日本 プロライフ ムーブメント

「値高く、貴い者」イザヤ書43章1~7節

人間の生命は貴い。日本国憲法の三大重点は主権在民、平和主義、人権尊重である。 人権尊重は人間の生命があまりにも粗末にされてきた日本の過去への猛省から来ている。1931年~1945年の軍国主義侵略戦争によって日本の300万が殺され、その日本の手によって2, 000万人ものアジア人が殺された。この人命軽視。また女性はいつも男性の下位におかれ、従わされた。 子どもは大人の道具のように人身売買された。これらへの反省から人権尊重が強調されたのである。 

では何故、人命・人権はそれほどまでに大事にされなければならないのか。聖書にその明快な答えが示されている。 人間は天地創造の神と向かい合って生きる人格として創造され、生かされている。それがあるべき人間の姿である。 しかし現実には、人間は神に背中を向けて不自然な生き方をしている。その不自然さが自然になるほどに、 人間は創造の秩序から外れている。聖書はそういう人間を「罪人」と言う。 神との関係を崩しているそのことが罪として裁かれるのである。 しかし現実には人間は神に背中を向けることが逆に自然になっており、 反対に神に向かって生きることが不自然になっている。その結果、キリスト者は少ないことになる。 

神は人間を裁く「義」なる神である。しかしその裁きを私たちへではなく、身代わりとして独り子イエス・ キリストに負わせたのである。私たちはイエス・キリストの命と引き換えに罪赦されて生きるものとされている。 ここに私たち人間の尊厳の根拠がある。 

1995年、一人の沖縄の少女が3名の米兵にレイプされたとき、8万余の抗議集会が開かれた。 挨拶に立った当時の大田昌秀県知事は“知事として幼い子の尊厳を守ることが出来なかった”と謝罪した。 それは誠実な謝罪ではあった。しかしどんなにレイプが大きな犯罪であり、 被害者の少女が生きていけない程の傷を負わされたとしても、レイプによって少女の尊厳は少しも崩れてはいない。 人間の尊厳とはその人の在りようによって決まるのではなく、神が独り子イエス・ キリストを犠牲になさるほどに人間を大事にされたという、この事実にこそ根拠がある。 それは神によって打ち込まれた不動のものであり、人間の如何によって動くものでは絶対にない。 それほどのものだからこそ、人間は大切にされなければならないのである。

Taira Osamu (タイラ オサム)
平良 修
うふざと教会
日本キリスト教団うふざと伝道所
出典 説教メッセージ要旨 
Copyright ©2016年4月17日
2018.10.16.許可を得て複製