を組織的に早期発見し、本人へ病名を含めた病気の詳しい説明を行って、痴呆が進行した場合の本人の希望をあらかじめ聴いておく。 このような早期病名告知は、グループホーム等の痴呆症介護も充実してはじめて可能となる。 痴呆症が進行しても幸福に暮らせる福祉社会が、情報を知らせた上での自己決定の保障を実現しているのだ。 

この患者さんは11ヵ月と9日間、苦しい時間を延命して死亡された。 

お彼岸介護

お釈迦様は筏の譬喩を説かれた。後に波羅蜜という言葉が美しく比喩的に到彼岸と訳された。 苦の此岸から楽の彼岸に渡るための筏、彼岸に渡ったら筏を捨てる、仏教も捨てる。仏教は仏教自身に執著しない。 無執著そのものにも執著しない。お釈迦様は我という執著こそが苦であると説かれた。「生まれも苦であり、 老いも苦であり、・・・・・・。要約していうならば、我に関する五つの執著の集まりが苦である。」  我という執着が無くなった人は、他人を自分と差別せず、あらゆる人を自分と平等に扱う。 進行した痴呆症介護で優れた方法にヴァリデーション療法がある。ヴァリデーションは承認・批准という意味だが、 彼岸に渡す筏とも共通する基本姿勢が認められる。そこでは、それを行う介護者と痴呆老人が人間として本当の意味で平等だと考える。 痴呆症老人が間違ったことを言っている時に、それを正してみても苦しみを除く役には立たない。 逆に不安を増してしまう結果となる。それよりも、間違った言動の背景にある気持ちを察して、共感して受容する。 客観的現実よりも、むしろ痴呆症老人の主観的な現実を重視する。 例えば、数分前のことを忘れてしまう痴呆症老人、病気の母が私の帰りを待っているから、ここにじっとしてはいられない 、と訴えたとする。貴女は九十五歳で、貴女の母親は生きていれば百二十歳です、もうずっと以前に亡くなっていますよ、 と教えることは、不安を益々増長し、母親を心配することに更に執著させる結果となってしまう。 それではお母さんのところに帰りましょうと一緒に歩きだせば、不安は解消する。トイレの前に来たときに、 途中でトイレに行きたくなったら困るから、ここでしていきましょうと誘導する。トイレをすませて出てきたときには、 すでに数分前に考えていたことは忘れており、安心して自室に帰る。 

ヴァリデーションには、次のような特徴がある。総ての人はかけがえのない存在だから、一人一人に個性的に対応する。 痴呆症老人に対して如何なる辺見も持ってはならない。痴呆症老人の心を理解し、本当にその人の身になって行動する。 どうです、お釈迦様の対機説法と似ていると思いませんか。

Tanaka Masahiro (タナカ マサヒロ)
田中 雅博
坂東20番西明寺住職・普門院診療所内科医師
出典 藪坊主法話集
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2017.1.30.許可を得て複製