教皇フランシスコは、バチカンで3日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。
説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、イエスがパンと魚を増やす奇跡を行なったエピソード(マタイ14,13-21) を取り上げられた。
洗 礼者ヨハネの死を知った後、イエスはガリラヤ湖畔の人里離れた場所に退いていたが、 多くの人がイエスの後を追っていった。イエスは群集を見て憐れみ、夕暮れまで病人をいやされた。弟子たちは、 もう遅いので群集を解散させ、各自が村に食べ物を買いに行くことができるようにしたほうがよいと勧めた。しかし、イ エスは「あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい」と言い、彼らが持っていた5つのパンと2匹の魚を祝福し、 パンを裂いて弟子たちに渡した。弟子たちがそれを群集に与えると、すべての人が満腹し、さらに余った。
教皇はこの出来事に、「憐れみ」「分かち合い」「聖体」の、3つのメッセージを示された。
一つ目の「憐れみ」について、イエスが自分を追う人々を迷惑とは捉えずに、 深い憐れみをもって接している姿に教皇は注目。「イエスの憐れみは単なる同情では なく、人々の苦しみを自分の苦しみとすること」、「イエスはわたしたちと共に、わたしたちのために苦しんでくださる。 イエスが多くの病人をいやされたの は、この憐れみのしるしである」と話された。
そして「イエスは、わたしたちに自分たちの必要より、貧しい人たちのそれを優先させることを教えてくれる。 わたしたちの必要は、たとえそれが正当なものでも、生活に事欠く貧しい人々の必要より緊急であることはない」 とも説かれた。
二つ目のメッセージ「分かち合い」において、教皇は、自分の食べ物は自分で準備すべきと考える弟子たちと、 あなたたちが彼らに食べ物を与えなさいと言うイエ スの、2つの反応を対比。自分のことは各自でと言う弟子に対し、イエスは「分かち合い」 という神の論理で見ていると説明された。
「貧しい 兄弟たちにわたしたちは何度目を背けることか。『自分たちで何とかしてください』と言うのは、イエスのやり方ではなく 、それはエゴイズムです」と教皇は述 べ、わずかなパンと魚を、神の祝福と共に分け合えば皆に足りたという出来事は、わたしたちが兄弟と分かち合うならば、 天の御父は何一つわたしたちに不足さ せることはないという、神の信仰への招きであると話された。
さらに教皇は、イエスがパンを増やすエピソードは、「最後の晩餐」でパンを裂く行為と同様、「聖体」 を先取りするものと指摘。イエスが聖体において与えるのは、単なるパンではなく、「永遠の命のパン」、 わたしたちの愛ゆえに御父に 捧げたイエスご自身なのであると強調された。
2014.8.10.許可を得て複製