バチカン放送独語電子版をみていると、興味深い記事に出会った。ローマ法王フランシスコが23日バチカンで国際刑事裁判官協会の使節団の表敬訪問を受けたが、その際、法王は「死刑を完全に廃止するだけではない。終身刑も廃止すべきだ。終身刑は死刑の変形に過ぎなく、非人道的だ」と語ったという。
バチカンは熱心な死刑廃止論者であることはよく知られているが、フランシスコ法王はそれだけで満足せず、終身刑の廃止まで要求したのだ。そのうえ、法王は未決の拘留にも異議を唱えているのだ。
要するに、フランシスコ法王は死刑、終身刑の廃止を要求し、未決拘留の慎重な適応を求めているわけだ。ローマ法王に就任して以来、何度か刑務所を訪問するなど、南米出身の法王は“囚人の人権”に非常に熱心だ。
なぜだろうか。ローマ法王は売春婦や囚人を愛したイエスの歩みを慕っているからだろう。イエスは「私は罪びとを救うために来た。健康な人ではなく、病に苦しむ人のためにきた」と述べている。「医者と患者」論だ。
同じように、フランシスコ法王は囚人の救済に心が行く。その前提は「人は変わる」ということだ。悪いことを繰り返す重犯罪人もいつか悔い改めてよき人間に変わることができるという確信があるからだろう。
繰り返すが、それでは人は変わるだろうか。DNA、遺伝子によって、人の生涯の輪郭は決定されているといった現代版「完全予定説」が勢いをもっている時代だ。
フランシスコ法王は人は神に出合えば変わると信じている。実際、悪人が善人に生まれ変わった例は無数ある。フランシスコ法王の名前、アシッジの聖フランチェスコも神に出会う前までは放蕩を繰り返し、好き放題の人生を送っていた青年だった。それが“貧者の聖人”と呼ばれるほどに変わっていった話は有名だ。
一方、死刑廃止反対者は「死刑制度は犯罪防止の効果がある」と主張し、犯罪防止に貢献するという。「神がいなければ全てが許される」と豪語したイワンの台詞(ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」)に倣い、「死刑がなければ、世界の至る所で犯罪が発生する」と脅迫する。換言すれば、死刑制度が神の代役を果たしているというわけだ。
だから、死刑廃止論者はその主張に説得力を与えるために早急に神の存在を証明しなければならない。証明できれば、死刑制度を廃止できるからだ。しかし、死刑、終身刑の廃止を主張するフランシスコ法王の足元の教会で聖職者の未成年者への性的虐待事件が多発している。神の名で多くの犯罪が行われている。ローマ法王の死刑・終身刑廃止論は残念ながら空論と揶揄されても仕方がない。
フランシスコ法王は「われわれは全て罪びとだ。他者を審判する資格を有している人間はいない」と主張し、罪びとが他の罪びとを殺す死刑制度に反対する。しかし、神を失ってしまった現代社会で神の代行(審判)を果たしてきた死刑制度が廃止されればどうなるだろうか。神が再発見されるまで、死刑制度は必要悪として容認せざるを得ない。
Editorial (オピニオン)
国連記者室
出典 ウィーン発『コンフィデンシャル』
Copyright © 2014年10月25日
2023年6月14日許可を得て複製