【1.はじめに】
「いのちを守るために、原発のない世界を求めて」、このテーマは重いものです。そして重要なものです。
私は原子力発電のことを科学的に、技術的に知る者ではありません。それは門外漢です。
しかしキリスト者として、人間として生きるためには、これは関心を寄せていかなければならない大切なテーマであると思います。
原子力発電というシステムを、今、私たちはどのように考え、理解していけばよいのでしょうか。
すべての人に神様から平等に与えられているものが三つあります。
命と時間と死です。
この三つのものは、まさに平等に与えられています。
多い少ないはありません。これは荘厳な事実です。この事実を心に留めて、その中の「いのち」に焦点を当て、原発問題を考えていきたいと思います。
すべての人に神様は一つのいのちを与えて下さった。故に私たちは生きています。
正確に表現するなら、生かされているということです。
そしてそれが、一つしか与えられていないということは、いかに大切なものであるかということを想像することが出来るでしょう。なくしたなら終わってしまうのです。代わりのものはないのです。
そして、別の視点から考える時、その大切ないのちを破壊することは許されないのだと思います。
その行為に関しては「否」ということでしょう。
いのちを破壊するものは、戦争であり、誹謗中傷であり、無視することであり、共に生きることを否定することがあげられます。
その他にもまだまだあると思います。
そして、2011年3月11日にもう一つのことに気づかされたのです。
福島第一原子力発電所の事故によって、危険な放射性物質がまき散らされました。この出来事によって私たちの生活様式と思考が根本的に変化してしまったと言われています。
【2.教会はいのちのことを考える】
創世記第2章16節・17節に「主なる神は人に命じて言われた。園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と記されています。
意味深い神の命令です。
私たちは、食べてはいけないものがある、ということを知ることです。
つまり、私たちにはしてはいけないことがあるということです。
このことを再度思い起こしたいものです。そして、
原子力発電を考える時、この神の命令は、私たちの立ち位置を教え示してくれているのではないでしょうか。
「食べると死んでしまう」ということが、今、起きているのではないでしょうか。
ところで、教会で政治的なことはちょっと、と言って扱わない、避けるということはありませんでしょうか。
皆様の教会ではいかがでしょうか。
このような考えを持つ教役者、信徒の方がおられることを承知しています。
しかし、はたしてそうなのでしょうか。
カトリックの司教協議会の常任司教委員会が2016年4月7日付で出された声明は、そのことに関して明確に答えています。
私たちも耳を傾けることではないかと思います。
その一部を記します。
なぜ司教団が政治的な発言をするのかという批判や、政教分離の精神に反するのではないかという指摘があります。
これらについては、昨年のメッセージの最初の段落で、「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない」と述べました。
カトリック教会は、特定の政治的立場に立つものではありません。
ただ、司教団には、最近の日本の政治の流れが、将来わたしたちの生活の場で「人間のいのちと尊厳に関する問題」となる危険をはらんでいることに、信仰者として注視する必要があることを表明する務めがあるのです。
「政教分離」とは「政治と宗教の分離」ではなく、「国家と教団の分離」を意味しています。
特定の宗教団体が国家と権力支配・被支配の関係に入ることを禁じ、宗教団体が国家権力を行使したり権力と癒着したり、便宜の提供を受けたりしてはならない、といっているのです。
この思いを私たちは持ち続けたいものです。
そして、教会では政治のことは、との批判に対してはこのように応答されてはいかがでしょうか。
政党のことを言うのではなく政治のこと、つまり、いのちのこと、生活のことに関して、その尊厳に関することに関しては黙っておられないということです。
【3.原子力発電システムの問題】
原子力発電の問題点は、生命にとって極めて危険な放射性物質(いわゆる「死の灰」)を必然的に作り出してしまうことにあるのです。
原子力技術開発の初期には、放射性廃棄物を無毒化できるという期待がありましたが、現在では、技術的困難や費用対効果ゆえに、その見込みはほぼなくなったと言ってよい、と言われます。
放射性廃棄物の処理あるいは保管問題は、脱原発を実現しても残り続ける重大な問題です。
放射性廃棄物の半減期は数万年から数百万年とされます(プルトニウム239で2.41万年、ネプツニウム237で214万年)。
数万年から数百万年という時間は私たちが想像もできないほど長い時間です。
これほど長期間にわたって、極めて危険な放射性廃棄物を安全に保管できるかどうかは疑問です。
とりわけ、日本は地震多発地帯に位置しており、放射性廃棄物を地中に埋めて数万年にわたって安全に保管することは、ほぼ不可能でしょう。
また、これほど長い期間にわたって、発電による直接の恩恵を受けない未来世代へと極度に危険な放射性廃棄物を押し付けることは、倫理的な観点からも許されることではない(脱原発の哲学 59頁)、のではないでしょうか。
ウラン鉱の放射能半減期は45億年
使用済み核燃料の毒性は10万年間の隔離が必要
人類はどれくらい前に誕生したか。ホモと名付けられたのが180万年前、ホモ・サピエンスは20万年前。
原子力発電とは、それを稼働させればさせるほど大量の放射性廃棄物を発生させます。
それは、長期的な管理を必要とするものです。
このシステムにおいては、今を生きる私たちの電力消費のために、原発を維持し続けたその分だけ処分不可能な放射性廃棄物が増大し、その管理とそれに起因する大きな危険性が未来世代へ押し付けられることになるのです。
今を生きる私たちの幸福が、未来世代の犠牲の上に成立している、という構造であることを知ることです。
そしてもう一つ、原子力発電技術は原子爆弾製造の技術でもあるということです。
いわゆる使用済み燃料棒を再処理し、原子爆弾の原料として使用できるプルトニウムを生産することが出来るのです。
核分裂をゆっくりさせれば原発、一瞬のうちにさせれば原爆です。
原子力発電を稼働しつづけることの理由の一つに、この原爆をつくる技術を持ち続けるということがあるからだと言われています。
原子力発電を核発電と表現する人もいます。
そして、しっかりと見極めていなければならないことは、必ず危険な廃棄物が作られるということです。
【4.原子力事故は戦争とのみ比較できる】
ここで日本聖公会の「戦争責任告白」と共に考えたいと思います。
この告白によって、日本聖公会は、「神の民として正義を行うことへと召されていることを自覚し、平和の器として、世界の分裂と痛み、叫びと苦しみの声を聞き取ることの出来る教会へと変えられることを祈り求めます。」と決意しているのです。
戦争はしない、平和を構築し、平和に生きる、ということでしょう。
その観点から原子力発電を見てみると、原子力事故は戦争とのみ比較可能であるということです。
他とは比較できないほど過酷なものということです。
「脱原発の哲学」という本を読んで教えられました。
つまり、原発や原子力施設で原子力(核)事故が起これば、広大な土地が居住不可能となり、数万人規模の人々が死の危険にさらされる。
その意味で、戦争とのみ比較可能である、というのです。例えば
<チェルノブイリ原発事故>
①死者数
チェルノブイリ・フォーラムは、チェルノブイ原発事故の被害を受けた3か国(ベラルーシ、ロシア、ウクライナ)のうち比較的被曝量の多い60万人を対象として、ガン死者数を4,000人としている。
グリーンピースは全世界を対象にガン死者を93,080人としている。
ニューヨーク科学学会は、がん以外も含めた死者数を985,000人としている。
②移住
土壌汚染によって1万平方キロメートルの地域から40万人が移住を強いられた。
③経済的損失
ベラルーシにもたらされた損失は、国家予算の32年分。
これらは一つの事故としては桁外れに大きく、戦争とのみ比較しうる規模である。
<福島第一原発事故>
①避難
福島県の約15.4万人が他の土地への避難(2013年3月時点)。戦争・内戦による難民出現に酷似。
②居住不可能・管理区域
原発周辺の約1,000平方キロメートルの居住不可能地域。14,000平方キロメートルの放射線管理区域。事故が原因でここまで広大な土地が居住不可能になることはない。あるとすれば戦争によってのみ。
原子力(核)事故は、ガンなどによって人を死に至らしめ、広大な土地を居住不可能にし、そこで暮らしていた人々の生活を根こそぎ奪う点において、戦争とのみ比較可能なものであるのです。
戦争をしない、憲法9条を持つ日本の生きる方向、そして、日本聖公会が戦争責任告白を決議したという意味を考える時、その答えを改めて気づかせてくれるのではないでしょうか。
さて、原子力発電が稼働された後には放射性廃棄物が発生します。
3・11以後、多くの人はここに注目することになりました。(専門家は承知していますが)
2012年、日本聖公会は第59(定期)総会で「原発のない世界を求めて―原子力発電に対する日本聖公会の立場―」を決議しました。
その骨子は、
「神によって造られたいのちを脅かす」
「神によって創造された自然を破壊する」
「神によって与えられた平和な暮らしを奪う」
として、
「原発のない世界を求めて」いきましょうとしています。
処理技術もないまま大量に生み出された放射性廃棄物は、長期にわたって人々のいのちにとって脅威となるということ。
長い時間を経て安定した状態にされた放射性物質を発掘し、自然生態系を破壊しているということ。
今回の事故によって生活基盤が崩壊し、不安定な生活を余儀なくされたということ。
これらを指摘しています。 (続く)
Aizawa Makito(アイザワ マキト)
相澤 牧人
聖公会司祭
2017年3月2日掲載
2016年7月横浜聖アンデレ教会にて講演
2023年8月2日 掲載許可取得