「2009年10月7日のクローズアップ現代『“助けて”と言えない-いま30代に何が-』の放送後、私たち取材班を待っていたのは予想外の反響の広がりであった」。「他人事ではない」「明日はわが身」といった多くの若者からの反響のことで、単行本を出した番組取材班の言葉である。
このところ、わが国では孤独地獄が広がりつつある。この人間の孤立化現象は、先月も指摘したように、無縁社会とか孤族社会とか言われているが、「“助けてと言えない”社会」もその一つである。そしてこれらの憂うべき現象の主たる原因として経済不況が指摘されることが多い。ある意味でそれも当たっていよう。しかし、より根本的な原因はほかにある。すなわち、人間は本性上、愛の連帯を生きるように造られているのであるから、それが忘れられているところに真の原因があると言わなければならない。教皇ヨハネ・パウロII世は使徒的勧告『家庭–愛といのちのきずな』11項で、愛という人間の根本召命について明快に述べている。これまでもしばしば引用した個所であるが、あらためて取り上げてみよう。
まず、人間は「愛によって」「愛のために」生きるように造られた。すなわち、愛である神(1ヨハネ4:8)は、ご自身のうちに人格的な愛の交わりの神秘を生きておられる。その神は、人間をご自分の似姿に造り(創世記1:27-28)、愛によって愛のために生きるよう定めたのである。だから神は、人間に愛する能力を与え、愛して生きる責任を負わせた。こうして、愛は、人間の生まれながらの根本召命となったのである。
ちなみに、ここに言う愛とは、キリストがなさったように、自分を犠牲にして人のために尽くすことである。そして、愛するための犠牲は喜びに変わると聖アウグスチノは言った。第2バチカン公会議も言う。「人間は、自らを純粋に与えてはじめて、完全に自分自身を見出すことができる」(現代世界憲章24)。だから、互いに愛し合うことは互いに生かすことである。 そしてこれが、人生の基本だということである。
教皇は続けて言う。人間の愛の召命の全体を実現するために二つの道がある。すなわち、それは結婚と独身である。人間を男と女に造られた神は、結婚を通して愛の連帯を生きるように意図された。結婚は一人の男と一人の女が互いに自分を与えあって一つとなり、生涯を共に生きると同時に、子どもを産み育てて人類の発展に貢献する使命を与えられた。実に正式の結婚に始まる家庭は、愛に召された人間生活の基盤であり、社会の生きた細胞である。
一方、人間の中には心身障害その他の理由によって結婚できない人々がおり、また、種々の理由により独身生活を選択する人もいる。しかし、独身といえども、本性上、愛に召された存在であり、従って、性交渉抜きの愛の道を探さなければならない。それは可能であり、多くの独身者が何らかの愛の絆を生きて来た。愛のない独身生活は無意味であるばかりでなく、非人間的である。若いうちには自由を謳歌し得ても、やがて 孤独地獄が始まり、そして孤独死、無縁死に至る。
従って、“助けて”と言えない社会から、“助けて”と言える社会に転換するためには、結婚にも独身にも「真の愛」を取り戻す必要がある。しかし、どうすればそれができるか。冒頭に紹介した本の著者である「クローズアップ現代取材班」は、助けてと言えない30代を取材するうちに、受けた教育に問題があることを突き止めた。すなわち、彼らは学校時代を通して繰り返し、また徹底して個性尊重が教えられ、自己責任論をたたきこまれたという。個性とは他者と違うということであり、個性は大切であるが、しかし、個性偏重は個人主義を助長する。その上、他人に頼らず、迷惑をかけず、自分で責任を取らなければならないと教えられてきた。その結果、降りかかる災難はすべて自分のせいにして、誰にも助けてと言えなくなってしまう。彼らは良く言ったそうだ。「親に迷惑をかけてならない」と。そう言えば、「子どもの世話にはならない」という親たちもいっぱいいることを思い出した。要するに、30代だけでなく、多くの国民が戦後の個人主義教育の被害者だということであろう。
従って、助けてと言える社会を取り戻すには教育を根本から転換する必要がある。つまり、個人主義教育から愛の教育への転換である。
Itonaga, Shinnichi (イトナガ ・ シンイチ)
出典 糸永真一司教のカトリック時評
2011年2月15日掲載
Copyright ©2013.12.24.許可を得て複製