日本 プロライフ ムーブメント

難民支援の実際

参加していた聖書研究会の祈りの時間に、あるコンゴ人ファミリーのための祈りが祈られるようになって、その祈りの内容は月を追うごとに深刻になっていた。8歳と11歳(当時)の小学生のいる家族から、母親だけが突然品川の入国管理局に収監されて、子どもたちは家に取り残された。父親は食べるためのわずかな仕事のためにほとんど家にいない。

 川越市内の家族の家から品川まで、この二人の子どもたちを月に一回母親と面会させるための手伝いに、支援に関わっていた聖書研究会の仲間の友達を助けることから私の支援は始まった。入国管理局で支援者の面接をするのは初めての体験だった。そこには多くの外国人が収容されていて、中での生活は、理不尽なことが多かった。入国管理局のロビーには、様々な支援団体からの支援者たちが集まっていて、いろんな支援者たちがいて、支援の仕方も様々だった。ロビーに集まっているいろんなタイプの支援者の人から支援の実際の話を聞くことで初めて知ることも多かった。月に2,3回、現場に足を運ぶことで、集まってきている人たちと情報交換しながら、自分の国の、あるいは世界の様々な国の、私が普通に日常生活を暮らす暮らしとは全く関係のなかったいろいろな事情が分かってくるようになった。

 収監されてしまった母親は、もともとはコンゴ内乱の際にコンゴにいた日本人のつてで日本に逃げてきた難民申請者だった。しかし日本では難民申請をしたところで難民認定され難民として日本で生きることができる人たちはほんのわずかで、難民申請者としての在留特別許可を受けて難民認定を待っている人たちがたくさんいる。この家族の父親も母親も難民認定申請者として日本に暮らすようになって10年以上が経っていた。難民認定を待つ間、定期的に入国管理局に手続きに行かなければならないのだが、母親の方が体調不良で一度手続き期限を守ることができなくなり、在留特別許可を取り消されてオーバーステイの仮放免という身分になってしまった。仮放免になると生活の制約が厳しくなる。届け出なしでの引っ越しができないのだが、引っ越した後に届け出をしてしまい、届け出をしたその日のうちに収監され、子どもたちと引き離された。

 突然母親を奪われた子どもたちの生活は悲惨なものだった。食べるものも足りず、学校給食が唯一のきちんとした食事で、家の掃除も、洗濯も、する人のいない家の中でまるで動物のように暮らしていた。祖国ではないので親戚もいないし、文化の問題もあって助けてくれる近所の人たちがいるような状態でもなく、もともと日本人のようにしつけられていない上に、母親を奪われてすさんだ生活の中で情緒的にも安定していいない子どもたちを支援することも、一時間半かけて品川まで往復させるのも容易なことではなかった。それでも見捨てることは出来ない、と、この家族に関わる数人の支援者たちと手分けをしながら支援活動を進めていくことにした。子どもたちの住む地域のカトリック教会のボランティアグループと繋がり、子どもたちの通う学校とも連携し、十分とは言えない支援ではあったが、又支援は困難を極めたが、子どもたちの様子を支援者たちで見守りながら、また、品川の入国管理局に収監されている母親との面談を重ねながら、共に祈り、仮放免の希望を失わないように親子を励ましつづけた。子どもたちのためには何とかしてこの母親をふたたび仮放免してもらわなければならない。容易ではない準備とは聞きながら、日本における難民たちの現状を本やネットで調べ、法律を調べ、いろいろある難民支援団体、弁護士や政治家やジャーナリストと手探りでつながりながらいろいろ教えてもらいつつ、要望書の切り口を吟味しながら書類をそろえ、仮放免のための申請に繰り返し協力した。何度申請しても却下され、子どもたちと再び一緒に暮らせる日が来ないのではないかと意気消沈する母親(一度は入国管理局で自殺未遂もはかった)と子どもたちを励ましながら、祈りながら、祈ってもらいながら、出来ることの限界に打ちのめされつつも、やれることをコツコツ積み重ねるという支援を続けていた。支援活動に関わるようになってから七か月が経ったころ、コロナの蔓延も手伝って、母親の仮放免が許可された。保釈金は50万円…。集めるのも容易な額ではなかったが、支援者同士の連携プレーで何とか期日までに用意が整い、仮放免の日を迎えた。子どもたちの嬉し涙は忘れられえない。

 もともと安定収入が得られず、支援者の支援によって生活保護で暮らすようになっていた子どもたちの父親の経済状況はコロナの影響でさらに悪いものになっていった。母親も仮放免のステイタスでは働くことができない。電気もガスも止まり、支援金や支援物資を探して集めてこの家族に届けるのが支援の内容に変わっていった。当たり前のことだが、私たちが一生懸命働くと、この家族は支援をあてにして何もしなくなってしまう。コロナの初めの頃はかなりまとまった支援金を様々な団体からもらうことができたが、恒常的に支援金で暮らせるわけもない。二年二か月という長い収監期間から解放されてしばらくの間は家族で暮らせる喜びを味わっていたようだが、しばらくすると、困窮と支援任せの不安定な生活の中で、彼らの不満がたまっていくようになり、彼らの理想をかなえてあげることのできない支援者たちとの関係が悪化する事態もおこってくるようになった。

 今年の五月に、私は家の事情で大阪に引っ越すことになり、この支援活動の第一線から離れることになった。大阪からでもできることはあるので、書類の作成や翻訳、支援金や支援についての情報集めなどできることを続けながらこの家族に寄り添っている。

 支援活動に関わるようになって二年になるが、この活動を通して感じること、考えることはたくさんある。まずは、関わるようになって知ったこと、考えるようになったことに感謝したい。聖書研究会で出会った友達が支援する活動に参加する仕方で関わるようになったのがその端緒だが、この支援活動がいつも聖書的であることに驚いている。寄留者に手を差し伸べる、貧しい人たちのことを忘れないようにする、という聖書の基本的な指示に応じる仕方で関わり始めたが、支援者でありながら、支援する人たちの「友になる」ことの難しさとすばらしさを、いろいろな体験から、いろいろな角度から感じている。自分たちと支援が必要な難民、難民申請者の方々との個人的な関係でも向き合う問題でありながら、国家と国家の枠組みにおいても同じ図式が成立していた。自分たちの国を守るため定められた法律は当然だが自国民を優先する内容で、自国民ではないよそ者を排除するもので、それらの法律の定めるところによって難民の人たち、難民申請者、仮放免の人たちは、彼らの人権が脅かされるほどのひどい条件下で「いのち」が脅かされている。この法律が嫌ならば、気に入らないならば、自分の国に帰ればいい、と支援する気持ちを放棄している人たちは簡単に言うが、彼らは命からがら自分の国から逃げてきた人たちで、自国に帰れば、もっとシンプルに「殺される」という仕方で「いのち」が脅かされている。脅かされている「いのち」のやり取りの中で国と国との友情関係は成り立つのか、ということもいつも考えさせられた。最近、名古屋入管の死亡事件を通して新聞でも取り上げられているが、入国管理局の職員の厳しい行動は、法律に裏打ちされているからと言って、人間がやっていいのか?と思うような人権侵害で、名古屋に限らず各地の入国管理局でよく聞く話である。入管の職員たちや自分たちの国である日本が今彼らに対して実際にやっていることは、日本の国を守るためという大義名分のもとで、かつての戦争のように、今もすでにそうだが特に未来の人間たちから非難されるに十分な悪行ともいえるもので、人間として、日本人としてとめなければならない、という、義憤のような思いにとらえられることもある。

「こうすればよくなる」という答えの見えない多くの場面で、「寄り添う」ということと、「友になる」「友になろうとする」営みにいつも希望を見いだした。その希望に安住してしまうのではなく、手の届くところからの改善に果敢に挑みながら味わう希望として。その希望を持ち続けることで、出口のないトンネルの中にいる「友」に希望の光を灯す可能性になりうるかもしれないという新しい希望が生まれてくる。

 一人の人間にできることは本当に限られている。困難な支援活動で向かい合うのは自分の無力さでもある。自分の無力さに負けずに進みだす力を、聖書とキリスト教はいつも与えてくれる。そして次から次へとやってくる困難な「問題」によって祈りに招かれる。自分たちの力ではどうにもならないから、祈る。自分たちのやっていることが危なっかしいから、祈る。苦しみの中にある友のためにとりなして祈る。祈ることで、関わる人たちと祈りあうことで、踏み出す力が与えられ、状況も不思議な形で突破されていく。ここに神さまが共にいて私たちと働いていらっしゃる…この感覚は神秘としか言いようがない。難民支援活動も、「いのち」の問題である。目の前にある彼らの「いのち」と人権が、国家と為政者のエゴと、周囲の人間たちの無関心によって脅かされている。関わることからすべてが始まり、「いのち」の問題に関わることで、いのちの源である神のわざにふれさせていただく経験が深まっていくように思う。

 出口の見えない困難な状況に直面して、心も体も疲労困憊で、川越から東京に向かう車の中で、「神さま、どうしてですか?どうしてこんな困難なことに関わらなければならないのですか?彼らは無力です。私たちも無力です。どちらを向いても悪の誘惑に負ける弱弱しい人間の姿しか見えません。支援活動自体が無駄な徒労のようにさえ思えます」と神さまに向かって弱音を吐いた時、神さまの声が心に響いてくるように感じた。「わたしはそれをずっとやってきている。」その瞬間、神さまの愛が体を突き抜け、身体に溢れ、涙が止まらなくなった。そうなのだ、創造の初めから、アダムとエヴァが罪を犯した時から、イスラエルの歴史と人類の歴史を通して、神さまが人類にしてきてくださったことに比べると、私たちがやっていることは本当に小さな無力な支援活動であるけれども、差し伸べた手の届く人から、やめない、関わり続ける、寄り添うことの大切さを、今日も、これを書きながら、感じなおしている。

Yuri Tada(タダ・ユリ)
多田 由理
大阪教区 カトリック高槻教会信徒
Copyright©2021年8月31日
2021年9月4日許可を得て複製