アンリ・ド・リュバク著『カトリシズム―キリスト教信仰の社会的展望』(小高毅訳・エンデルレ書店・1989)は、教父たちの教えを詳細にわたって引用しかつ纏めていて、実に読み応えのある名著であるが、ここには、福音書のたとえ話の中から、お馴染みの「善きサマリア人のたとえ」の解釈(108ページ)を抜き出して紹介したい。
そこでまず、福音書のたとえ話(ルカ10,30-35)を読んでみよう。
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。すると、一人の祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見て、道の向こうがわを通って行った。また、同じく、一人のレビびとが、そこを通りかかったが、その人を見ると、レビびとも道の向こうがわを通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を見て哀れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてやった。それから、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。その翌日、サマリア人はデナリ二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰って来たときに支払います』と言った」。
ド・リュバクは、あらかじめ、次のようにコメントする。
「善きサマリア人」というただ一つの譬え話が、人類の集合的な遠大な歴史を説明する良い機会となった。この譬え話は、伝承の内で、特に好まれたものである。オランダの大画家の油絵を思い起こさせる細部に至るまでの精密さをもって、購いの全秘義を包括的に見ることができるものとして、その描写の一つ一つに比喩的な説明が施された。この釈義は皆の認めるものとなる。この釈義は流布するのは、2世紀末、オリゲネス以前のことである。オリゲネスは、注解を施すにあたって、この釈義を引用し、それを「み言葉に適い美しい」とし、彼がそのまま引用するのを好む「長老」の一人にこの釈義を帰している。
次がその釈義である。
• この[追いはぎに襲われる]人はアダムを意味し、アダムの初めの生き方と不従順によって生じた堕落の状態を示している。エルサレムは、楽園もしくは天のエルサレムを意味する。エリコ、それは世界である。追いはぎは、逆らう勢力であり、悪魔どもかキリストの名のもとに自分を提示する偽りの教師たちであろう。傷は、不従順と罪である。この人は衣服を剥ぎ取られる、つまり、彼は不朽性と不死性を失い、あらゆる徳を奪われたということである。彼は半死の状態に置かれる。死が人間性の半分を手に入れたからである。・・・祭司は律法である。レビ人、それは預言者たちである。サマリア人、それはマリアを通して肉体をまとったキリストである。ろば、それはキリストの体である。
• ぶどう酒、それは教えと戒めの言葉である。油、それは「人々への愛」と憐れみと励ましの言葉である。宿屋、それは教会である。宿屋の主人、それは使徒たちと彼らの後継者たち、教会の監督、執事たちの総体、もしくは教会を司る天使たちである。二枚のデナリオ貨は旧約と新約の二つの契約、もしくは神への愛と隣人への愛、あるいは御父と御子とを知ることである。最後に、サマリア人が戻ることは、キリストの再臨である。
以上のとおりであるが、話の中の一つ一つが解釈の対象とされ、しかもその全体がキリストによる人類救済の全計画を展望するという極めて壮大な釈義に、生き生きとした聖なる伝承を引き継ぐ教父たちの思いを見る思いがする。そして、ここに示された善きサマリア人・キリストの姿はわたしたちの姿でもなければならないと本当に思う。洗礼によってキリストに結ばれた者は、すなわちもう一人の善きサマリア人となってその愛にあずかるのである。周知のとおり、このたとえ話は、「わたくしの隣人とはだれですか」という律法の専門家の質問に答えたものであり、主ご自身も、たとえ話の終りで、「では、あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたからである。ただ、教父たちの釈義に触れるとき、隣人愛の実践の幅はさらに霊的な広がりを見せるに違いない。
Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の思い
Copyright ©2009年3月25日掲載
生前許可を得て2022年04月04日複製