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学ぶべき時 「ある10代の母親の思い出」

私が妊娠していると知ったのは、1980年の夏だった。それは結婚して新しい家庭を始めようとしている人にとっては喜ばしい知らせなのだろうが、私の場合はそうではなかった。当時私は高校2年生で16歳だった。未婚でとてもこわがっていた。とてもとても恐怖心に満ちていた。私は緊張して、恐怖が体に染み込んで離れようとはしなかった。涙を流す以外はなにもできなかった。母親になんて言おう。 

ボーイフレンドにはどう言ったらいいのだろう。話したら嫌われるだろうか。話しても今まで通り私を愛してくれるだろうか。兄弟はどんなふうに思うだろうか。勇気を出してボーイフレンドに話をした。彼は父親になるということに呆然とした。まだ親のすねをかじって大学に通っている身分だったので、赤ん坊を持ったら親は自分を勘当し、これ以上学費を出してもらえないのではないかと心配した。自分達の年齢や定職のない学生だという理由から、とるべき唯一の道は中絶だと彼は考えた。私は中絶するという意味がよくわからなかった!道徳的には間違っているのよ、と自分に言い聞かせた。何日も2人で話し合い、ついに私は母親に話す決心をした。 

その1年前に父親は亡くなっていたので、その直後に10代の娘が妊娠したなどと聞かされて、母親は大丈夫だろうか心配した。ある夏の夜、私は台所にいる母親に打ち明けた。母は私のここ数日の行動からうすうす気づいていたらしい。どなったり、泣き出したり、ヒステリックにならなかったことに私は驚いた。それどころか、母はとてもやさしかった。彼女は、一番賢い方法は結婚して赤ん坊を生むことだと言った。 

ボーイフレンドがどうしたいかを私は話さなかった。彼が結婚の道を選ぶとは決して思わなかった。ところが、非常に驚いたことに彼は結婚すると言ってくれた。私は、2人が間違いを起こしたのだと彼に言い、結婚すればさらに間違いを起こすことになると話した。どうやって生きていくというのだろうか。赤ん坊の養育費と彼の学費をどう賄っていくというのだろうか。私だってまだ高校を卒業していない。2人の年齢で、一体愛とは何なのかわかっていたのだろうか。そしてその愛が生涯続くという保証はあっただろうか。 

妊娠3ヶ月目に、私たち2人はお互いに別れを告げた。彼は私に3度求婚したが、私は3回とも断わった。何ヶ月かたって彼とよりを戻そうとしたが、もうどうにもならなかった。彼はひどく傷ついたと私を攻めた。私は妊娠したことによって彼の親子関係にまでひびを入れてしまった。学費を賄うために彼に長時間働かせたこともあった。私は根本的に彼の人生を破滅に陥れ、決して許してもらえるものではなかった。私が16歳の時にはこれらのことはすべて意味のあるものだと信じていた。彼に苦労をさせても当然だと思っていた。でも自分の人生がどのように変化し、それがどれほど辛いものになるかなど想像もしなかった。 

赤ん坊を連れているのは大変なことだった。若い人達は、赤ん坊に愛せる対象の人がいて、さらに愛してくれる人がいたらと望むものだ。私も例外ではなく、自分の赤ん坊が成長する様子を頭に描いてみる。きっといい友達になれるはずだ!私と同じ様な両親とのいざこざはきっとないだろうし、私は赤ん坊をこの上なく愛し、そのことだけで満足できるだろう。赤ん坊も私の愛情を悟ってくれて、私を愛してくれるだろう。ところが何年か経って、愛とはこんなふうには行かないということに気付いたのであった。 

私は、妊娠6ヶ月目に軽い出血が始まるまで学校に通った。医者は流産を恐れて、私に家でおとなしくしているよう指示をした。それまで私は胸を張って歩き、自分のうわさ話しには耳をかさなかった。私は「今に見ていなさい。私はつまらない人間ではないということをいつか見せてやるんだから。私は何も悪いことをしていないのだから!」という態度を貫いた。妊娠したからといって自分の人生をだめにしたわけではないことをみんなに見せてやりたかった。高校もきちんと修了し、中退なんて絶対にしないつもりだった。 その間、クラスメイトたちは私をからかい、「売春婦」よばわりするようになった。私はひどく傷ついたが、それを表に出さないように必死だった。「私が傷ついているところなど見せてたまるもんですか!」と自分に言い聞かせた。家に帰ると私は一人でワンワン泣いた。学校の先生は、出産後すぐに復帰しなければ卒業は無理だと言った。 

この先生によれば、いずれ統計学的に正しいことが証明されるのだが、なんでも私は20歳になるまでに再び妊娠するとのことだった。私は同年代の少女たちのお手本となり、困難を乗り越えて成功する女性になるよう心に誓った。世の中の若い母親たちに刺激を与え、人生から何かを勝ち取ることを証明したかった。 

4年後、私の先生は正しかったことが証明された。20歳で私は再び同じ状況に置かれたのである。ただし今回は中絶がとんでもないことだとは思わなかった。子どもを育てることがどれほど大変かがわかっていたからだ。常にお金のことを考えているのにはもう疲れたし、洗濯機を買えないために、おむつを手洗いするのにも嫌気がさしていた。ボーイフレンドは私との結婚を拒み、私はこれ以上母親をがっかりさせたり、家族に恥をかかせたり、さらなる養育費を一人で賄っていくのはいやだった。中絶が道徳的に間違っていると常に信じてきたのだが、今回ばかりはそれが唯一の手段だと考えた。論理的な思考はすべてどこかへ行ってしまった。再び、私は16歳の時に体験した狂いそうな恐怖心を抱くことになった。 

後知恵というのは簡単なものだ。中絶は間違った選択だったのである。私は毎年秋になるとうつ病にかかり、自分の誤った選択に対する償いをしている。それは私が妊娠していると知った時から赤ん坊を中絶した時までずっと続いた。自分の人生において犯した過ちの中で、この選択が私が最も後悔しているものである。中絶すればそれですべて忘れられるわけではないことを、だれも私に教えてはくれなかった。30歳という年になってやっと感じ始めたこの後悔の気持ちは、一生私を悩ませ続けるのである。10年もたってからだ!今となっては、あの時子どもを産んで、自分と家族に思いきり恥をかかせればよかったと思う。当時の私よりもずっと適した夫婦に赤ん坊を養子にやることだってできたのに。 

中絶してから1年後に、私との結婚を拒んでいた彼の気持ちに変化が起き、結婚することになった!私の人生で3度目の妊娠は流産に終わった。とてもみじめだった。もっと早く結婚していれば中絶することもなかったのにと思うと、私は次第に夫を憎むようになった。私はだんだんと自分のしたことに耐えられなくなって行った。自分以外にも責める人が必要だった。それから約5年後、私たちは離婚した。 

離婚から1年がたったころ、息子が父親と一緒に暮らしたいと言い出した。釣や狩りなど、男の子の遊びがしたかったのだ。父親がそばにいなくて寂しい思いをしていた。私の心は痛んだ。息子を手放したくなかったが、同時に自分のわがままのために彼を反抗的な子にはしたくなかった。1990年の7月、さんざん悩んだ末、息子を父親の元へ渡すことに決めた。私は16歳の時の自分の約束を思い出した。私の親とは違う方針で子どもを育て、自分の子どもを心から愛するという誓いだ。今でももちろん息子を愛しているが、愛さえあれば息子が私のそばにいてくれるという保証はどこにもなかったのである。愛とは手放すという意味を持つ時もあるのである。 

時々、私はすべて、つまり仕事に対する夢や個人的な目標、それにプライド(さらに恥や屈辱や貧しさなど、赤ん坊を育てるために耐えたすべてのこと)をあきらめたのに、今、私の元に息子がいないことに納得のいかないことがある。息子と時々は会えるのだが、それでも以前私が夢見ていたように彼の生活にかかわれないのがとても辛いのである。 

結婚する前に性関係をもったことは、わたしの一生に影響を及ぼした。それは私が16歳の時にはまったく予想もつかなかったことだった。自分が中絶に妥協するなどありえないことだと思っていた。息子を自分の元から放すなど考えたこともなかった。私はお金のこと、育児のこと、健全な関係、そしてなんといっても愛情に対して考えがあさはかだった。 

セックスは愛ではない。それをいやというほど私は知った。傷、苦しみ、寂しさ、恥、そして罪悪感はすべて結婚前のセックスのつけとなってまとわりつくものだ。今なら待つということの賢明さが理解できる。ボーイフレンドに愛されているはずだと信じるのに私は自分に一瞬の時間を与えた。しかしそれは一生のうちのほんの一瞬でしかなかった。その瞬間が終わり、自分が一人ぼっちだと気付いた時、私は恥ずかしさを感じた。自分が間違ったことをしていると知っていたのである。だからこそ、忘れられないのである。 

今、私は生命尊重センターでボランティア活動をしている。私は若い人達に「なぜセックスをするの?」と聞くようにしている。するとほとんどの少女がびっくりする。彼女たちは、セックスする理由がわからないと言う。私が15歳の時は、学校の先生や親が「結婚するまでセックスはしてはだめ。」と教え込んだものだ。なぜだろう。 

個人的経験から言って一番最もらしい理由は、女性はみな美しくて、男生と同じように魂を持っているから、ということだと思う。もし自分の魂の一部である美をだれかに与えたらーそれは多分セックスの際に起こることだと思うがーそれはあなたの一部がだれかに与えられたということになる。生涯その相手と一緒に過ごせればそれは素晴しいことであるが、もし関係が終わってしまえば、あなた自身の一部が、あなたの美しさが、そしてあなたの個性が、奪われてしまうことになる。私は、自分の個性は自分の元に残しておくだけの価値があるものだと思う。 

私は若い人達に「第2の処女」というものがあると教えている。再びセックスをする前に、結婚するまで待つことを選ぶことだ。私も待つことの大切さを知っていれば、20歳で中絶を選ぶことはなかっただろう。悲しみや落胆、罪悪感や恥などは、私の苦しみのほんの一部に過ぎない。もしかしたら離婚もなかったかもしれないし、結婚そのものさえなかったかもしれない。そうすれば私の息子もどちらの親と暮らそうなどと悩まなくてすんだのである。 

当時の私に未来がどんなものであるかなどわかりっこなかったと言う人もいる。だからこそセックスするか機を待つかという選択が重要だったのである。もちろん未来のことはわからなかった。でも行為に対してある結論が存在し、それは私が待つことを選んだ場合よりもずっと辛い結末を招いたのであった。 

10代のころというのは、ただデートをしたり、気持ちや考えを交えたり、親密な瞬間を持つことを学んでいるだけなのである。それが愛だと勘違いしてしまう気持ちである!とてもエキサイティングな時間ではあるだろう。だが、今はあのときの自分の気持ちが一生続くと言い切れる立場になかったことを知っている。 

当時の自分が選んだ道が、自分の生涯に影響を及ぼすなどとはまったく考えられないことだった。今はただ自分のため、そして息子のためにもきちんと考えるべきだったと後悔している。 

Bemboom, Amy (ベンブーム・エイミー)
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