日本 プロライフ ムーブメント

社会の中の教会をめざして平和の使徒となるために

出エジプト記3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、 追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、 乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3: 10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 

ヨハネ23世教皇回勅「パーチェム・イン・テリス」(地上に平和を)1963年

軍備縮小 59

こういった軍備は、 武力の均衡によってしか平和を保障することが出来ないという一般的な見解によって正当化されています。 59 

しかし、人間の尊厳のためには、軍備競争に終止符が打たれること、既成の軍備が同時かつ平衡的に縮小されること、 核兵器が禁止されること、そして最後に有効な監視を伴って軍備全廃達成が切実に要求されます。 60 

軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、 真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります。 61 

政治共同体間の関係は、個人間の関係と同様に、武力に頼るのではなく、理性の光によって調整されるべきです。 62 

現代では、民族間に発生する紛争は、武力に頼ることによってではなく、 交渉によって解決すべきであるという信念がますます人々の間に広まっています。 67 

対話

  • 使徒座から離れたキリスト教や、キリスト教の信仰をもたずとも理性の光に導かれ、 自然な誠実さを持っている人々との協働 82
  • 誤謬と誤謬を犯す人は同一視出来ない。83
  • 非カトリック者とカトリック者との協働

時のしるし 21,45,67,75

秩序は真理を土台とし、正義によって導かれ、愛によって生かされ、完成され自由において実践される。 

第2バチカン公会議 「現代世界憲章」1965年

現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、 キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、 キリストの弟子たちの心に反響を呼び起さないものは一つもない。 それは彼らの共同体が人間によって構成されているからである。 

 「現在、教会は人類社会が危機に直面していること、大きく変動していることを知っている。 人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。 教会は現代社会の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送り込まなければならない。現代世界は、 最新の学問および技術の進歩を誇り、 神を無視したこの世の社会秩序を樹立しようとする一部の人々の考えによって傷つけられている。そのため、 現代社会は物質面において進歩したが、精神面に対する望みが弱くなり、 大部分の人々は技術の発達によって提供される地上の安易な快楽に心をひかれている。さらに嘆かわしい状態として、 多くの国に、戦闘的無神論が広がっている。・・・・・一方においては精神的貧困に苦しむ世界、 他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は教皇になる資格のない者であるが、神の摂理によって、 この教皇に選ばれた時以来、この2つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題解決のために貢献するよう、 すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えた。そのため、 私の心に浮かんだこの考えを超自然的霊感であると判断し、 今こそカトリック教会と全人類家族にとって全世界教会会議を開催する時であると考えた。」 

ヨハネ23世 第2バチカン公会議召集の大勅書『フマーネ・サルーティス』 1961年12月25日

パウロ6世教皇回勅「ポプロールム・プログレッシオ」(諸民族の進歩推進について)1967年 

この委員会は「すべての神の民に現代が彼らに要請している役割を十分に認識せしめ、 それによってより貧しい民の進歩推進と国家間の社会正義確立に便ならしめ、さらに低開発国を援助して、 それらの諸国の自力による、自国のために進歩を可能ならしめること」を任務とし、この委員会に「正義と平和」 の名を与え、委員会の目的と定めました。  5(序文) 

ヨハネパウロII世教皇 「アジアにおける教会」1999年

ほとんどのアジア人が、 アジアで生まれたイエスをアジア人というよりは西欧人であると考える傾向があるのは道理に合いません。 西欧の宣教師による福音の告知が、宣教師の母国文化に影響されていたことは必然でした。シノドス参加者は、 これが福音化の歴史における一つの避けられない歴史だと認めました。 

アジアの諸民族が、イエスを自分たちの仲間であると実感出来る方法でイエスを告げ知らせる務めは重要な課題です。 

シノドス参加者たちは、アジアの人々の感性に訴える方法で福音宣教する必要があることを何度も強調しました。また、 聖書と伝承に誠実であると同時に、アジアの人の心と文化にとって理解可能なイエスの様々なイメージを示唆しました。・ ・・アジア諸民族の中でも特に苦しんでいる人々には、 彼らの経験している説明しがたい痛みと苦しみに意味を与えることが出来る救い主として、 イエスを告げ知らせるのが最もふさわしいでしょう。(以上20) 

ルカ10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 

 みんなでいっしょに

「自分一人で神様のいらっしゃる楽園にいることを救いと考えるよりも、 神さまのふところで皆が本当に仲良くなっている中に自分も一緒にいることを救いと考える方が、 より聖書的と言えるでしょう」『なぜ教会は社会問題と関わるのか』;社会司牧委員会編 

「教会が解放を説き、そのために働き苦しむすべての人に連帯するとき、教会固有の使命が、宗教的な分野にのみ限定され 、人々の現世的問題は顧みないということはゆるされないのです」 パウロ6世「福音宣教」34 

「解放は、ある狭い範囲、つまり単に経済的、政治的、社会的、文化的範囲に制約されるのではなく、 あらゆる次元と部分を含む人間全体、『何らかの絶対者』、つまりもちろん、 神である絶対者に対して開かれている人間全体と関係していなければなりません」同33 

個人的罪→社会的罪→構造悪 

「救い」「解放」とは何か?  何から救われ、解放されることを求めているのか? 

教皇フランシスコ

「教会があまりにも厳格になりすぎた結果、教会内で起こったことは、逸脱や分派、異端であり、それは、 物事を厳格に受け止め過ぎてしまい、抱擁とやさしさを忘れてしまったからです。時として私たちの司牧上の厳しさが、 教会の母性であるこうした考えを失わせてしまいます。」 国際カリタス代表者へ 

ツイッターより(2013年)

「教会が偉大かどうかは、最も貧しい人、ひたすら貧しい人をどう扱うかで、分かります」 「キリスト教生活は祈りだけではありません。祈りから生まれるたえざる献身と勇気が必要です」7/26 

「信仰年にあたり、次のことを思い起こしたいと思います。信仰は私たちが持つものではなく、分かち合うものです。 キリスト者は、皆、使徒です。」7/24 

「私たちはパートタイムのキリスト者ではありません。生活の中心がキリストであるなら、 私たちの行い全ての中にキリストは現存します。」8/19 

「飢えて死ぬ赤ん坊、医療を受けられない高齢者がいる限り、私たちは安心して眠れません」8/17 

「教会が今日最も必要とすることは、傷をいやす能力です。信じる人たちを温める力です。身近さと親しさです。 教会は戦闘後方の野戦病院だと思います。重い傷を受けた人に、 コレステロールや血糖値を尋ねるほど無意味なことはありません。傷をいやす、・・・低い下から始めるべきなのです」 (中央公論1月号) 

「私たちが貧しい、拒絶された人々に手を差し伸べる時、世話と愛の贈り物を差し出します。 しかし彼らはより大きな贈り物、より神のようになるという贈り物を私たちに与えてくれるのです。 

私たちが貧しい人々、周縁に追いやられた人々に手を差し伸べるのを怠るならば、私たちは彼らを見捨てるだけではなく、 私たち(自身を)も見捨てることになるのです。なぜなら、 私たちが愛のうちに成長する招きを拒絶することになるからです。貧しい人々と周縁化された人々を受け入れて、 救いを見つけることは、単なる同情の招きではありません。それは公正であるようにという招きです。」 小山英之「 教会の社会教説」あとがき

Moriyama Shinnzou (モリヤマ・シンゾウ)
森山 信三
カトリック久留米教会
2014年2月23日
カトリック広島司教区講演会
レジュメ 
Copyright ©2015.3.1.許可を得て複製