日本 プロライフ ムーブメント

愛に呼ばれて不確実の時代における愛と結婚のキリスト教的ビジョン

 

今日のテーマにはちょっとした難しさがあります。私たちが夫婦として、また家族として経験することは、 人類各々が経験していることです。ですから、このような話をする時に使う「言葉」は、 それぞれの文化の影響を受けているため、お伝えしたいことが真に伝わるように、 なるべく分かりやすく話したいと思います。 

男性も女性も、全ての人間は、人との交わりのため、愛するために創造されました。今日私は、 全ての人が心に持っているテーマから出発したいと思います。もし私が、皆さん一人一人に「 あなたが心の中で一番望んでいることは何ですか?」と尋ね、皆さんが正直に答えて下さるとしたら「愛したい、 そして愛されたい」とおっしゃるのではないでしょうか。つまり「愛」は、人間にとって大変重要で、苦しみや死、 希望など、人間の心の奥深くにあるものと同様に大切なテーマです。 

現代、愛のすばらしさ、美しさについて語るのが難しくなっています。数十年前まで、「愛」という言葉は、 世界中の誰にとっても大体同じ意味を持っていました。でもご存知のように、今は( 日本はまだそこまでいっていないですが)多くの国々で、 愛に関して皆が共通にもっていた認識とは違う法律の規定さえ現れてきています。 

あるいは、もし文学に興味がおありなら、世界中の様々な文化において、 半世紀前までは愛に関する小説の登場人物やストーリーは、普遍的に皆が理解できるものでした。 

現代社会において、愛には様々な概念があります。でも「真実の愛」という考えもあるのではないでしょうか。 それはキリスト教的な理解の中で示される愛で、現代の様々な愛の概念と対比して、 伝統的な長年の哲学の中で人類が培ってきた愛についての考え、真実の愛の美しさについてお話しできたらと思います。 

では、結婚・家庭というものの「結びつき」についてお話しましょう。 

家庭の土台にあるのは、一人の男性と一人の女性の間で交わされる「誓約」による絆、それを土台に家庭が築かれます。 この考え方は、何年か前までは普遍的に法律によって受け入れられ、具現化されていました。でも今日では「結婚」「家庭 」という概念が、今ある様々な実体の影響を受け、法律も変わってきています。そしてこのような変化が、結婚・ 家庭の土台を揺るがしています。その実態とは、たとえば、離婚、再婚、内縁関係などです。また8~9カ国では、 同性同士の結婚が法律で認められています。 

同棲は、客観的に良い土台の上に築かれているとは言えません。それは当人たちの主観的な結びつきであり、 個人の願望に従った形態です。よく同棲は「平等」の原則が前提になっていると言われていますが、 それは本来の平等ではありません。都合のいい解釈に根ざした考え方です。真の平等とは、「 すべての人類がもっているべき尊厳」に対する平等です。今の「平等」に対する考え方は、「どのような状況にあっても、 とにかく、すべての人が同じ特権を得るべきだ」というもので、社会の共通全のために必要なものを忘れてしまっています 。こうして、伝統的な意味での結婚・家庭の規定が、その変化の影響を受けてしまっているのです。 

これは教会だけが言っていることではありません。1948年、国連総会で承認された『世界人権宣言』の16条では、「 家庭は社会と国の基本である」とうたわれています。そのようなものとして、家庭は承認され守られるべきなのです。 これはただある特定の宗教によって決められたものではなく、私たちが「当然正しい」と感じることです。ですから、 家庭が国や社会にとって重要なものであると認識することは大切です。 

現代、家庭は「プライベートなもの」という領域の中で捉えられています。そのため「社会の基本的な単位である」 という考え方が忘れられています。でも歴史を注意深く振り返るとき、(それは日本でも同様だと思いますが) どの国どの文化においても、家庭が重要な役割を果たしてきたことは事実です。もし一人一人が自分の思いつきで、 好き勝手に「家庭」を規定して生きるならば、社会は家庭に対して関心を失い、関与しなくなるでしょう。 そうなれば家庭は政治的・経済的な配慮もされなくなるでしょうし、女性たちが「家庭を築きながら、 仕事も続けられるように」という社会的な配慮もなくなるでしょう。 

上記のような具体的な問題だけでなく、この状況にはもう一つ別の側面があります。それは夫婦のお互いの誓約が、 以前のように真剣に受けとめられなくなっているということです。「個人の自由」という名のもとで、 生涯に渡り相手に約束をすることが軽んじられるようになっています。別れたり、 離婚したりするのが当たり前のようになってしまっています。ある若者が一人の女性を愛し、結婚したいと願う時、それは 「永遠に、生涯にわたって」という意味です。もしある若者が「君をすごく愛しているよ。 少なくとも5年は愛していると思うよ」または「20年は愛すると思うよ」と言うとしたら、彼女は嬉しく思うでしょうか ?その時彼女は、相手が自分を愛していると信じるでしょうか? 

現在ヴェニスの枢機卿様でおられるスコラー氏(当時はまだ枢機卿ではおられませんでしたが・・)と私は、 ある時期ローマの同じ大学の学部で働き、彼は私の上司でした。ある時彼が私に言いました。「 私はこれまでどこに行っても、思春期の若者の中で、”ある女の子のことが大好きだけど、でも、 この愛はいつか終わるだろう”と同時に思っている・・そんな若者に出会ったことは一度もないんだよ」と。皆さん、 当たり前だと感じるでしょう?でもそういうことが、現代社会では否定され、考えられなくなってきています。今は、 若者にとっても、大人にとっても、「できるだけ長い時間」と「永遠に」との、本質的な違いが分かりにくくなっています 。人が誰かを愛している時、その愛がいつか終わるとは考えられない・・すべての人は、 そのような心を与えられているのです。 

結婚を語る時、それは「よいもの、福音」として受けとめられます。人間の愛とは、「啓示」のようなものです。 マタイ福音書のイエスとファリサイ派の人々との対話を思い浮かべながら、これについて考えてみたいと思います。 ファリサイ派の人々はイスラエルの律法を守り、神殿を管理している人たちでした。彼らはイエスを陥れようと、 ひっかけるような質問をしました。「モーセは、ある男性が離縁状を書いたなら、妻を離縁していいと言っていますが・・ 」と。ですからファリサイ派の人々の議論は「許されている事」と「許されていない事」 という表面的な考えにとどまったものです。この質問には「愛が意味のある美しいもの」 という考え方が全く表れていません。イエスは「世の初めからそのようだった訳ではない。読んだことがないのか。 初めに神は男と女を創造された。そのため男は、父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とお答えになり、 満ち満ちた豊かさ、創造主である神の摂理的な計らいを、私たちに明らかにされています。それは、 神がこの世界を創造され、そして人間を男と女につくられた・・・という計らいです。ここには、 神の根源的なご計画がみられます。それは愛に満ちたもので、コンピューターや機械による設計とは全く違います。 

神が善なる方、力に満ちた方でおられ、男と女を互いに愛することができるようにつくられたのならば、 そして愛の実りとして新しい生命を生み出す能力を与えられたのなら、人間の生命の神秘は、 神の愛に満ちたご計画であると理解できるでしょう。そして神は、 男性も女性もすべての人が幸せであることを願っておられるとわかるでしょう。聖書の中で、 アダムが初めて神のつくられた女性を見た時、驚きと喜びでいっぱいになり、目の前にいる女は私の骨の骨、 肉の肉であると叫びました。その意味は、神の似姿につくられた人間が与えられた、男性として女性としての肉体は、 神のご計画の具現化であると分かるでしょう。人間がどのような存在として呼ばれているか・・ ということが肉体にも具現化されているのです。このような考え方が「神が天地を創造された」 という哲学の中で説明されています。 

それでは、結婚・家庭における男性と女性の一致には、どのような本質的な要素があるでしょうか? 

一つ目は、お互いに受け入れ合い、承認し合うことです。 

男性と女性の「一致」は自由な選択であるはずで、それぞれが自由に選ぶものです。これは現代では、 問題なく受け入れられることでしょう。 

特に、若い皆さんに申し上げたいのですが、相互的一致とは、お互いに与え合う、受け取り合うということです。 というのは現代、愛の概念の中に個人主義的な考え方が見られるからです。「愛は自分の心の中にあるもの、それで終わり 」という考えです。相手の感情いかんにかかわらず、自分の心の中に愛がある、それでいいという考えです。 誰かを好きになって、相手が自分の愛に応えないとしたら・・、もちろんその体験は大切なものです。でもその時「 私たちの間に愛がある」とは言えません。相手がそれに応えていないからです。 個人主義的で自分の中にとどまってしまう感情は、私たちを愛の理解に導いてくれません。「相互的である」ということは 、愛が本当の意味で二人の間にあるという確証になります。 

現代、「私たちはお互い好きだから、一緒にいます」と言う人もたくさんいますね。一緒にいるとは、 どういう意味でしょうか?どのくらい一緒にいるんでしょうか?本当の愛において、時間の限界はありえません。「 解消できない」というのが愛の本質だからです。 

男性と女性の間で、「愛」は何か新しいものをそこに生み出します。ある男性の愛プラスある女性の愛によって、 単純な足し算ではなく、何か別の新しいものが生まれるのです。それは、交わりです。「コミュニオン」という言葉の通り 、コモン(共通してもっているもの)ということを表しています。男性と女性がそれぞれ自分自身を相手に与える時、 その交わり、すなわち「共通のもの」が生まれます。自分の愛を抱え込んで、一人でいる訳ではありません。そしてこの「 新しく生まれたもの」に対して、それぞれの責任が生じます。そうしてこの結婚は、二人の伴侶にとって責任を伴う、 共通に守られるべき「よいもの」になります。それは子どもが生まれてくる時にも言えるでしょう。命を伝えることは、 夫婦の愛の交わりの実りです。子どもが生まれると、夫婦が家族になります。家族は3人、4人、 5人の人々の交わりになります。それは一人一人の単なる合計ではありません。家族の中でお互いに助け合ったり、 一緒にいて交わる姿です。 

今ここにいる方々で、私も含め司祭の方々、シスター、あるいは信徒の方でも、 若者の結婚の準備をしている方がいらっしゃると思います。ある若者が「この女性を心から愛しています」 と聞くのはすばらしいことです。この若者が相手の女性を心から愛していて、 将来彼女との間で子どもを授かりたいと願うのはすばらしいことです。女性にしても同様です。 どうして若者たちはそのように言うのでしょうか。本当に愛しているのなら、愛は実り豊かなものだからです。 それが愛の本質です。ですから、愛を「自己実現の障害」のように考えてはなりません。自分のキャリア、 仕事の成功のための障害物、困ったこと、邪魔なこと、自分の自由を減らすこと・・などのように考えてはなりません。 

愛は人間を満ち満ちた形で実現させるものだからです。ですから家庭は、 そのようなすばらしい豊かなものとして常に考えられてきたのです。家族が一致しているのを見るとき、 私たちは喜びを感じます。私は時々、家庭が周りの人々に、喜びをあふれさせているのを目にすることがあります。 もちろん、いつもそうだという訳ではなく、うまくいかないことや苦しみ、悲しみを経験することもあるでしょう。 ネガティブな経験、失敗、間違った選択、未熟な行動をしてしまったり・・そういうこともあるでしょう。でも、 それにもかかわらず、愛は美しいものだと信じることができます。その確信をもっているなら、 私たちは人々に希望を与えることができるでしょう。 周りの大人が「ああ、結婚は後でいいよ、あんなこともあるし、こんなこともあるんだから、よく考えなさい」「今、 子どもが欲しいの?どうして?あと3年で昇進できるのに、今?」などと言うことがあります。どの文化でも、 そのような態度が見られます。 

でも、愛や命について、私たちは一体どんな考え方をしていると言えるでしょう?キリスト教には「輪廻」 という考えはありません。ただ一度だけの人生です。愛するための人生は一度きりです。 

その機会を逃すことはできません! 

質問と答え 

1.「この人こそ自分にピッタリの相手だ」と判断するにはどうしたらいいのでしょう?数年付き合った後で、「 やはりこの人ではなかった」と思うことがあるのですが、最後まで愛せる人と出会う方法、 そのための判断の基準を教えてください。 

全てに通じる答えがあるとしたら、喜んで申し上げたいのですが・・・。 

ただ、その判断を助けるような、いくつかの客観的基準はあります。 

これは私の意見ですが、一つ目の基準は「信頼」です。その意味は、相手といる時に何でも自由に話せるかということです 。それだけで十分という訳ではありませんが「この人なら自由に話せる」という相手への信頼の気持ちが持てるかどうかは 、ひとつのよい印になると思います。なぜなら信頼がなければ、愛もありえないからです。 

二つ目の基準は、本当に「この人と一緒に年をとっていきたい」「ずっとこの人と一緒にいたい」と思うでしょうか? それもひとつのよい印です。もしそう感じられないなら、逆の意味の印となるでしょう。 

ではもう少し真面目な話になりますが、お互いに知り合い、信頼を深めるためには時間がかかります。「一緒にいたい」 という気持ちも成長していきます。でもそれは、「一緒に暮らしなさい」と言っているのではありません! 一緒に暮らしたら、あなたは望んでいるものをすでに手に入れてしまっているのです。 その状態が何年も続くことがあります。必ずしも結婚にいたるとは限りませんが、もし結婚にいたっても、 もうあなたは自由を感じないのです!そして、その関係が壊れてしまうということもよくあります。 

今、「同棲」について話したいと思います。私はモナコ王国という小さな国で講演をしたことがあります。 沢山の人が参加し、ある人が「若者が同棲をすることをどう思いますか?」という質問をしました。 倫理的な観点からも答えは明らかですが、ただ倫理面だけの答えでは足りないと感じました。そしてその瞬間、 ある考えが浮かんできたのです。そして私は「それは不公平なことだと思います」と言いました。 ある若い男女が一緒に暮らすのが不公平だというのは、お互いが同じだけのものを相手に与えてはいないからです。 二人ともそうしたいと望み、合意の上でそのようになっているのですが、それにもかかわらずです。なぜでしょうか? たとえば、5年後にこの関係が壊れてしまった時、より多く苦しむのはどちらでしょうか?皆さん、 正直に考えてみてください。男性は女性と同じくらい苦しむでしょうか?そうではないでしょう。男性は、 女性と一緒に楽しい時間を過ごしたり、愛情も感じるでしょう。でも、お互いがお互いのものになっておらす、 その女性と本当の意味で結ばれていない限り、もし倦怠を感じ、疲れてしまい、この関係にうんざりしたら、 ただ立ち去ればいいんです。その男性にとっては・・。でももしその女性にとってこれが初めての関係だったとしたら、 と考えてみてください。彼女の方がその男性に多くを与えているんです。母親の皆さんは、その意味が分かるでしょう。 自分の特別な意味での親密さを与えてしまっています。そして、その男性を本当に愛していたなら、 突然心の中に湧いた別の願いがあったことでしょう。(直接言及されていないが、おそらく、 子どもを授かりたいという願い)このような別離によって苦しんでいる、 どれほど多くの若い女性に私はこれまで会ってきたことでしょうか。そのことをお話しすると、 若い女性が泣きながら近づいてきて「今やっと、自分がどうして苦しんでいたのか分かりました。ありがとう」 と言いました。私はとても衝撃を受け、心を打たれました。これはただ性的な倫理の問題だけではなく、 深い意味での不公平があると私は確信しているのです。 

また大人たちが、まるで自分は自立した自由な人間であるかのように振舞って遊ぶ時、 彼らは自らが偽善者であることを示しています。少なくとも、相手の若い女性の心理を理解していません。 もちろん逆の場合は、若い男性の心理をわかっていないということです。 2日本では多くの家庭が交わりを生きていない現実が見受けられます。 どうしたら助けられるでしょうか? 

家庭は、他の家族の友情や助けによって支えられるでしょう。 

幸せでない家庭が孤立している場合、どうしたらそのような状況から抜け出せるでしょうか? 周りの人たちの愛のこもった友情は、本当に助けになります。色々な方法で助けられると思いますが、一例として、「 温かく迎える」ということがあります。家庭が外の人たちを迎える習慣がない場合、 他の家庭に温かく迎えられる経験をするなら、それは日常生活の中で新しい生き方を経験することになるでしょう。 3.ほとんどの人は、愛は美しいと信じて希望をもっていますが、不幸な体験、 たとえば不幸な結婚などを体験した人は、どうしたらいいでしょう?愛に希望を失った人に何と言ったらいいんでしょう? 

愛は、様々な人間関係の中にあります。今日は結婚の愛について話しましたが、深い友情という愛、家族の中や親戚、 いとこ、叔父さん、叔母さんとの愛などもあります。 

誰かがとても不幸な体験をしてしまったとします。たとえば、結婚において不幸な体験をした人は、 結婚の関係に対しては閉ざされているかもしれません。その場合その人には、他の愛の関係が必要になります。 不幸な体験をしたとき、友達や、自分が家に帰れる家族がいる・・そういうことが大切になってきます。 あるいはその人が温かく迎えられる教会共同体や仲間といった場が大事になってくるでしょう・・。 4.聖書の中にもイエスの言葉にも、結婚前の性的な関係を明確に否定している箇所はないのに、 なぜ教会はそのことを言い続けているのでしょうか? 

とてもいい質問です。「イエスが明確に否定している言葉はない」と質問で言っていますが、 当時の状況を考えてみてください。私たちはつい、自分が生きている時代から別の時代を見てしまうのですが、 2000年前のパレスチナで、女性が誰かと性的な関係を持った後で、結婚できたと思いますか? 

またキリスト教信仰の土台となっている聖書全体から捉えると、たとえば、パウロの書簡があります。 誠実でない性的な関係について、はっきりとパウロが述べている箇所があります。 

教会が現代言っていることは、勝手に作り出したことではないのです。この問題に関しても、 使徒たちの時代から受け継がれてきた伝承、伝統に基づいて言っているのです。使徒パウロのローマの信徒への手紙、 コリントの信徒への手紙(二)を読むと、特に身体の尊さ、尊厳について語られています。この観点から言うと、 人間は身体と霊魂がひとつになって、その人自身なのです。人間の身体の尊厳というのは霊魂がやどっている、 その尊厳なのです。ですから、カトリック教会は、人間の性、 そして人間の性的関係ということに最大の尊厳を見出しています。でもそれは、「結婚」という絆の中で、 男性と女性がお互いに、自分が相手にとっての贈り物になるという関係の中でのこととして捉えています。結婚した男女は 、その相手にだけ関係を許すということをお互いに確認しているのです。 5. 結婚前に子どもができるということについてどう思いますか? 

そのような関係からであったとしても、今、現に子どもがいるなら、その子は愛され、教育され、 育てられていくべき存在です。子どもには、父親母親が自分を相手に与え合った、その二人から、 生まれてくる権利があるのです。 6.夫と子どもがすでに亡くなっています。妻は夫との愛を生涯貫くことができてこそ、 結婚してよかったと思えるのでしょうか?つまり、この結婚に意味があったのでしょうか? 

悲しい質問ですが、妻が残って、夫も子どもも亡くなって家族が存在しなくなった訳ですね。でもキリスト教では、 信仰のうちに交わりの希望を持つことができます。ある時存在していた愛の関係は消えた訳ではありません。 目に見えるものではありませんが、別の形で存在します。 これはキリスト教信仰だけに限りません。日本の美しい伝統の中にも、 先祖とのつながりを大事にするという伝統がありますね。つまり、 別の形での存在というものが私たちにはあるということです。地上にいる私たちと、先に逝った人たちの関係、それは、 ただ単に「愛を記憶の中に呼び起こす」というだけでなく、いつかまた一緒になるという希望に支えられています。 それが永遠の命ということです。 

Laffitte , Jean (ラフィット・ジャン ) 
教皇庁家庭評議会局長 
講演日 2010年10月18日 
講演会場 上智大学 
出典 エマヌエル共同体 
2012.8.22.許可を得て複製