現在活発に行われている安楽死の合法性に関する「議論」は、キリスト教信者がいかに俗化したかを表すものであり、「生命の質」や「死ぬ権利」などという聖書の教えに反する考えをやみくもに採用しているものである。もしかしたら多くのキリスト教信者たちはこの問題の複雑さを理解できずにいるのかもしれない。どうであろうと、医者はとっくの昔から延命措置を停止したりガン患者に大量のモルヒネを投与したりして死を早めているのである。そうだろう?そしていずれ死ぬとわかっている患者に対して簡単に死ねる手段を拒絶するのは非常に残酷なことではないだろうか。
この記事はキリスト教の教えの観点から安楽死の問題を考えるものである。
何が安楽死で何がそうでないのか。
イデオロギーの対立の中で、まず最初に被害を被るのは使用される用語の定義だろう。他人を説得しようとする際に嘘を語ろうとする人々の間には婉曲語法が頻繁に用いられる。例えば、今日の言い回しでは、致死量の注射を患者に打つことを「死への手助け」となる。(そして末期患者に「助け」の手を差し伸べることに誰が反対などできるだろうか。)安楽死という用語に込められた意味は一般的には情け深い殺人とされている。つまり、患者の苦しみをやわらげるためにその命を故意に終わらせることである。しかし最近もっぱら使われる言葉は「死ぬ権利」だ。これは文字どおり医者に対して自分を殺して欲しいと頼むことを可能にする崇高な響きをもった言葉なのである。
この論議は非常に倫理的なものである。病気や身体の衰退が招く自然死は、安楽死に対して正反対の意味を持つ用語である。医学的治療によって延命が施された場合でさえ、迫り来る死は体に潜む病気のせいであって、治療を停止したからではないのである。
治療が患者にとって不必要に負担になるときは(つまり、病気ではなく治療が患者にとって辛いとき)、あるいは比較的効果が薄いと感じられた時は、治療を差し控えるのは理にかなったことである。言い換えれば、私たちは患者の死を遠のけさせるためだけに、必要とされていない治療法を利用してはいけないのである。事実、そうしないことが自然界の限界に対する深い尊敬の念を表すことになっている。
安楽死が今日の緩和剤と同じ働きをするものではないことをきちんと理解しておくことが大切である。病気を緩和する作業は、末期患者の苦痛を能動的にやわらげてあげるものであり、その治療が患者の命を縮めることがあっても、それが故意に行われたり予期されるものではないのである。これは単なる副作用であり、倫理的にも認められるものである。一般的には、痛みをやわらげるための適量の麻酔薬には生命を縮めるような作用はない。
キリスト教の世界観
キリスト教の法則はすべて聖書に基づいている。聖書の何ヶ所かを引用してみると、人間に対する見方やその由来が理解できる。
創世の書 九:6には私たちの祖先にとってためになることが述べられていたので、それはきっと現在に生きる私たちにとってもためになるに違いない。「人の血を流す者があれば、人の手でその血が流される。神は、自らのかたどりとして、人をおつくりになったからだ。」この一節は人の命を奪うことをただ禁止しているだけではない。神に創造された私たちは、自分の命の所有者ではなく給仕係なのである。神のような存在となるように創造された私たちには永遠の目標が与えられている。つまり、自分の命を神のために、そして神に所有されるためにとっておくということである。更に私たちは神の姿をイメージして造られているため、その命にも本質的で計り知ることのできない価値が備わっている。これが「生命の高潔さ」概念の源となるものである。神の姿のイメージに造られた私たちには生まれつきに備わった威厳と神から与えられた威厳が備わっている。これは非キリスト教徒が威厳と間違える自尊心(富や能力に基づくもの)とはかけ離れたものである。
重大な問題はここで起きる。世俗的な人道主義者は、全ての命に「質」が備わっていると主張する。これは人によって満足感や幸福感の度合に多少の差があるために、環境や能力(あるいは無力)、苦痛や他の要素がその人の人生を良くも悪くもするという考えである。満足感や幸福感を基本にすると、中には質が低いとされる命もあり、それは死を選ぶのにふさわしいとしている。これは全ての命は神の姿をイメージして造られたものであって環境などに左右されない生まれつき且つ神に与えられた価値が備わっていると考える「生命の高潔さ」倫理に全く真っ向から反対するものである。パウロは「ありとあらゆる環境に処する秘訣を心得ている。」と私たちに教えている(フィリッピ人への手紙四:12)。幸せを追求する権利と幸せを手にするための非実在の権利を混同させてしまう世の中において、キリスト教の見方ははっきりとした対照を成しているのである。
これと関連したことで、死を最も恐れているはずのまさにこれらの人々が合法の死を必死に追求していることが挙げられる。イエス・キリストと永遠を誓った人は「キリストとともにいる方がずっと良い」ことを心底わかっている。信者たちには、自分たちが望むこと(ここで生きるのか、天国に召されるのか)は問題ではない。なぜならパウロが非常に的をえた言い方をしているように、「私はこれら二つのものの間に板挟みになっている。」からだ。問題なのは、むしろ神が何をなさろうとしているかなのである。キリスト教信者にとっては、命は神の贈り物であり、その最後は神によって定められるものなのである。「私のほかには神はない。殺すのも生かすのもわたしだ。」(第二法の書 三十二:39)神は生においても死においても支配者なのである。この領域において私たちに支配する力は全くないのだ。だからこそ、私たちに命を終わらせるような命令を下すことはできないはずだと考えるのである。
神の支配権は全ての生命に及んでいる。つまり、苦痛も神の摂理の一部なのである。だから現代医学で緩和することのできない苦痛は、私たちには理解できなくても、自分が何をしているかをわかっている神の愛の手だと受けとめることが必要だ。「あなたたちが試練を受けるのはこらしめのためであって、神はあなたたちを子のように扱われる。父からこらしめられない子があろうか。」(ヘブライ人への手紙十二:7)」
キリスト教信者にとっての苦痛の目的は神聖化あるいは「み子の姿にかたどらせようとして(ローマ人への手紙八:29)」、訓練された人々が「高潔さや平和を作り出すことである。(ヘブライ人への手紙十二:10)「実に私たちの受ける一時的な軽い患難は、それとつり合わないほどの大きな永遠の光栄を準備する。(コリント人への第2の手紙四:17)」つまり、私たちは一人一人が神の姿のイメージで造られたにもかかわらず、神によく似ている者もいれば、まったく似ていないものがいる。「あなたがたのうちにこのすぐれた業を始められたお方が、それをキリスト・イエズスの日までにますます完成してくださるであろうことを、私は確信している。(フィリッピ人への手紙一:6)」
死は人生の一部である。コヘレットの書の三:2にあるように、人間には生まれる時があり、死ぬ時がある。私たちの中の賢者は自分たちの月日を数える義務がある(詩篇九十:10)。聖書によれば、肉体の生命が必ずしも最高の価値を持っているとは限らない「私にとって生きるのはキリストであり、死は利益である。(フィリッピ人への手紙一:21)」事実、「友人のために命を与える以上の大きな愛はない(ヨハネによる福音書十五:13)。」キリスト教信者たちは自然死なら歓迎することができる。「死は勝利にのまれた。(コリント人への第一の手紙十五:54)」のを知っているからである。神と「面と向かって」話せる日を待ち望まない人がどこにいようか。
このように、苦痛や死を見つめる時、キリスト教信者たちは神の主権を有する手と目的、弱者や傷ついた人々の世話をする機会をきちんと理解するべきである。食事を与えてあげること、服を着せてあげること、住む場所を探してあげることはキリストには「あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである。(マテオによる福音書二十五:40)」というように写っているのである。私たちは神との深いきずなと神の力を得ることを期待している。特に「主に望みをおく者は、力を新たにし、わしのように翼を生やし、力衰えることなく走り、疲れることなく歩む。(イザヤの書四十:31)」のである。
それに比べて無神論者や人道主義の世界では、人々のことを楽しみだけが目的の人生で、最後は完全に絶滅するとする自律的な(自己統治の)生物学的存在だと考えている。この考え方においては、人生を功利主義(つまり、差し出されたもののみに価値を見いだす)苦痛にはさほど意味を見いださない。この見方の論理的結論は、一般的には否定されるのだが、ニヒリズムである。これに基づく考え方では、人生は、人に欲されなくなった以上は続けるべきではないというものだ。苦痛は和らげられることのないマイナス要因だ。だからこれ以上生きる価値がないと考えるのである。
結論として、人間の生命に対するキリスト教の考えは、神が問題を解決することである。私たちは神が私たちのためになるようなことをしてくださると信じている。しかし、これでは私たちに能動的な役割が期待されていないことになる。そうであるが、一方では私たちは活動的な証人であらねばならない。それは、いかなる形の殺人からも死を目前とした人を守るために立ち上がることを意味している。そうなのだ。私たちには知的な論議を繰り返すことが求められており、さらに重要なことは神の愛を必要としている人々にそれを与える機会を得ることを求められているのだ。安楽死主唱者のだましに対抗するにあたって、嘘に隠れた真実を暴くだけでなく、愛が死の苦痛と恐怖を拭うのにどれほど大きな役割を果たすものかを示すことができなければ、私たちは神が救いたいと願っている人々の心や気持ちを導くことが出来ないのである。私たちは死の床についている人々の傍らにキリストの使節を招きたいと願っている。(一番可能性の高いのはホスピスのボランティアだろう。)それによってあなたも私も安楽死に関するいかなる疑問にもいとも雄弁に友好と苦痛を通じて生きる意味を答えることができるようになるだろう。
ロバート・パンクラッツ医師、
リチャード・ウェルシュ医師
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