日本 プロライフ ムーブメント

クローン形成と人間の尊厳

クローンであるか否かに関わらず、人間の胚に対する社会としての責務を理解するには、胚が何であるかを理解し、その道徳的位置付けを明らかにする必要がある。 

受精卵、胚、胎児を人間になる「可能性」としか考えない意見もあるが、現在の発生学においてこの考えは否定されている。受精卵、胚、胎児は、将来的に音楽家や医師になる可能性があると言えるが、何より明らかなことは、これらが実際にヒトの生命であるという点である。さらに、実際の生命には様々な可能性があるが、こうした可能性は、その生命自体の潜在力によるものに他ならない。したがって、人間の胚を単に人間になる「可能性」として位置付けることが正しいとすれば、同時にその胚には、まったく別のものになる潜在力も持っているはずである。しかし、現在の発生学はその可能性を否定している。ヒトの配偶子から発生した受精卵は、事実上ヒトなのである。ヒトの遺伝物質を持つ受精卵はヒトであり、自力で発達を続ける生命なのである。 

ヒトの胚を単なる人間になる「可能性」と捉える考え方は、胚の発達が「存在論的な」段階をたどるという誤った概念に基づいている。「存在論的な」段階とは、ある存在が、経過をたどる中で実際に変化することを意味する。発生学者は、受精卵、胚、胎児という言葉はヒトの発達を表現する上で便利な用語として使われているが、「段階」を区別するものではないと指摘している。遺伝学が進むにつれて、ヒトの発達は連続する事象であることが明らかになっている。(1) 

個々の胚独自の個性

ヒトの胚を実際の人間として考える場合、我々はどのような責務を果たすべきか?クローン形成を通じてヒトの生命を作り出すことに道徳的な問題はないのか? 

クローン形成に賛同する人たちは、クローンはコピーにすぎず、独自の個性を持った存在ではないという理由から、クローンを「事実上」ヒトとして認めたとしても、我々には何の責務も生じないと主張している。さらに、初めの数回の分割において、受精卵の細胞は分化を経ていない遺伝細胞でしかなく、ごく初期の段階では胚に独自性はないとも主張している。専門的な言葉を使うと、発生後数日の受精卵の細胞は、全能性であると言える。全能性の細胞は、体内のいかなる細胞にもなる可能性があり、言い替えると、ヒト全体を形成する能力を持った細胞でもある。全能性の細胞は未分化のため、他の全能細胞と区別することはできない。このことから、ヒトの発達段階における最初の数日間は、どのヒトも皆同じで、個性はないと考えられる。 

しかしながら、胚の個性を否定するこれらの議論は、どちらも誤りである。 

第一に、クローンが単なるコピーで「独自性」を持たないという主張は、多義性の点で誤っている。一般に、独自性は「そのもの特有の」という意味に解釈されている。ある女性が1つしかないドレスを購入したとして、その後、ほかの女性が同じドレスを着ていたとしたら、その人はだまされたことになる。しかし、ドレスが通常のものとは異なるという見地から、彼女に対し、そのドレスは独自のものであるという説明が行われたのかもしれない。「独自性」という言葉は、特定の存在に特別に備わった何かを指して使われることがある。この場合、同じ特徴を別の存在が持っていることも考えられる。例えば、音楽的才能に恵まれた人が多数いたとしても、ある人の音楽的才能は、その人独自のものと言える。この意味で、クローンは、「唯一のもの」ではないとしても、独自性を持つ存在と考えることができる。このことを裏付ける具体的な例がある。一卵性双生児が持つ個々の独自性を考えてもらいたい。実際、我々のだれもが両親や祖父母の遺伝子からコピーされた遺伝子によって存在している。しかし、我々には各々個性がある。クローンが持つ遺伝子は、もはやドナーの遺伝子ではなく、その発生の瞬間からそのクローン独自の遺伝子なのである。 

第二に、どの細胞になるか決まっていない未分化細胞には、まだ「独自性」がないとする考え方は、遺伝学的に誤りである。全能細胞には、完全な遺伝情報が含まれている。全能細胞にすべての遺伝情報が含まれない場合、さまざまな細胞に変化するために必要な情報が不足することになる。全能細胞については、遺伝細胞と言うより、万能細胞と考えるべきである。遺伝細胞は、どんな情報でも記入できる真っ白なページである。万能細胞は、プロジェクト全体の企画を含むアイデアの青写真に例えることができる。我々の全能細胞は真っ白な状態ではなく、我々独自の複雑な個別情報を満載しているのである。 

クローン形成の非許容性

これらの理由から、ヒトのクローン形成は、いかなる目的であっても容認されるべきではない。クローン形成は技術を利用した行為である。技術を利用することの目標は、車、コンピュータ、新薬など、何がしかのものを人工的に生産することである。卵子提供の目標は、人工的にヒトを形成することである。したがって、卵子提供は、ヒトを物として見下すような錯覚を与える行為と言える。 

ヒトは単なる物や物体ではない!という概念を理解していない人も一部にはいる。この概念を裏付ける文献が多数発表されており、公の議論においてその事実を認めるべきである。(2)ただし、要点はきわめて明快である。独自性、個性、理性を備えた存在であるヒトは、受精の瞬間から固有の尊厳と計り知れない価値を持っているのである。Donum vitae(生命の始まりに関する教書)の言葉には真実の響きがある: 

人間の生命は、その存在の最初の瞬間から、すなわち受精卵が形成された瞬間から、肉体と精神からなる全体性を備えた一人の人間として、倫理的に無条件の尊重を要求する。ヒトは、受精の瞬間から人間として扱われ、尊重されるべきであり、同じくこの瞬間から、純粋なヒトとして生きるための不可侵の権利を中心に、人間としての様々な権利が保証されるべきでなのである。(3) 

この言葉には、各々独自性を持った胚について、その利益を守ることを前提とした方向で扱うべきであるという倫理的含意がある。しかし、ヒトを物体として考える方法を用いてヒトを発生させることは、その個の利益だけでなく、人類全体の利益にも反することになるのだ。 

これを裏付けるものとして、現在行われているIVFについて考えてもらいたい。報告によると、米国だけでも、数十万個の胚が凍結されている。(4)配偶子を採取、洗浄し、受精させるという処置に加え、子宮内への着床が困難なことから、妊娠を望む当事者およびそれに携わる医師/研究者にとっての利便性を考慮し、実際には複数の胚が作成される。そこで将来必要になる可能性を考えて、「余剰」胚を凍結保存するという方法が取られている。研究のために成体幹細胞を採取する方法が十分にあるにも関わらず、科学者たちは、凍結した胚の「有意義な」利用方法として、幹細胞の採取を主張している(幹細胞を採取することで、胚は死んでしまう)。ここに、胚そのものより胚の幹細胞を重視する考え、すなわち胚を「物」として捉える概念が見て取れる。クローン形成の合法化により、誕生前のヒトは社会の判断で単に物に過ぎず、自由に利用できるという誤った観念が定着するのではないかという指摘も多数ある。 

結局のところ、クローン形成は、個性を持った人間としてのヒトの内在的尊厳を無視する行為であり、すべての人間の尊厳を傷つける行為につながるのである。これこそが、ヒトのクローン形成を禁止しなくてはならない理由である。事実、人間としての尊厳を十分に尊重し、高めることができるのは、自然な性交渉による生殖だけである。人間同士の自然な性交渉では、人間が(人工的に)形成されるのではなく、(自然に)発生するのである。Donum vitaeでもこの点を強調している: 

事実、人間の源は、相互の与え合いの結果である。受精卵は、両親の愛の結実でなくてはならない。子どもは、医学的あるいは生物学的技術による介入の産物として望まれ、受精させられたものであってはならない。それは、子どもを科学技術の目的としておとしめる行為に等しいからである。何人も、管理と支配を基準に判断する技術に頼って子どもの誕生を操作するべきではない。(DV、II、B、n.4) 

ヒトは皆、人間としての価値と尊厳が認められた方法でこの世に生まれてくる権利がある。したがって、目的の如何にかかわらず、クローン胚の開発は倫理に反することなのである。 

だが、もしも?

クローン形成を巡って現在さまざまな議論が生じているが、世界中の研究者たちは、研究目的でのヒトのクローン胚形成に積極的な姿勢を見せている。生児誕生という究極の目的を妨げることに関する議論もある。これらの行為について、我々はどんな反応を示すべきなのか? 

第一に、ヒトのクローンを形成する場合、独自性と個性を持った人間として、その発達を妨げてはならない。つまり、形成されたクローンは、実際に人間であり、人間として尊重されなければならない。なぜならば、たとえ発生の方法が非倫理的であったとしても、胚には人間としての資質がすべて備わっており、尊厳と価値が存在するからである。その発生方法について、クローンに責任はない。これはIVFで誕生した子どもについても同様である。その発生方法については反対だが、生まれた子どもについては、彼らを愛し尊重するという行為が、一部の人々に混乱を招いている。しかし、相反するように見えるこれらの行為は、必ずしも矛盾したものではない。まず、発生の仕方については、道徳的責任のあるヒトによって行われた行為(クローン形成やIVF)として非難される。しかし、こうした行為では胚が物として扱われ、生殖が技術的処理として行われているにも関わらず、ヒトとしての尊厳は維持されるのである。次に、我々は、愛情を持って新しい生命を迎えることになる。この生命には、他人の行為に対する責任はない。同じように、我々は、婚姻こそが性交渉に適した関係と主張し、夫婦から誕生した子どもを愛し、その尊厳を守ろうとしている。 

最後に、クローン胚にもすべての人間と同じ尊厳と価値があることを理解した上で、初めてヒトのクローン形成について議論し、世界的にこの行為を禁止するための取り組みが可能になり、またそうするべきでもある。クローン形成への反対意見は人類に共通する尊厳に基づいたものであることを全世界に伝え、ヒトを単なる物体として扱うことで人間の尊厳を軽んじる人々の責任を明らかにしていく必要がある。 

Morris, John F (モリス・ジョン) 
Copyright ©2012.9.22.許可を得て複製