日本 プロライフ ムーブメント

中絶賛成派は決して敬虔なカトリック教徒ではない

旧約聖書の神の律法は明確かつ明白である:汝殺すなかれ。イエスの教えはもっと厳しい:怒れる者は誰もが審判を受ける。 

人は第五の戒律を破って簡単に罪を犯してしまう。怒りや憎しみ、あるいは嫉妬や復讐心に動かされて考え、発言し、行動する場合、我々は神から授かった尊い贈り物、いのちの贈り物‐特に人の生命を大切にせよという神の戒律を乱していることになる。 

人の生命はその始まりから自然な終わりを迎えるまで神の創造の一部であり、ゆえに神聖なものである。第五の戒律は直接的で意図的な殺人を重大な罪として禁じている。いのちの主は神だけである。神がその愛の贈り物として創造し、維持しているものを無断で終わりにする権利はだれにもない。 

カインがアベルを殺した物語(創世記4:8-12)において、聖書は有史以来、人間に存在する怒りと妬み、原罪の結果を私たちに示している。神はこれを邪悪と断言し、世代を超えて答えを見つけるべき問題として次の質問を投げかけた:「汝は何をしたのか?」今日、この質問は殺人を犯した人にだけでなく、暴力、怒り、憎しみ、復讐に関わる人達にも投げかけられている。 

家族の中で日常的に暴力的な言葉が発せられるのは恥ずべき事である。怒りや狭量も我々の教会や社会に広がる傾向にある。こうした態度は破壊的で罪深い。これらは悪の仕業であり、神のものではない。 

自分の生命を守ろうとする人に殺人の罪はなく第五の戒律は正当防衛を否定するものではない。正当防衛とは単なる権利ではなく、他の人の生命、家族共通の利益、国の安全保障に責任を負う人にとっての重大な義務でもある。人の生命と自由を尊重するからこそ、我々はその生命をかけて自分と他の人の生命を守ろうとする。それは神からの贈り物であり、我々はそれを大切にし、守っていかなければならない。 

一世紀から教会は中絶すなわち子宮内の無力な赤ん坊を殺すことの道徳悪を唱えている。中絶の罪に対する意識が低い人々や中絶は道徳上の重大な問題ではなく政治的な問題であると考える人々はそれが第五の戒律を破る罪であることに気づいていない。敬虔なカトリック教徒が「中絶賛成派」(中絶擁護派)ということはあり得ない。教会が中絶賛成派の人に聖体拝領を辞退するよう求めているのはそのためである。我々は意地悪や批判的な立場でそうしているわけではない。そうした姿勢は客観的かつ真剣に考えて罪深いものであり、クリスチャンとしての生き方と根本的に一致しない。 

第二バチカン公会議の神父たちは次のように述べている「いのちの主である神はいのちを守るという崇高な使命を人間に託した。人間の生命は受精の瞬間から最大の配慮を持って守られなければならない:中絶と嬰児殺しは極悪非道な罪である」(「喜びと希望」No. 51.3)。中絶に公に協力することが重大な罪となるのはこのためである。教会は人間の生命に対するこの罪に対し、教会法に基づいて破門という罰を加える(教会法1398、1314、および13231324を参照)。 

第五の戒律は正義と平和のために働き‐可能な限り戦争を回避する‐最も極端(かつ希少)な状況に対しても人命を守るために死刑の使用を制限することも説いている。他人の生命を奪う権利は神にしかない。我々が‐自己防衛や他の人を守るために‐その行為を自ら行う場合、他の選択肢が全くない事を確認するべきである! 

また、病気、死が間近に迫っている、身体障害を負っている、あるいは精神を患っている人を安楽死させたりその生命を故意に奪ったりすることは道徳的に許されない。教会は病気の人々に対して行われるべき通常の医療を要求しているが、高負担、危険あるいは極端な医学的処置が必要とは限らない。自分にとって大切な人に提案された医学的処置の道徳的意味について疑問があれば、あなたの牧者や司教区の生命尊重使徒職のグループに相談すること。病気や死が間近に迫っている人への医療について教会の教えに沿った方法をあなたと一緒に考えてくれるであろう。 

健康に留意し、他の人を尊重して死者に敬意を示すことはすべて、第五の戒律で説かれている神から授かった尊い贈り物‐人間の生命‐を崇敬するという教えに表れている。 

Brown, Judie (ブラウン・ジュディ)提供
Carlson,Robert J(カールソン・ロバートJ)大司教著
Copyright 2010.7.15
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