日本 プロライフ ムーブメント

人間らしく産まれて来る権利

女性間同性愛者でも『彼女たちの』子どもをめぐって争うこともある。実際に妊娠して子どもを産んだ女性と、生殖過程には携わらずに、連れ合いの女性が妊娠することに同意しただけの女性の例である。これは、恋愛関係にあった女性間同性愛者カップルが離縁し、現在5才になる女の子をめぐって係争中という実際にアメリカであった事実である

子どもの産みの母親は、母性本能を満たすために人工受精を利用した。その後同棲していた相手と別居することになり、理にかなったというべきか一般常識から言っても当然と思われるが、その子どもはもう片方の女性ではなく、実の母親の元に残る事になった。しかし、子どもを自分の子どもでもあると思っているもう一人の女性はその少女と引き離されることを受け入れる事は出来なかった。彼女は、子どものいる同性愛者のカップルにも、通常の配偶者間に適応される法律が有効であると主張している。残念な事に、これは同性愛者カップルも通常の夫婦と同じように扱うべきであると強調した急進的な運動に要求されるがままに平等主義を拡張しすぎてしまったゆえの逆説的な結果である。

このアメリカ人少女のケースは、すべてが異例かつ極めて例外的なものである。自ら同性愛者であると宣言する二人の女性の愛情は醒めてしまった。安定した家庭を築けるという幻想を抱きながら二人は一緒になり、そして子どもを持つ事にした。ルシンダという女性だけが妊娠をし、子どもを設けた。もう一人は夫の役目を果たした。子どもは人工受精によって身ごもった。

このカップルはただでさえ異例であるのに、それに加えて子どもの設け方まで異例だったのである。キリスト教の道義では、本来あるべき自然な家族を営む代りに同性愛者同士で結婚すること、あるいは、不自然な方法で妊娠をする事を認めておらず、その道義に背く事は、結婚に関して神が確立した秩序を著しく乱し、新たな生命を育む上でも大変有害なことと見なされている。ヨハネパウロⅡ世は最新の回勅の中でもこの事を確固として、また厳然と述べている

人間がやりたい事を何でも出来るようにするために、自由という意味を絶対的に価値のあるものとして恣意的に使ってしまうと、深刻な社会的および道徳的混乱を招くことになる。子どもを持つという決定がなされ、まるで快楽の目的のように、個人の私心のために『もの』として使われた。そして別離が決まると、子どもは実の母親ともう一人の母親と言われる人との争いの対象となる。つまり、子どものいる夫婦が別れる時に見受けられるこの哀れむべき光景が、悲劇的で且つ異常な形となって現れてしまった

ご想像の通り、この問題を法廷に持ち込んだのは実の母親であるルシンダではなく、もう一人の母親と言われるジョアンのほうである。そして彼女の『別れた配偶者』としての権利は認められた。この裁判はニュー・ハンプシャー州のドーバーで開かれた。判決は5月16日に言い渡される。ジョアンの申し立て目的は、相手と別れはしたが、子どもの共同養育権を得ることである。

もちろん、判事の決定を案じても何にもならない。しかし、理屈と良識から考えても、実の母親と共に暮らすのがこの子にとって一番良いと誰しもが思うであろう。連れ合いが妊娠・出産する事に同意したというだけでは、子どもを妊娠するための行為に実際に加わった配偶者と同様の有効な法的権利が与えられるわけではない

この判例から学ぶべき事は、私たちは同性愛者同士のカップル(男性女性にかかわらず)が新たな生命を育むという選択をしないよう、人工受精の規制を強化するべきである。そもそもそういう方法でいのちが誕生すること自体が自然の摂理に反する。子どもにも人間らしい方法で、結婚(キリスト教信者にとってはサクラメント)によって結ばれている女性と男性から成る永続性のある夫婦のもとに産まれて来る権利がある。さらに、子どもを授かったその両親のもとで育てられる権利もある。こうした節操がなくなれば、無秩序、道徳的社会的混乱を招くだけである


Joe Consendy(ジーノ・コンセッティ)OFM
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