私は小さな町医者の一人娘でした。16歳になり、高校卒業まで後二年を残した頃、どうして私のことを好きになってくれる男の子がいないのか神様をうらんだものです。私は大学に入学して、お酒を飲みはじめ、酔っ払っている時に処女を失くしました。その後私は、大学を留年し、ドラッグもやりはじめめました。
二年後、私はある青年と「付き合い」はじめ、19歳で妊娠してしまいました。父は、 最初二人の結婚を勧めましたが、途中で気が変わったようでした。実家に戻った私に、中絶を勧めるようになったのです。私は、両親に子どもを養子に出したいと言いました。母は、私をカンザス・シティーに連れて行きました。両親は、以前知り合いの娘さんを、カンザス・シティーにある未婚の母親用のホームに入れてあげたことがあったのです。ですが、現地に着いてみたら、母はどういうわけか目的の場所を見つけることが出来ませんでした。
家に戻った後、母は私にどうしろとは言わなくなりました。父はと言うと、朝、夜、それに昼休みまで家にわざわざ帰って来て、私に中絶するように説得する毎日でした。私は父に、私がもう妊娠14週に入っていること、妊娠12週を超える中絶は違法であることをいつも楯にして、反論していました。私がとうとう父の説得に応じたのは、それからさらに何週間か後でした。こんなに遅い時期に病院がまさか本当に中絶させるとは思ってもいなかったからです。父は、母と私をヒューストンに行かせました。母は、私をとあるクリニックに連れて行き、小切手で五百ドルも払ったようでした。その後、母だけ帰るように言われて、母は帰っていきました。私も、中絶するには遅すぎるから帰るように言われるに違いないと思っていました。そうなれば父だって、未婚の母親用のホームを真剣に探さなくてはいけなくなるだろうと思いました。もうお気づきだと思いますが、そうはならなかったのです。
クリニックのカウンセラーは、そこにいる女の子すべて(全部で25人)を一室に連れて行き、避妊についてレクチャーしました。それ以後、その女性カウンセラーを見ることはありませんでした。私達は着替えをすませ、デミロールを4時間ごとに注射されました。 真夜中頃、医者が部屋にやって来て、子宮に長い注射針でマグネシウム下剤を大量に注射して行きました。恐くてたまらなかったことを覚えています。医者は私にほとんど何も言いませんし、看護婦も必要以上のことを除いて話しかけてはくれませんでした。 誰も、これから何が起こるか言ってはくれなかったのです。
何時間か後、私は便意を感じてトイレに行きました。便器をのぞき込んだ私の目に入ったのは、へその緒がつながったままぶらさがっている胎児でした。私は助けを求めてヒステリックに叫び始めました。入って来た看護婦に、お願いだから「それを取って」くれるように頼みました。看護婦は、胎盤がはがれ落ちてくるまでは無理だと言って聞いてくれませんでした。ベットに横たわって、一、二時間ほどヒステリックに泣き続けた後、やっと胎児を取り除いてくれました。
母が買ってくれた新しい室内履きを履いていましたが、トイレからベッドに行くまでの間に、血がついてしまいました。家に帰ってから、私はその室内履きをタオルに包んで捨ててしまいました。洗っても血の跡を落とすことができなかったのです。
クリニックでどんな経験をしたか、両親には何も話しませんでした。次の秋には、私は大学にまた通いはじめました。浴びるように酒を飲み、泣き続ける毎日でした。食べるものも喉を通らず、体重は40キロまで落ち、ついには、ある日、拒食症で寮の部屋で倒れました。私が倒れたことを聞いて迎えにやって来た父は、「風邪をなおすため」と言って、家に連れて帰り、憂うつ症の治療を受けさせるため私を医者の友人に見せました。
私は、中絶のことを誰にも言いませんでした。妊娠を知っていたボーイフレンドやカンザスの知り合いには、流産したと言いました。中絶の後、私は男性嫌いになりました。ボーイフレンドとは、嫌いになったと言って別れました。その後も、バーで知り合った男性に対して、同じことをずっと繰り返しました。
公認看護婦の免許をとった頃、夫のジェームスと知り合いました。私達は、結婚してすぐに、妊娠するように努力しましたが、夫婦とも何年もの間不妊治療を受け続けなければなりませんでした。治療を受けはじめて一年ほどたった頃には、神様の罰があたったに違いないと思うようになりました。極度のストレスで、ついに私は夫に中絶のことを話しました。夫は、理解深く、変わらず私を愛してくれました。そして、遠ざかっていた教会に行き、神様に子どもを授けてくださるよう祈るようにもなりました。一年後、私の願いは聞き届けられました。一九八五年から一九九二年の間、私は男の子三人と女の子一人を出産しました。それでも、まだ足りないように思えました。おそらくその頃の私は、殺してしまった赤んぼうの代わりを必死で求めていたのでしょう。二年前、私は子宮摘出手術を受けました。
中絶後の八年間は、自己破壊的な毎日を送っていました。三つもの違うカウンセラーに 通いましたが、中絶のことを話したことはありませんでした。私が憂うつ症を克服したのは、ほんの二年前です。今もカウンセリングを受けていますが、そのうち自分がほかの人のカウンセリングができるようになりたいと思っています。私は、21年もの間、自分自身を中絶の罪の意識で罰していました。たくさんの罪を犯してきましたが、それらについては、神の許しと慈しみを感じることができました。しかし、中絶のこととなると、私自身が自分を許すことができなかったのです。こともあろうに、自分の赤んぼうを殺してしまっただけに、その罪の意識は深かったのでしょう。自分の子どもを殺した母親の気持ちは、言葉では表せないものです。
カウンセリングは効果をあげ、私の精神状態も回復しつつあります。この21年間で初めて、私は恥や罪の意識から解放されました。中絶は悲しい経験でしたが、今では亡くした子どもの冥福を祈ることが出来るようになり、恐怖を覚えずにその子のことを考えることが出来ます。
先日、中絶賛成の十代の息子に中絶の真実について話す機会を得ました。彼は、私の言葉を反感なく受け入れてくれ、中絶についての考えが変わったと言いました。また、ある既婚の女性は、彼女自身の中絶経験と、それについて自分をいかに許せないでいるかという気持ちを私に語りました。私は、私自身の経験から彼女にアドバイスしてあげることができました。六週間後には、プロ・ライフのオフィスで働くための研修を受けることになっています。待ち遠しい思いです。
Hendrickson, Cindy (ヘンドリックソン・シンディー)
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2021年4月7日再入力