日本 プロライフ ムーブメント

体外受精:倫理的含意および代替案

胚性幹細胞を利用した科学研究への資金援助について、最近、わが国で議論が起こっているが、アメリカ人の多くがこの議論を取り巻く倫理的含意に気づいていないことが明らかになった。特に憂慮すべきは、10万個以上の生きた胚が凍結されている事実である。これらの胚は、体外受精の過程で凍結されているのだが、体外受精に対するアメリカ国民の支持率は高まっているように思われる。 

カトリック教徒の夫婦の多くが、子どもを持ちたいという願望を満たすために、体外受精という技術に頼ってきたと考えられる。信仰を教える立場にある我々が、体外受精に関する教会の教えを十分に伝達できていなかったことに、私は強い良心の呵責を感じている。信心深いカトリック教徒の一部は、親になること、さらに立派な親になることへの強い欲求から、無意識のうちに体外受精という技術に頼ってしまったと考えられる。彼らに対し、私は謝罪すると同時に、体外受精によって誕生した子どもたちに対する教会からの尊重を無条件に与えたい。どのような形で生まれたにせよ、子どもたちは誰もが神にとって大切な存在である。 

これを踏まえた上で、私は、カトリック教徒の人々に体外受精の道徳的問題について警鐘を鳴らすと同時に、司祭、助祭、教師に、体外受精という重大な問題について教会の教えを十分に示すことを要求する。体外受精の倫理的問題が誤解されたことで、ヒトの胚を破壊することが無警戒に容認され、その結果、新たに胚性幹細胞研究の拡大という恐ろしい事態が起こり始めている。 

数十年前、体外受精は、サイエンスフィクションに過ぎなかった。AF(フォード以降)を時代背景とした「すばらしい新世界」において、ハックスレーは、神の存在を切り離した未来世界について描いている。物語は、人工生殖と流れ作業による生物形成において、社会的条件付けの場所となるセントラル・ロンドン・ハッチェリー・アンド・コンディショニング・センターのツアーから始まる。流れ作業は、受精室から、瓶詰め室、社会的条件指定室、そして別容器への注入室へと続く。 

「別の容器に移される」すなわち「養殖された」赤ん坊は、特別な養育器に入れられ、読書と戸外での活動を嫌うよう条件付けられ、実にさまざまな消費物質を消費した後、やせ衰えて死ぬように教え込まれる。ハックスレーは、テレビをベビーシッター代わりに使用する現代の育児事情に対する懸念を示したと考えられる。テレビを子守り代わりにする方法は、彼が考えた条件付けセンターと同じ意味を持っているように思われる。 

彼の寓意的作品は、体外受精とクローン形成の恐るべき一面を予言する結果になった。読者がこうした描写にショックを受けたのは、それほど昔のことではない。我々が技術の利用に慎重に対処していけば、次世代の読者は「何が大問題なのか?」という気持ちでハックスレーを読むことができる。 

神の法則に外れることは、我々の生活に混乱をもたらす。体外受精がその典型的な例である。生殖技術が進歩したことで、妊娠によって子どもを持つことや社会的な方法で子どもを持つこととは別に、遺伝子によって子どもを持つことが可能になった。その技術を遂行する人物、すなわちバイオテクノロジー専門家は、第三者に過ぎないのである。 

言いかえると、遺伝子上の親が一人でも複数でも、彼らは始めから、子どもを胎内で育てる女性でもなければ、生まれた子どもを養育する夫婦でもない。ドナーの一人あるいは両方が死亡した場合でも、中絶された胎児や死亡したばかりの女性から卵子を採取することができる。 

取り出した精子と卵子は売買され、子宮が貸し出されている。卵子の平均的な価格は6,500ドル、精子の価格は1,800ドル、代理出産は45,000ドルとなっている。カリフォルニアには、「デザイナーベビー」の第一歩となるノーベル賞受賞者の精子バンクもあり、「天才の精子」を購入することができる。お金さえあれば、契約を結び、希望する規格に従って人間を製作することができる。 

ペトリ皿上あるいは子宮内の胚を調査し、希望する特徴を持った子どもが誕生するかどうかを判断する研究がすでに始まっている。こうした研究の主な目的は、男女の産み分けである。中絶に賛成するフェミニストは、希望に合わないという理由で破壊される胚の多くが、母方の特徴を持つものであることを知るべきである。 

体外受精には法律上多数の問題が伴う。親権を主張する人の数は、今や5人に拡大している。すなわち、精子のドナー、卵子のドナー、子宮を貸す代理母、子どもを養育する夫婦である。複数の両親を持つ子どもが誕生すれば、グリーティング・カード産業のマーケットが拡大するだけでなく、弁護士は間違いなく金儲けができると揶揄する声もある。 

不妊や生殖に関する問題の増加に伴い、人々が科学に解決策を求める傾向が強まっている。現代科学は、人工授精や体外受精など、さまざまな技術を開発してきた。それに伴い、精液、卵子、胚を保存する補助的技術も開発されている。 

こうした技術が開発され、一定の成功率を得ているからといって、これらが道徳的に容認されたことにはならない。結果は手段を正当化するものではない。この場合、不妊の夫婦が子どもを持てるというすばらしい成果が現れている。しかしながら、教会は、その手段を認めてはいない。 

結婚:いのちの尊厳

カトリック教会は、結婚を人間の生殖において倫理的に唯一容認し得る枠組みとしている。結婚と結婚による不可分な結束こそが、責任ある生殖にふさわしい唯一の場である。したがって、第三者から提供された精液や卵子を人工的に使用した受精は、夫婦にだけ生殖を求める考えに反することになる。体外受精などの手段を講じることは、夫婦の貞節を冒すことと考えられる。また、ドナーが子どもの養育に無関係であるという意思を表した上で受精に貢献することも異例である。 科学と技術が開かずの扉を開けたとき、パンドラの箱から人類を脅かす4つの災いが吐き出される。我々人類は原子爆弾や細菌兵器を開発してきた。開発されたこれらの兵器は、新たに人類の歴史の一部として刻まれている。科学者たちは、危険が潜む扉をまた一つ開けてしまった。そして、彼らは人間の生命を製造し、それを実験の対象として利用しているのである。 

精液や卵子の提供および代理母に出産を依頼することは、どちらも結婚による結びつきと生殖の尊厳を損なうものである。精液や卵子の提供、あるいは代理母になることで報酬を受け取れば、彼らは商業化や宣伝活動に協力していることになり、その行為がさらなる問題を生み出すことになる。 

「カトリック教会のカテキズム」、バチカン文書『生命のはじまりに関する教書』(人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳)からの引用には、次のように明言されている。「夫婦以外の他者の介入(精子または卵子の提供、代理出産)によって夫婦の分離を誘発するような技術は、きわめて不道徳である。こうした行為は、子どもが父親と母親がわかった状態で生まれる権利、そして結婚による互いの結びつきを侵害することになる。さらに、こうした技術は、互いを通してのみ父となり母となるという配偶者の権利を裏切ることにもなる。」(#2376)。事実、生殖行為において、配偶者は神の協力者とみなされる。したがって、教会では、子どもの誕生は、夫婦間の行為において配偶者との愛の結実としてのみ追求すべきだと教えている。 

また、「カトリック教会のカテキズム」では、受精を目的とした技術が夫婦の精液、卵子、子宮にのみ限定して用いられることについても言及している。その場合、こうした技術は「前述の場合ほど非難されるものではないが、道徳上、容認できないことには変わりない」。こうした行為は、性交による受精を阻むものである。子どもを作るという行為は、二人の人間(夫と妻)が互いを与え合うという行為に他ならず、「胚のいのちとアイデンティティーを医師や生物学者の権限に任せ、技術によって人間の誕生や運命をコントロールすることではない。技術が優先される関係は、親子の間に存在すべき尊厳や平等に反するものである」(#2377)。 

教会は、「婚姻による行為に内在する夫婦結束の重大性と生殖の重大性の間には、神が定めた不可分なつながりがある」(フマネ・ヴィテ 12)と教えている。この観点から、夫婦の結束の意義を排除した体外受精は、夫婦の行為による生殖を制限する避妊に相当すると考えられる。 

神は自分の姿に似た生き物として男と女を作り、彼らに「子どもを生み、繁栄していくこと」を使命として与えた。結婚の結実として生まれた子どもは、やはり神の姿で誕生した人間の仲間なのである。夫婦の行為は、愛し合う二人が互いに自分を与え、相手を受け入れる行為のひとつである。これは、三位一体の神の精神、つまり愛の共有を表している。 

夫婦の愛は、いのちへの奉仕であり、創造主である神への奉仕でもある。教皇ヨハネ・パウロは、「家族への手紙」で、「受精によって新しい人間を作り世に送り出す行為において、配偶者を創造主である神の協力者と考えること…神自身が人類の父そして母として存在することを強調したい。人類が創造されたときに、人間固有の「姿と性質」の源になったのは神に他ならない。子どもを作ることは、人類創造の続きなのである」(「家族への手紙」9)と述べている。 

余剰胚:ヒトの残り 

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者としてたてた。」(エレミア書1:5。教皇ヨハネ・パウロII世は、この聖書の引用文について、次のように解説している:「人間のいのちはすべてその初めから、神の計画のうちにあります…」(いのちの福音#44)。母親の子宮内にいる子どものいのちへの神の干渉に対する畏怖と驚嘆は、詩篇やルカ福音書で繰り返し表現されている。子宮内のいのちに対する神の愛に照らし、ローマ教皇は、驚愕の疑問を投げかけた。「いのちについて説き明かすこの驚くべきプロセスのどの瞬間でさえも、創造主の知恵と愛情あふれるわざから切り離され、人間を勝手な行動のとりこにするなどとは考えられてはいません」(いのちの福音#44)。人のいのちは受精の瞬間から尊いものである。しかし、残念なことに、人のいのちを尊重するという聖書の教えは、現代社会において踏みにじられている。人のいのちの神聖さに対する深い敬意を失ったとき、人類は自滅の道をたどることになるだろう。 

科学や技術の力で開けてはならない扉が開けられたとき、パンドラの箱からは人類を脅かす4つの災いが吐き出される。我々人類は原子爆弾や細菌兵器を開発してきた。開発されたこれらの兵器は、新たに人類の歴史の一部として刻まれている。科学者たちは、危険が潜む扉をまた一つ開けてしまった。そして、彼らは人間の生命を製造し、それを実験の対象として利用しているのである。 

倫理的制約を持たない科学によって、我々は、進歩の名の下に人間性を失う道を進み始めている。現代科学の発展によって得られるものは多いが、それらは、個々の人間に内在する尊厳を尊重する倫理的原理に基づいたものでなくてはならない。貪欲と営利追求によって科学がプロメテウスの探求に乗り出せば、我々自身の人間性が危険に晒されることになる。バチカン文書「生命のはじまりに関する教書」がこのことを的確に表現している。「人類を超える力から守ることで、教会は、人間が持つ真の高潔さを人々に気づかせようとしている。未来の男女が、真実に対する敬意に裏打ちされた尊厳と自由を持って愛に満ちた人生を送るには、それが唯一の方法なのである」(生命のはじまりに関する教書P.39)。 

胚を破壊することなく体外受精を行うことは、理論的には可能である。子どもの権利、結婚による結びつき、夫婦が結合する行為の点で道徳的に重大な問題が生じることから、体外受精の道徳性については依然として疑問が残る。しかし、体外受精では通常、複数の卵子が排卵されるよう、女性に排卵促進剤が投与される。これらの卵子はペトリ皿の上で受精され、複数の胚が形成される。その中でもっとも健康な胚をいくつか選んで女性の子宮に移植する。このとき、多くの胚が廃棄されるか凍結保存される。凍結することで、さらにいくつかの胚は死んでしまう。後に実験に使用される胚もあるが、それは常に合法的に行われている。 

最近の調査では、米国の研究所で冷凍保存されている胚は100,000個以上と見積もられている。これらの胚は、成長し、男性や女性になる機会を持った人間なのである。こうした胚の廃棄や処分が重大な道徳的ジレンマを引き起こし、人間の生命の神聖さに対する大衆の態度を悪化させている。  連邦議会の前に最近行われたディベートでは、ある夫婦が胚性幹細胞の研究について切実な証言を行った。主な論点は、彼らの2人の息子が、夫婦が養子縁組した凍結胚から誕生したことであった。これらの胚をオタマジャクシとして偽ることはできない。これらの胚は、独自の遺伝子コードを持ち、染色体の完全な組み合わせと個人としての特性を備えた人間なのである。どんな人間も、胚からそのいのちが始まっている。 

体外受精ではたくさんの胚が危険に晒され、あるいは安易に破壊されてしまう。こうした初期段階での中絶行為は、道徳的に容認できるものではない。残念ながら、良識ある人の多くは何が危険に晒されているかに気づいておらず、体外受精の結果誕生する子どもにのみ注目している。彼らは、その過程において多数の胚が形成され、その大半が凍結や廃棄によって誕生することなく死んでいくことには、ほとんど注意を向けていない。 

教会は、ヒトの胚に対して敬意を払うべきだという明確な姿勢を一貫して維持している。第二バチカン公会議では、次の点が再確認されている。「生命は受精されたときから、最高の配慮を持って守らなければならない。」同様に、聖座が最近出版した「家庭の権利に関する憲章」には、次のように書かれている。「人間の生命は、受精の瞬間から絶対的に尊重され、守られるべきである。」 

この原理を基に、2つの論理的な概念を導くことができる。第一に、出生前診断や治療行為は、不相応な危険が伴わず、胚の治療や生存を目的とするものであれば、正当かつ道徳的と考えられる。第二に、ヒトの胚を直接治療することにならない以上、生きている胚を実験目的で使用するべきではない。米国カトリック司教協議会の中絶反対担当部は、ヒトの胚の尊重について質問・回答文書を発表し、その中で次のように説明している。「科学、人類、あるいは社会の発展に役立つなど、いかに高尚な理由があっても、生きている胚、あるいは生存しているかどうかに関わらず、また母親の子宮内か子宮外かにかかわらず、胎児に対して実験を行うことは、いかなる場合も正当ではない。通常臨床試験に必要なインフォームド・コンセントは、親に承諾する権利はなく、彼らが生まれていない子どもの身体的完全性やいのちを自由に廃棄することはできない。」 これらの胚をオタマジャクシとして偽ることはできない。これらの胚は、独自の遺伝子コードを持ち、染色体の完全な組み合わせと個人としての特性を備えたヒトなのである。どんな人間でも、胚からそのいのちが始まっている。 

このように、教会は明確な教えの中で、多くの胚が犠牲になる体外受精のモラルに加え、生きたヒトの胚を破壊する胚性幹細胞研究に関しても、重要な含意を示している。 

体外受精の結果「余った」胚を研究目的で使いたいと考えている科学者は多い。問題は、大量の凍結胚がいずれ廃棄される運命にあることである。研究目的でクローンを作成する場合と同様、廃棄された胚を研究目的で採取することは、生きているヒトを研究目的でのみ意図的に利用することになる。残念ながら、一部の人たちは、道徳より実用を重んじている。胚を保護し、胚性幹細胞研究を重罪とする法律が多くの州で制定されていることは、心強いことである。マサチューセッツ州では、「母親の子宮から取り出されているかどうかにかかわらず、科学調査や研究などの実験目的で」胚を使用することを法律で禁止している(M.G.L.Ch. 112 pare. 12)。 

2001年8月26日付のニューヨークタイムスは、不妊治療クリニックで最も嫌われている仕事は余剰胚の廃棄であると報じている。記事はこう続けている。多くのクリニックでは、年間数百ドルから千ドル以上の料金を請求している。しかし、クライアントが支払いを止め、「数年が経過していても」、発生学者の多くは胚を廃棄しない。ある研究所の所長は、スタッフの大半がその仕事を嫌がるため、自分自身で胚を処分しなければならないと述べている。患者の気が変わる可能性を考え、あたかも利用を待っているかのように胚の解凍が行われる。体外受精にかかわる医療スタッフの多くがヒトのいのちを破壊することに重大な責任を感じていることは明らかである。彼らは、こうした胚が健康な子どもに成長する様子を見てきた証人である。医療スタッフにとって、胚を処分する暗殺者になることは不本意なのだが、それでも暗殺者にならざるを得ないのである。 

バチカン文書の「生命のはじまりに関する教書」には、体外受精の過程で採取した胚を破壊することは、中絶に相当すると明言されている。ヒトの胚を自発的に破壊することで、「研究者は神の領域を侵害することになる。たとえ科学者がそのことに気づいていないとしても、どの胚を生かし、どの胚を死に至らしめるかを決め、無力なヒトを殺すという点で、他人の運命を握る立場に立っていることに変わりはない。」(生命のはじまりに関する教書、1987)。 

凍結胚:保留されている子どもたち

胚性幹細胞研究に関する議会での公聴会において、両腕に息子たちを抱えたJohn Bordenは、委員たちの前で「私の子どもたちのうちどちらを殺しますか?」と問いかけた。夫婦間で子どもができなかったJohnと彼の妻Lindaは、体外受精で「余った」凍結胚を養子にした。彼らの衝撃的な証言は、発達の初期段階であっても胚はヒトであり、胚性幹細胞研究の犠牲にするべきではないことを示唆するものであった。 

この夫婦をはじめとする人々の行為は、「凍結胚をどうするべきか」という問題を提起することになった。米国カトリックバイオエシックスセンターのEdward Furton博士は、最近、「凍結胚の扱いについて」という記事を発表した。教会は、凍結胚の扱いについて公的な立場を明らかにしていない。体外受精が倫理的な行いでないことは明らかである。しかしながら、体外受精で生まれた子どもたちは、人類の誰もが持つ権利と尊厳をすべて持った人間であり、凍結胚もヒトとしてそのように取り扱われるべきである。 

凍結胚の扱いとして最適な解決法は、母親の子宮内に移植され、満期まで生育されることである。そもそも胚は人工的に作られるべきではなく、この極めて微妙な状況下では、子宮への移植が最善の策と考えられる。 妊娠が望まないものであったとしても、そのタイミングが悪かったとしても、望まれない子どもが存在するべきではない。事実、調査結果が示すように、赤ん坊を養子にしたい家族は多く、わが国で中絶される子どものすべてに家庭が与えられてもおかしくない。 

胚の両親が母親の胎内に胚を移植することができない場合、あるいはそれを望まない場合、その凍結胚はどのように取り扱われるべきか?この問題について、道徳学者たちの間で議論が始まっている。神学者でもあるWilliam May博士とGermain Grisey博士、米国カトリックバイオエシックスセンターの「倫理と医学」の編集者John Furton博士は、凍結胚を凍結保存したまま腐敗させるより、養子に出すほうが望ましいという見解を示している。代理母の問題から、この方法の支持にためらいを見せる道徳学者もいる。それにもかかわらず、凍結胚が直面している厳しい状況をめぐり、我々は苦闘を続けている。これは、婚外で誕生した子どもたちに関する教会の教書の内容と似ている。子どもの誕生をめぐる状況に教会が賛同できないとしても、すでに人間とて存在している以上、教会は子どもの精神的、物理的福祉を考えなければならない。 

事情はどうあれ体外受精を奨励するべきではない。しかし、生命のはじまりに関する教書が言うところの「合法的に追求されるべき生存に向けた安全な方法を与えられず、不条理な運命にさらされている」(D.V.I.5)無垢なヒトを救いたいという気持ちはある。近い将来、この非常に複雑な問題について教皇庁が公文書を発表することに期待している。 

子どもたち:権利を持たない神からの贈り物

Stanley M. Hauerwas教授は、保健教育福祉省の倫理顧問委員会の前で、体外受精について次のように証言した。「キリスト教徒は、体外受精を本来の必要性から派生した自由の延長であるとする道徳上の抗弁について、疑問を持つべきである。こうした主張の裏には、我々人類を不滅の存在にするためには、人間の権利に制限はないという高飛車な考えがある」。 

Hauerwas教授の主張は、教会の教えを反映したものである。我々に「子どもを持つ権利」はない。こうした権利は「子どもの尊厳と性質に反するものである。子どもは権利を行使する対象でもなければ、所有の対象と見なされるべきでもない。子どもは「すばらしい授かり物」であり、結婚によって得られる無償の贈り物であると同時に、両親が互いを与え合ったことを証明する生きた証人なのである。こうした理由から、子どもには両親の婚姻による愛の結晶としての権利があると考えられる。また、子どもには、受精の瞬間から人間として尊重される権利もある。」(生命のはじまりに関する教書、8)。 

現代社会における最大の愚行として、わが国が望まない子どもの中絶を認め、一部の女性において妊娠を可能にする不道徳的な技術(体外受精)を認可していることが挙げられる。こうした状況において、子どもたちの運命は、両親の都合や希望に翻弄されることになる。 

旧約聖書では、不妊を災いであり、恥ずべき状態としている。旧約聖書では、ある意味、不死を自分の子孫や人類の子孫を残すことと捉えられている。子どもがいないことはすなわち、自分がこの世から絶滅し、忘れ去られる悲運を意味することになる。 

新約聖書では、独身生活に関する教えにおいて、誰もが子どもを持つ必要はないと教えている。子どもを持てるかどうかは神の思し召し次第なのである。初期の教会における聖処女の例は、精神面の充実の重要性を説くと同時に、教会の復活信仰の証言にもなっている。最初の殉教者と同様に、彼らのいのちは、我々のだれもがキリストの中に永遠のいのちを見出すべきことを明示している。したがって、不死を得るために誰もが子どもを持つ必要はないのである。 

我々にとって、結婚や母となること、父となることは神の思し召しであり、子どもは授かり物なのである。たとえ子どもを持つことができなくても、結婚生活がそれを理由に価値を失うことはない。ローマ教皇は、『家庭‐愛といのちの絆』において次のように書いている。「たとえ子どもを産むことが不可能な場合でも、そのために夫婦生活はその価値を失うわけではない。肉体面での不妊は、実際、人間の生命への他の形での重要な奉仕への契機となり得る。たとえば養子を受け入れたり、種々の教育活動に携わったり、他の家族や障害児や貧しい子どもたちを助けたりするようなことがそれである。」(#14)。 

教区、コミュニティー、支援を必要とする人々に、その善意と寛容の心で尽くしている子どものない夫婦は大勢いる。彼らは、信仰深く、愛情にあふれた結婚生活を送っていることから、「きっとすばらしい親になれただろう」と言われることも多い。 

養子縁組:愛情に基づいた解決法

妊娠が難しい夫婦の苦境については、教区も懸念を抱いている。婚姻に基づく行為に代わるものではなく、それを支援する道徳的な手法が科学の力で開発されたのは、喜ばしいことである。一部の不妊治療薬、顕微手術、生殖器の問題を修正する治療、妊娠しやすい時期がわかる自然な家族計画法などがその例である。教会は、科学者が「不妊の夫婦が自分たちと生まれてくる子どもの双方の尊厳を維持できる方法で、不妊の原因を予防し、それを治療するための技術を開発するよう奨励している」(D.V.8)。 

聖書において、未亡人や孤児を労わり、他人を暖かく迎えるよう教示されていることから、子どものいない夫婦が信仰心から養子縁組を考える可能性が考えられる。こうした決断は、神への祈りと熟考の末に成されるべきである。心やさしい不妊の夫婦が養子縁組という責任を負い、両親を亡くした子どもたちや、両親による養育が不可能な子どもたちのために愛情あふれる家庭を築いた例は多々ある。 

わが国で毎年150万件もの中絶が行われている理由のひとつに、養子縁組によって子どもを手放そうと考える国民が少ないという現状がある。毎年、米国内で約200万組の不妊夫婦が赤ん坊の養子縁組を望んでいるが、成立するのはわずかに50,000件程度である。ダウン症候群、脊椎披烈、エイズの子どもの場合、順番待ちである。多くの夫婦が、大金を投じて韓国、ロシア、ルーマニア、グアテマラ、中国などに赴き、赤ん坊を養子に迎えるために多大な犠牲を払っている。 

米国で毎年150万人もの母親が中絶を選んでいるのは悲惨なことである。彼女たちは、どういうわけか、望まない妊娠の結果である子どもに家庭を作ってあげたいと願う家族に養子に出すより、自分の胎内で子どもを死なせる方法を選択するのである。妊娠が望まないものであったとしても、また、タイミングが悪かったとしても、望まれない赤ん坊が存在するべきではない。事実、調査結果が示すように、赤ん坊を養子にしたい家族は多く、わが国で中絶される子どものすべてに家庭が与えられてもおかしくない。 

いのちの福音に賛同する人は、養子縁組の熱心な支持者であるべきである。教区の中には、子どもを養子に出す母親の愛と寛容を祝福するために、また、家族の一員として誕生した子どものように子どもたちを温かく受け入れる家族のために、特別なミサを行うところもある。 

我々の教区では、今年、いのちの重要性を強調するために、イエスの養父である聖ヨセフの日に、教区で中絶反対の式典を行う予定である。聖家族において養父が存在するという事実は、子どもを養子に出す人々および養子として受け入れる人々にとって大きな励みになるはずである。 

米国以外の国でも、子どもを養子に出すことで子どもに生を与える選択を拒否する母親が多く、悲惨な事態を招いている。イタリアでは、人口が減少しており、イタリア国民の将来に対して重大な懸念が持ち上がっている。ある国会議員が、満期出産まで妊婦を支援することで、中絶による子どもの喪失を食い止め、養子縁組を奨励する案を政府に提示した。 

我々の教区および全米各地の教区でも、同じ支援を行っている。教会には、中絶以外の選択肢を希望するものの、妊娠の継続が難しい女性を支援する用意がある。 

教会としては、養子である子どもたちに、養子縁組を促進する際に力になってもらいたいと考えている。彼らの母親は、彼らを見捨てる代わりに、彼らにいのちと生きるチャンスを与えた。自分の子どもを他人に託すという決断は容易ではなく、葛藤も多いだろう。しかし、我々は、それが正しい決断であると信じている。聖書には、ソロモンの前で争う2人の母親の記録がある。実母は子どもを殺すくらいなら、養子に出すことを選んだ。 彼女は自分の子どもを愛情から養父母に託すことで、子どもに生きる機会を与えた。彼女は、養父母と共に神の思し召しを共有することになるが、子どもの本当の母親は常に彼女だけである。 

教皇ヨハネ・パウロII世は、『家庭‐愛といのちの絆』において次のように書いている。「キリスト教徒である家族は、人間はみんな天の父の子どもであるという認識に基づき、他者の子どもにも寛容に接し、愛と支援を与え、部外者ではなく神の子どもたちから成る1つの家族の一員として彼らを扱うべきである。キリスト教徒の親たちは、血縁を超えて子どもたちに愛を与え、聖霊にやどる絆をはぐくむべきである...(F.C.42)。 

結論

めまぐるしく変化を続ける今日の社会では、あらゆるものが試行され、陳腐化している。そんな中、無垢な人間のいのちとその尊厳を守るための教会の献身が、現代の福音において非常に重要であることは、信者の皆さんにとって日々明らかになっているに違いない。我々の未来は、こうした活動の成否にかかっている。生命は尊重され保護されるかもしれないし、あるいは操作され破壊されるかもしれない。 

死の文化が多くの著名人により支持されれば、その地位が高まる可能性がある。メディアは騒ぎ立て、教会は静かに語りかける。しかし、教会が語りかける内容は、決して止むことのない一貫したメッセージを伝えている。 

体外受精の問題は複雑である。子どもが欲しいと強く望む不妊の夫婦に同情するのは当然だが、結果によって手段が正当化されるわけではない。 体外受精については、国民が認識している以上の危険が存在する。 

「体外受精」に関する教会の教えは明確で、結婚、人間の尊厳、生命倫理に関する教えとほぼ一貫している。体外受精という技術に伴う倫理的問題に関する知識が欠落しているために、多くの夫婦が「体外受精」を頼りにし、そのことが胚性幹細胞研究に対する国民の支持を加速しているように思われる。 

聖パウロは、不確かなトランペットの音に呼応するべきではないと述べている。体外受精に関する教会の教えに不確かなところはない。我々がしなければならないことは、トランペットの音を大きくすることだけである。 

Bishop O-Malley, Seam P. (オオマルリ・シイム司教)
OFM Cap
A Pastoral Letter
Copyright ©2004.8.7.許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net