日本 プロライフ ムーブメント

福音のすすめ〜聖家族

主の降誕の祭日のあとには、聖家族の祭日があります。聖家族というのは、いうまでもなくヨセフ、マリア、 イエスの家族のことです。

( 今日の聖書朗読箇所)
第一朗読 創世記(15章1-6節、 23章1-3節)
第二朗読 ヘブライ人への手紙(11章8,11-12,17-19節)
福音朗読 ルカによる福音書(2章22-40節)

主の降誕の祭日のあとには、聖家族の祭日があります。聖家族というのは、いうまでもなくヨセフ、マリア、 イエスの家族のことです。家族の標準的な構成は、親子ということではないかと思います。ですので、 イエスが誕生したあとに、聖家族をお祝いする日があるのでしょう。ただ、 家族の標準的な構成を満たしていなくても家族です。片親世帯もそうでしょうし、お子さんがいらっしゃらないご夫婦の方 、死別や離別によってお一人になっていらっしゃる方、独身の方などの一人暮らしでも広い意味での家族です。今日は、 家族とは何だろうということをご一緒に考えていきたいと思います。 

まずは、何らかの事情で一人暮らししている方の家族についてみてみます。家族というとどうしても、 複数の人と一緒に住まわれていることを思い起こしがちです。たしかに昔は、 何代もの人が同じ屋根の下に暮らしていたこともありました。しかし、核家族化が進んだりして、 今は少人数で住まわれている方も多数います。そして、一緒に住まわれている方が亡くなったり、家から出て行ったり、 ずっと独身などで、一人暮らしをされている方も多数おられます。では、そのような方には、家族がいないのでしょうか。 そのようなことはありません。わたしたちがこの世に生を受けたということは、必ず父親と母親がいました。つまり、 家族がいたということです。ただし、父親と母親に愛がなかったり、 不幸にも何らかの事情で両親とも亡くなったりしている場合もあります。そのような方は、 自分に家族がいたとは思えないでしょう。昔のCM で、人類は皆兄弟というのがありました。つまり、人間は一つの家族だということです。聖書を見ますと、 神はまずアダムを造られました。その後、エバを造り一つの家族を形成しました。そのアダムとエバから、 わたしたち人間が生まれてきました。たしかにこの話は神話的要素が強いのですが、 わたしたち人間を造られたのは神に間違いありません。しかも、 神はわたしたち人間を造られたときに善いものとされました。ですから、わたしたち人間は、 神家の家族だといえるのではないでしょうか。そうであるならば、たとえ一人暮らしでしょうとも、 家族がいないということはなく、全人類が家族だといえるでしょう。 

それでは、ここで、わたしたちの理想の家庭の姿を示してくれている聖家族についてみていくことにしましょう。まずは、 ヨセフですが、彼は聖書の中にはほとんど出てこない、沈黙の存在です。その彼とマリアは婚約状態にありました。 あるときに、マリアが妊娠していることを知らされます。ヨセフとマリアの間には、男女の関係がありませんでしたので、 ヨセフはマリアが浮気をしたのではないかと思い悩みました。 当時の律法だとマリアは石殺しの刑になってもおかしくありません。思い悩んでいるときに、ヨセフのもとに天使が現れ、 マリアは聖霊によって身ごもったと告げられます。今のわたしたちだとどうでしょう。夢か何かと思い、 天使の言ったことを信じることができないのではないでしょうか。しかし、ヨセフは天使が告げられたことを信じました。 つまり、ヨセフはいつも神を信じ信頼して、神に従って生きていたということでしょう。 

次にマリアですが、彼女もヨセフと似たような経験をしています。マリアもあるときに天使が現れ、 聖霊によって身ごもると言われます。マリアは、自分は男性との間に男女の関係がなかったので、 この天使は何を言っているのか理解できませんでした。しかし、最後には、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり 、この身に成りますように」とマリアは天使に答えます。たしかにマリアは、天使にそのように答えていますが、 マリアは自分の身に起こることを完全に理解していません。しかし、わたしたちと大きく違うのは、 たとえ理解できないことであったとしても、それを心に留め、いつもどういう意味なのか思い巡らしました。なぜ、 このような姿勢だったのかといえば、マリアも神を信じ信頼して、神に従って生きていたということです。 

最後にイエスです。イエスは、神であり、人間です。この両面を併せ持っています。とはいっても、 この世の中で生きているときは、神の面を押さえて人間的に生きていました。それは、イエスを知っている人が、「 あの人は、大工の息子だ」と言ったことでもわかります。少なくとも、イエスが公に宣教活動を行う前までは、 ごく普通の少年で、おそらくは父ヨセフの手伝いをしていたのでしょう。もしかしたら、 いたずらをしていたかもしれません。このように、聖家族とはいっても、ナザレでの生活は、ごく普通の平凡な家族でした 。ということは、わたしたちが家族を考える上でヒントとなることがあるのではないでしょうか。 

まずいえることは、何か特別なことをする必要はないということです。 実際にヨセフ家の人々はユダヤ教に関する宣教活動を特に何もしていません。それは、 周りがすべてユダヤ教だったという事情があったにしてもです。わたしたちは、福音宣教活動をするように言われますと、 具体的に何かをしなければならないように思ったりします。 聖書の分かち合いなどができる人は当然ながらやっても良いと思いますが、 みんながみんなそのような能力や才能を持っているわけではありません。誰にでもできること、それは、ごく普通の生活を送ることです。ただし、一つだけ条件があります。それは、ヨセフやマリアのところでも触れましたが、 神を信じ信頼するということです。人生の歩みには山あり谷ありであり、あるときには高速道路だったりもします。 どのような状況にあっても、わたしたちは神と共に歩んでいるということだけは信じ続けていかなければなりません。 そのためには、絶えず神との対話が必要となります。そうでありませんと、自分中心の生き方となり、 思い込みが先行してしまうことにもなるでしょう。 

初めに、家族は、自分の近親者だけではなく、全人類だということをお話ししました。 わたしたちが普通の日常生活を送っているとき、まずは自分の家族のことを大事にするでしょうが、 それと同時に周りの人たちのこと、世界中の人々のことにも関心を持つことです。関心を持っていますと、今、 何をなすべきかが自ずとわかってきます。たとえば、日本国内では、表面だっては目立っていませんが、 貧富の差が徐々に広がっています。貧しい人たちは、生活保護を受けないで、 派遣のような不安定な職場で働いていたりします。近くにそのよう方がいたら、声をかけ、あるときには昔のように、 おかずを差し入れてあげるなどのことをするのも一つの手ではないかと思います。 世界に目を広げるとそのような人は多くなり、 特に難民になった人は住むところや食べるところさえなくて多くの人が毎日死んでいます。 そのような人たちのために具体的にできる手立ては限られていますが、 何かのきっかけでその人たちのためにできることがあったならば、積極的に関わっていくことが必要でしょう。 

最後には、なんといってもわたしたちキリスト者の家庭においては、人間中心ではなく、神中心の生き方をすることです。 そのためには親御さんが率先してそのような生き方をしなければなりません。良いことがあったときには、神に感謝し、 何か悩み苦しむことや困難にぶつかったときには、神により頼み、いつか神が助けてくださるという希望を持ち、 表情に出すことです。このような生活をしていたならば、周りの人たちは、「なぜ、あの家庭は、 あんなにも平穏なのだろう」と思い、知らず知らずのうちに周りを福音化していくことになります。これこそが、 聖家族の祭日において思い起こす第一のことではないでしょうか。この日を期に、 わたしたちの日常生活を神中心の生き方に変えていきましょう。わたしたちが日常生活を通して、神の愛を受け止め、 周りの人へもその愛を分かち合っていくことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ)
嶋崎 浩樹
出典: LOGOS(みことば)
福音のすすめ
2018年度 B年 12月31日
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