日本 プロライフ ムーブメント

中絶する女性:「胎児に関する彼女たちの考え」

中絶クリニックの待合室で、少しの間私と一緒に座ってみましょう。ここには、一般的に哲学者でも馬鹿者でもない女性たち、明らかにその両者がかなり重複したカテゴリーの女性たちがいることがわかるでしょう。この女性たちの中で、「人間であるということ」の意味についての不可解な議論に関わったことのある人はほとんどいません。愚かにも、中絶をすることは歯を抜いてもらうことと同じだという主張を信じる人はさらにいません。

見回してみれば、アメリカ文化を代表するさまざまな女性が目に入るでしょう。聡明な人や鈍い人、保守的な人や進歩的な人、信仰心の厚い人や信仰心を持たない人など様々な女性が目に入るでしょう。全ての代表が集まっています。若者や未婚の女性や少数民族の女性の数が非常に多いのですが、それでも彼女たちが典型的なアメリカ女性たちなのです。そして全てのアメリカ人と同じように、これらの女性たちは中絶に関して不安で、意見も大きく分かれていますが、今日では今まで以上にそうなっています。

今日でも、これらの女性の多くは、手術室へ連れていかれるのを待っている間、否定することで逃避をしようとします。「すぐに終わるわ。そのことを考えるのはよして、今までどおりに生きていきましょう_もし正しいことでないなら、中絶が合法的となっていないでしょう。もし安全でないなら、法律で認められないでしょう。そのことを考えるのはよしましょう。」

差し迫った中絶のことをせいぜい必要悪程度に考えて、さよならを言っている女性もいます。「許してね。ママはこんなことはしたくないんだけど、本当にこうするしかないの。あなたを産んであげられたら、うんと愛してあげるのに。」

感情的にならずに待っていても、「私は正しいことをしているのかしら。」という形而上学的な問いに知的に苦しめられている女性もいます。また、同じ問いに対する答えに集中している女性もいます。「このことは正しいことだわ。こうするのが一番だわ。いつか私がいいお母さんになれる時が来れば、赤ちゃんは創れるわ。今赤ちゃんを産むことは、私にとっても、ジムにとっても、さらには赤ちゃんにとっても正しいことではないわ。」

待合室にわびしく座っているこれらの女性たちは、典型的なアメリカ人です。彼女たちは、中絶という問題について同じような考えや苦悩を抱いています。世論調査によれぱ、アメリカ人のおよそ70パーセントが、中絶は合法的であるべきだと信じていることがわかります。しかし、(明らかにかなりの重複はありますが)75パーセントが、中絶は道徳に反すると信じているのです。私たちの心の中には、何が合法的であるべきかと、何が実際に道徳的なのかとの間に、明らかな対立があります。

この対立は、中絶クリニックの待合室において特によく見られます。クリニックでの面接調査によって、少なくとも中絶を受ける女性の70パーセントが、中絶を非道徳的な、または逸脱した行為であると考えていることが確認できます。1自らの道徳的信念によって選択するというよりはむしろ、大部分の女性が自らの信念体系に反した行動をとっています。彼女たちは、状況によって、または愛する人によって、なんらかの「他の利益のために」自分たちの良心に背くことを「強制された」と感じています。

全ての人が知っている

中絶が合法化されて20年以上経ったのちでさえ、アメリカ人(生まれたときからずっと中絶が合法化されていた若い女性を含めて)は、依然として中絶に対して道徳的に否定的な考えを持っているのでしょうか。

この問いに対する答えは、20年前と同じです。1971年、「カリフォルニア医学」の編集者たちは、中絶の合法化を支持する記事を書きましたが、この変化の基底にある道徳的な考えかたは、徐々にしか受け入れられないだろうと述べました。

「いのちの神聖さについての」古い「ユダヤキリスト教」の倫理観は、まだ完全には「人間のいのちに絶対的な価値というよりもむしろ相対的な価値を置く新しい倫理観」に取ってかわられてはいないので、中絶についての考えを殺人についての考えと区別することが必要でしたが、それは依然として社会的に相いれないままとなっています。その結果、実際は誰もが知っている、人間のいのちは受精の瞬間に生まれ、子宮の内外を問わず、死に至るまで続く事実を奇妙にも回避するということが行なわれてきました。中絶を決して人間のいのちを奪うことではないものだとして、正当化するために必要なその言葉のごまかしは、もしそれらが社会的に完全な後押しのもとで進められなければ、ばかばかしいものとなるでしょう。新しい倫理感が受け入れられつつある一方で、古い倫理感がまだ拒否されてしまえていないので、精神分裂的な口実が必要なのだと考えられます。

現在の中絶論議には正直さがしばしば欠けているので、「カリフォルニア医学」の中絶権賛成の立場の編集者たちは、人間のいのちが受精の瞬間に始まることを「実際誰もが知っている」と断言しています。誰もがそのことを知っているのです。その事実の否定の一つ一つが、私たちが快適に生きていけるようにするために「社会が完壁に後押し」してくれる単なる「言葉の操作」にすぎないのです。

中絶クリニックの待合室で座っていると、この真実が沈黙の服従の表面化で不安げに漂っているのがわかります。誰もあえて話そうとはしませんが、みんなその真実を知っているのです。幼い子どもたちでさえ、この単純な真実を理解することができます。それは、全ての子どもたちが実際に尋ねる、「赤ちゃんはどこからやってくるの。」という問いかけの核心部分にあるのです。一時的にこの問いかけに対して、答えをはぐらかすことはできるかもしれませんが、子どもの好奇心は、真実が完全に明かされるまで完全に満たされることはないのです。いのちは受精の瞬間に始まります。赤ちゃんは、受精という行為によって、男女の(望むべくは愛の行為における)合体という行為によって、まさに二人それぞれの物質を共有することによって、二つの物が一つの肉体になることによって、つまり象徴的に性行為という合体行為において、また真に、新しい人間、つまり二人の子どもを創るために男女の肉体を一つにする新しいいのちの受精において、創造されるのです。

人間の胎児、人間の胚、あるいは人間の受精卵が、実際人間であるという知識は、子どもの発する「赤ちゃんはどこから来るの?」という質問への答えと同じように否定できないものです。待合室にいる女性たちは、自分がかつてその質問をしたときのことを覚えています。彼女たちは、その質問に対する答えも覚えているのです。彼女たちは、真実を覚えているのです。そしてどんなに無視し、忘れ、スローガンや哲学的庇理屈の下に埋めようとしても、彼女たちの注意を引き付けるのはこの真実なのです。

中絶して間もない40人の女性との面接調査においては、社会学者のメアリー・ジンマーマンは、女性たちが取り乱すことを避けるために、人間の胎児の本質に関する質問を避けました。しかし、この質問をしないでおいても、それは明らかに女性たちの心にかかっていました。なぜなら彼女たちの大部分は、面接中に少なくとも自分の意見を匂わせるものを明らかにしようとしたからです。約25パーセントの女性たちが、中絶された胎児はいのちであり、人であり、人間であるとはっきりと言いました。このような多くのケースにおいて、彼女たちは別の人間を殺したという感覚を認めました。もう25パーセントの女性たちは、胎児の本質について混乱していることを明らかにしました。このような場合、女性たちは、一般的に、胎児が人間であると信じていても、中絶が殺人であるということは否定しました。ジンマーマンは、道徳的な人間だという自己像を維持するために、このような矛盾する立場をとるのだと示唆しています。最後に、わずかに15パーセントの女性が、胎児は人ではない、人間のいのちではないと主張しましたが、このような女性でさえ自分の考えを支持する主張をするというよりはむしろ、否定の言葉で自己表現をし、たとえば「何かがそこにあるとは思いますが、それは実際まだいのちになっていないと思います。」と言いました。

みんなが苦しんでいる

いのちが奪われたという気持ちが、中絶の前、中絶の最中、中絶後の女性の証言に一般的に共通して見られます。クリニックの待合室でインタビューを受けたある女性は、「それは殺人ですが、正当化できる殺人です。」と言いました。また別の女性は中絶直後に、「中絶を受けているとき、自分の一部を破壊しているような感じがします。とにかくそんな感じなのです。罪の意識を感じます。ただそれだけです。本当はそんなことはしたくなかったのです。それは罪深いことです。」と言いました。また別の女性は中絶直後の気持ちを表現して、「私は自分がいやでした。私は見捨てられ、どうしていいかわからない気持ちでした。泣いてすがる人もいなくて、とても泣きたい気持ちでした。そして何かを殺したという罪悪感を感じました。私は赤ん坊をたった今殺したということを考えないようにすることができませんでした。」

罪悪感そのものを予想することで、自分を罰する行為に駆り立てられる人もいます。 このような例が、RU-486を用いた中絶を受けるためにイギリスまで旅をしたアメリカ人女性との、ニューヨークタイムズのインタビューの中でレポートされています。ペンシルバニア出身の女性は、彼女にとっては、RU-486のために通院を繰り返し、プロスタグランジンの注射を受け、死んだ人間の胎児を体外に出すために6時間以上もの陣痛に耐えるという痛ましい経験をするほうが「精神的なメリット」があったと説明しました。「私はただすっと手術室に入って、麻酔をかけられて、2時間で全てが終わってすっと手術室から出ていくことができませんでした。ある意味では、それではあまりにも気楽すぎます。こうすることは、私にとってはつらい決断でした。もしそれですんでしまっていたら、私はあまりにも無責任だと感じたでしょう。私はこのことを一生忘れずにいたかったのです。私は二度とそのようなことはしたくありません。」この女性にとっては、中絶に対する代償は、払い得る最高の犠牲でなければならないのです。その行為は、適切な厳粛さでもって人の記憶に刻み付けられるに違いありません。肉体的精神的苦痛は、否定されたいのちに対して払うことのできる唯一相当の犠牲なのです。

胎児が人間であることを否定する人々も、この否定は意識的な努力によってのみ維持可能だとしばしば認めています。たとえば、ある女性が次のように書いています。「私はそれを赤ん坊だとみなしていませんでした。わたしは決して、それをそのように考えたくなかったのです。」また否定することがそれに対処する唯一の方法だと主張する人もいます。「私はそうする決心をしました。私が中絶によって気が変になった可能性があったように、どんな女性もそうなる可能性はあります。しかしそうさせることはできないのです、なぜならあなたはその経験をもったまま生きていかなければならないのですから。だから中絶したことでとことん苦しんでも意味はないのです。」

他の人々にとっては、自分の経験を論じるという過程でさえ、自分たちの不安定な精神状態にとって脅威になるのです。たとえば、3度目の中絶を待っている間にクリニックでインタビューを受けたひとりの女性は最初、今までの二回の中絶にはうまく適応してきたと主張しましたが、続く話のなかで、現在中絶後遺症候群の一部と認められている症状を経験したことに言及しました。彼女は、他人の子どもに強迫的な魅力を感じるようになったこと、急に怒りが吹き出すこと、うつ状態や薬物乱用の時期があったことを告白しました。自分が、今までそれ以前の中絶が原因だとしていたこれらの問題を説明しているのを自分で聞きながら、彼女は自分が信じるべきものに疑いを持ち始め、ついには次のような結論を下しました。「たぶん私は精神科医のところへ行くべきなんでしょうけど、実際はそのお金もないし、その興味もないんです。真実を受け入れるのは難しいことで、私はそれを受け入れる心の準備ができているかどうか全くわからないのです。」

真実が何であるか、彼女はすでにわかっているのですが、それを受け入れるのは「難しすぎること」なのでしょうか。中絶は人間のいのちを奪うものです。さらにこのいのちは自分自身の子どものいのちなのです。この人間のいのちはまた自分の相手の男性の子孫なのです。そしてその男性の両親、そしてその祖父母の子孫なのです。このようにして、中絶は深刻な道徳問題以上のものでさえあるのです。それは家族の問題なのです。中絶経験は、女性の自分に対する見方を決定するするだけでなく、家族に対する見方も決定するのです。

誰も無事なものはいない

中絶権の最も熱心な支持者でさえ、これらの問題に影響を受けないことはないのです。プロのジャーナリストであり、女権拡張論者であり、中絶権擁護の活動家であるリンダ・バード・フランクは、彼女が、自分と夫の好調な仕事の邪魔となる可能性のあった予定外の妊娠に直面して、「今はもう一人子どもを産む時期ではない。」という決断をしたいきさつを述べています。それは比較的やさしい決断でした。感情的なためらいなく、論理的で実際的な選択が行なわれました。

フランクと彼女の夫が実際に待合室で座っていて初めて、予期しない迷いが生じてきました。「突然、かっこいい言葉や、私が参加した中絶権賛成の行進や、『胎児の友』という団体に抗議するために、オールバニヘ送った電報や、私が身につけていた『人口増加率ゼロ』のボタンが剥がれ落ちて、私は自分のとても小さい赤ん坊と二人っきりになりました。」彼女は胎児がどんなに小さいか、したがってそれが人間であることがいかに不可能かということに、心を集中させようとしました。しかし彼女は以前に子どもを産んだ経験があり、自分自身の体の感触が彼女の身体の中で本当のいのちが育っていると語り続けていました。「母になる選択権を行使できる権利を求めて足にまめができるほど行進をよくしたけれども、私はその待合室で、自分が思っていたような現代的な女性でないということがわかりました。」と彼女は書いています。10 

手術室に入る時までには、彼女は自分が前もって決めたコースからなんとか逃れたいと必死に願っていました。彼女は夫が雄々しくドアを押し破って入ってきて、それを止めさせてくれることを願いました。彼がそうできず、医者が手術のために彼女の性器を押し広げ始めたとき、彼女は自分で医者にやめてくれるように懇願しました。しかし医者はもう遅すぎると言って、手術を終わらせてしまいました。その時点で彼女は負けてしまいました。「私たち女性はなんとたくましいのでしょう。そしてなんと従順なのでしょう。肉体的な苦痛は、機械のブーンという音によって私の子宮の中身を吸引するのが完了し、カクテルパーティーの後のゴミのように私の赤ん坊が吸い出されたことがわかる前にすでに終わっていました。」

その後も、彼女の迷いは続きました。世界の美しさにをじっくりと考えられるくつろぎの時間に、彼女は中絶した子どもの「訪問」という一般的な反応を経験しました。彼女の優しい「小さな幽霊」が彼女を尋ねてきて手を振るのです。そして彼女は涙ながらに、もしあなたが戻ってこられたら、忙しい生活をしていてもあなたの居場所を作ってあげられるのにと、亡くなった赤ん坊に約束をして手を振り返すのでした。

中絶後5年が経って、フランクは自分自身の中絶についての複雑な感情を再調査してみたくなり、「中絶の迷い」という題の本を書きました。そしてその本の中で、彼女はおよそ70人の女性や夫婦や両親や男性の中絶経験に対する反応を文字にしました。彼女が発見したことは、その本の題が示しているように、全ての人が迷っていて、しばしば罪悪感や後悔の念にかられていることを率直に認めていることでした。彼女がインタビューした人々の70パーセント以上が、中絶に対して何らかの否定的な感情を表明しました。たいていの人々が、中絶には「赤ん坊」が関連していると理解していました。人間の胎児が人間であることを否定した人々は、ぶっきらぼうに否定しましたが、それは自分たちの自信のなさを暗示していました。フランクのように中絶の決定の心構えができていた人はまたほとんどいませんでした。そのフランクは、少なくともその問題に直面していて、中絶を正当化する主義に賛成していた中絶権擁護の活動家であったという利点がありました。しかし中絶論争に参加した経験のある人はほとんどいませんでした。ほとんどの人が、中絶に対する道徳的な危倶を抱いているにもかかわらず、他に選択の余地がないと思って中絶をしていたのでした。

フランクのインタビューは、他の研究者が発見したことと一致しています。これらの発見によって、たいていの女性にとって中絶はとどのつまり限られた選択肢であることがわかります。中絶を受けた女性の30パーセントから60パーセントが、最初は妊娠を全うし赤ん坊を産みたいと思っているのです。11 これらの女性の多くは、中絶の瞬間でさえまだ赤ん坊を産みたいと思っていますが、他の人々や事情によってそうせざるを得ないと感じるので中絶をしているのです。実際、中絶後の問題を経験する女性の中で、80パーセント以上が、もし状況が良かったなら、あるいは愛する人の支えがあったら、最後まで妊娠を全うしたでしょうと言っています。そして60パーセント以上が、他の人々や事情によって中絶を「強要された」と感じたこと、そして約40パーセントが、中絶クリニックでのカウンセリングに行ったときに、まだ中絶に代わる何らかの選択肢を見つけたいと思っていたと報告しています。12 

このようなデータは、中絶を「選択する」というよりはむしろ、多くの女性、おそらくほとんどの女性が、中絶を「甘んじて受け」ていることを示しています。「選択」という聞こえのよい言葉が、望まない中絶、つまりもし彼女たちに母親としての力を与えるのに必要な愛情と支えが得られさえすれば、赤ん坊を産むことを望むであろう女性への中絶という国民的問題を実際あいまいにしているのかもしれません。

赤ん坊を望まない恋人や両親やその他の人々が、それが「みんなのために一番よいこと」だからといって、望まない中絶を受けるように、どのように圧力をかけたり、しつこくせまったり、脅したり、さらには暴力をふるって強要したかを述べている女性たちの証言をうまく否定することのできる人は誰もいません。ヘイスティングズセンターの所長である、中絶権擁護の倫理学者のダニエル・キャラハンでさえ、「それが自分たちの目的にかなうとき、男性が女性に望まない中絶を長い間強いてきたということは、よく知られていますが、めったに口にされることはありませんでした。アラン・グットマッカー研究所によって報告されたデータは、女性の約30パーセントは、女性自身ではなく誰かが望むから中絶を受けていることを示しています。」と書いています。13 

みんなが変わる

このデータは、私自身の1千例以上ものケーススタディとともに、中絶の決定はしばしば、ためらいながらの決定、あるいは他の人々を喜ばすためだけにされる決定であることを示しています。多くの女性達にとって、それは絶望の行為以外の何物でもありません。全ての人にとって、それは人々の人生を元に戻せないほど変え、自分の性の営みや自己像のまさに核心部分に触れる、極めて感情に関わる問題なのです。それは人生を左右する出来事です。結婚すると妻となり、子どもが生まれると母になるのと全く同じように、中絶をしたあとは、今までとはどこか違った「別の人」になるのです。

全ての人生を左右する出来事と同様に、振り返って、「もしジムと結婚してなかったら私の人生はどう違つているでしょう。私に双子が生まれていなかったら、私の人生はどんなに違っているでしょう。」と思うのは人間の性質です。だから中絶をした女性は、かならず「もしあの赤ん坊を産んでいたら、私の人生はどうなっているでしょう。」という問いに直面します。

多くの女性にとって中絶は、他の全てのことがらが関わってくる人生のキーポイントとなるのです。彼女たちの心のなかでは、全てのことが、「中絶以前」に起こったこととして、あるいは「中絶後」に起こったこととして、はっきりと位置付けられるのです。この決定的な出来事の前と後で、自分を全く違った人間であるとみなすことさえあるかも知れません。260人の女性の過去を振り返った研究において、平均して中絶後11年近くたって、51パーセントの人が、中絶した後「人格が劇的に変わった」と報告しています。そしてその中で79パーセントの人が、その変化はマイナスのものであったと言っています。14 

中絶は人生において非常に深い意味を持つ出来事なので、よく考えてそれを自分の人生に融合させるか、恐れてそれを抑圧するかいずれかをしなければなりません。どちらも易しいことではありません。前者は、不屈の精神と正直さが必要です。後者は単に不健康です。感情を抑圧することが、数々の精神的身体的病気の原因であることは、精神医学の基本的な原理です。抑圧した感情は、それ自身の内なるプレッシャーを作り出し、情緒的なエネルギーを吸い取り、もはや無視できない方法で吹き出すまで、人生に混乱を引き起こします。

このような観察結果は、長年中絶に賛成をしてきて、自ら2万例の中絶を行なってきた精神科医であり、産科医であるジュリアス・フォウゲル博士によって実証されています。中絶賛成の考え方から中絶と接してきましたが、フォウゲル博士は「母親の心に与える心理的影響」に深い関心を持っています。

「中絶は感情に大きな影響を与えるテーマです。年齢や経歴や性的能力がどうであれ、全ての女性が中絶をすることでトラウマを負います。その人の人間性に大きな影響を及ぼすのです。この部分は女性自身の人生の一部をなしています。中絶をすることは、自分自身を破壊していることになるのです。害を及ぼすことのない中絶はありえないのです。いのちの力を相手にしているのです。あなたがいのちがそこにあると考えるか考えないかは全く的はずれなことです。何かが造られつつあって、それが身体の中で起こっていることを否定することはできません。トラウマは、無意識の中に沈みこみ、女性の人生において全く表面化しないこともよくあるかもしれません。しかし、中絶は、それに賛成している多くの人々が主張しているほど、無害でお手軽なものではありません。精神的な代償を払わなければならないのです。それは疎外感であったり、人間の暖かさを払い除けることであったり、もしかすれば母性本能を硬化させることであったりするかもしれません。中絶をする時、女性の意識のより深い部分で何かが起きるのです。精神科医として私はそのことを知っています。15 

中絶問題の賛否両方の立場にいる他の研究者も、フォウゲルの懸念を同様に感じています。研究者は、中絶のストレスと関連のある100種類以上もの精神的影響について報告をしています。これらのもののなかには、性的機能不全、うつ状態、フラッシュバック、不眠、発作的な不安、摂食障害、埋伏した悲しみ、後に生まれた子どもとの絆を作りにくくなること、感情的爆発の傾向の増加、親密な関係を維持することにおける慢性的な問題、集中力の低下や今まで楽しく接することができた活動や人々に喜びを持てなくなることが含まれています。カナダの2つの州における、過去5年を振り返っての研究によって、中絶をした女性の25パーセント(それに対して中絶をしなかった女性は3パーセント)が中絶後に精神科の治療を受けていることがわかりました。16 

中絶をした女性には自己破壊的な行動が増加することが恐らく最も心配される事でしょう。中絶歴のある女性は、喫煙をしたり、飲酒をしたり、麻薬を使用したりする傾向が増加します。700人の女性を対象にした研究では、一度目の妊娠の後麻薬やアルコールを乱用するケースは、中絶をした女性のほうが最後まで妊娠を全うした女性より約4倍多いことがわかりました。17 中絶をした260人の女性を対象にした別の研究では、37パーセントの女性が、自分を自己破壊的だと表現し、28パーセントが1回以上自殺を試みたことを認めていることがわかりました。18 

否定することの必要性

抑圧と否定が中絶経験に対処する最も一般的な方法です。自分の中絶について実際に否定的な感情に直面した女性の60から70パーセントが、後悔や否定的な感情を尋ねられれば、他人や自分自身に否定したであろう時期があったことを認めています。平均して、この否定の期間は約5年間で、少ない人で1ヶ月、多い人で20年でした。19 

一般的に、否定と逃避行動はすぐにわかります。私たちのケーススタディの参加者で、自分たちの中絶後の適応が易しかったと主張している人は、ほとんど必ず、短い隠すような反応をしますが、それは同時に多くのことを明らかにしているのです。今日届いたばかりの次のような反応についてよく考えてみましょう。これは私が述べたパターンの典型的なものです。

なぜ中絶をしたのですか?:「私は異常妊娠で胃に結索があったからです。」

中絶についてどう思いますか?:「いやだったけれど、最善のことをしました。」

中絶の影響は何かありますか?:「他の人間のいのちを奪ったので、悲しい気持ちになりました。」

中絶経験にどのように対処し、それは効果がありましたか?:「特に何もしていません。それを克服しました。」

中絶によってあなたの人生がどう変わったと思いますか?:「自分をもっと大切にするようにしています。」

明らかにこの女性は、自分が中絶したのは「赤ん坊」で、「胎児」とか「妊娠」ではなかったと言っています。さらに彼女は、中絶をすることによって、「他人のいのちを奪った」と率直に述べています。このような発言によって、この女性が高度な合理化をしていないことがわかります。彼女にとって、それは「いのちとなる可能性のあるもの」でなく、赤ん坊であり、その死は悲しむべきものなのです。同じように単純かつストレートに、彼女は「それを克服すること」によって、この死に対処しています。彼女が実際にそれを克服していることが期待されますが、実際は本当の解決とその経験を自分の人生に組み入れることを妨げる逃避行動を取っているだけなのではないかと懸念されます。

しかしそうなると、否定と逃避行動は中絶にとって絶対必要なことになります。私のことばをそのまま取らないでください。中絶権賛成の女権拡張論者の心理学者である、マグダ・ディーンズ博士による「必要と悲しみにおいて」を見てみましょう。

自分自身の中絶の直後、フランクと同じようにディーンズは、他の人々がどのように中絶を経験しているかを観察するために、中絶クリニックで数ヶ月を過ごしてみたくなりました。フランクとは違って、ディーンズは熟練した精神科医であり、インタビューした人々の言葉の奥にあるものを見通すことができました。彼女は、勇ましい言葉は恐怖心を隠すために使われていること、冷静な言葉は疑念を隠すために使われていることがわかっています。たとえば、ある患者のインタビューを紹介するときに彼女は、「彼女が言っていることは全て正直でストレートであるように聞こえます。彼女が私というよりはむしろ自分自身に嘘を言うのは、彼女が中絶のことに触れるときだけです。」と書いています。20 

しかし、このような自己欺瞞を見抜くことは、ディーンズが彼女たちを批判しているということを意味しているのではありません。それどころか、否定することは最悪の状態から自分を守るために必要なものだと彼女は弁護をしているのです。「そうです。これらの人々は、嘘を言い、自分をだまし、嘘の証言をし、偽りの告白をし、責任逃れをし、ただ忠実なふりをし、過去を無視し、否定しています。私たちの誰がこのような行動と違った行動をとるでしょうか、特に危機的な状況においては。特に元に戻すことにできない選択をしてしまった時には。」と彼女は書いています。21 

保身とは一種のゲームの名前で、ディーンズは中絶クリニックの正気は、そのゲームのルールを厳格に守ることによってのみ維持することが可能だということを明確に理解しています。患者もスタッフも、この自己欺瞞という陰謀に協力して加担しているのです。スタッフと患者両方とのインタビューを説明して、彼女は、「特にこの本は多面的で、巧妙な、恥ずべき逃げ口上に関する証拠書類であり、その逃げ口上によって私たち全員の生死が決まるものです。」と書いています。22 

中絶クリニックでは、「事実は礼儀の問題であり、波風を立てないという協約の問題なのです。」と彼女は付け加えています。23 

ディーンズは個人的には、中絶権賛成の考え方を持っていますが、フランクの本と同じように彼女の本も、中絶権賛成運動に受け入れられることは決してありませんでした。それはあまりにも暗く、疑問を抱かせ、混乱させるものだったからです。実際、それぞれの本の筆者の考え方は正反対ですが、ディーンズの本もフランクの本も、中絶は良くても醜い経験、最悪の場合は苦しい悪夢であることを示しています。どちらもその内容の中に、彼女たちが真剣に望んでいる「救われた人生」についての中絶権賛成の考え方を支持する内容を見つけることはできません。それができないのは、中絶が女性に与える影響を詳細に一人一人研究すれば、その内容が決して励みとなるようなものにはならないからです。現われてくるのは、いつも喜びより悲しみのほうが、安堵より罪悪感のほうがはるかに多いのです。

「選択」の哲学は、その現実の姿を剥がしたときだけ、理想として崇拝され、抽象的な姿で信じられる時だけ、称賛することができます。絶望や恐怖や罪悪感や否定の気持ちでいっぱいの女性の観点から検証すれば、この中絶権賛成の考え方は、冷たく不安にさせるものです。乳癌、流産、子宮外妊娠、薬物の乱用、自殺傾向、性的能力不全、埋伏した悲しみや母の日の憂うつの観点から検証すれば、それは偽物なのです。

要するに、そこにいた経験のある人として語りながら、ディーンズは、純粋に女性に選択の権利が与えられるべきだという理由で、いつでも受けられる中絶に賛成しているのです。しかし彼女はその選択に不安を抱いています。なぜなら最も理想的な状況下でさえ、たとえいつでも受けられる中絶が、「国家によって無料で、そして教会の慈悲の支持を受けて提供されても」、彼女はそのような純粋な自由は、恐怖心や罪悪感や中絶に固有の他の問題を増加させるだけだと信じているからです。「なぜなら、もし私たちが中絶を法律に挑戦することの領域から取りのぞけば_、」と彼女は書いています。

「_もし私たちが中絶を当然そうであるべき自由の行為であることを許せば、個人的にも全体的にもその意味は、必然的にあらゆる人の意識のなかに現われてくるでしょう_私は自分を殉教者とみなし世間と戦う方が、人とは違った境遇の悲しみを自分だけで味わい、自ら選んだ運命に対する心の痛みを知ることよりもずっとずっと楽な仕事だと思うのです。従って私は、あるがままに受け入れられることを望みます。罪悪感を抱いている中絶賛成者として。」24

忘れる人は誰もいない

ディーンズだけが特別な人なのではありません。「いのちが受精の瞬間に始まることを誰もが知っている」ので、何らかのレベルで中絶に関わった経験のある人は誰も罪悪感を、あるいは少しは罪悪感を感じているのです。このことは、父親、両親、兄弟、友人、カウンセラー、医者など関係者全てに当てはまるのです。しかしそのことは、特に母親に当てはまります、なぜなら母親の身体は汚されてしまったからです。彼女の身体は、彼女の子宮が本来守ることになっている子どもを実際に殺す場として他人に利用されたのです。

他の多くの人々と同じように、ディーンズは、中絶を正当化できても「一種の殺人」だと認めないわけにはいかないのです。それは、その犠牲者が「生きた人間」なのですから。自分の中絶についてよく考えてみることのできる女性にとって、それ以外の結論はありえないのです。

それでも、強い信念や強い対応能力や言葉の機敏さを持った女性は、この中絶されたいのちとある程度の距離を置くことができます。彼女たちは、それは成就される時がまだ来ていない「潜在的な」いのちにすぎなかったと考えます。彼女たちは、そのことについて考える言葉を受け入れやすいものに変えることで影響を和らげることができます。しかし大部分の女性にとっては、知恵や対応能力や言葉の機敏さがないので、この中絶されたいのちは率直に自分の「赤ん坊」、_もし事情が違っていたら、だっこしてかわいがったはずの人間なのです。

この後者の女性たちにとっては、彼女たちの中絶は「必要悪」だったのでした。彼女たちの多くは、罪悪感や、自己非難や自分も子どもも裏切ってしまったという感覚を即座に持ちます。他の女性たちは、否定したり、抑圧したり、未来に集中したりすることで、自分たちの感情を閉じこめようとします。しかし自分が中絶したのが「自分の赤ん坊」だとわかっている女性にとっては、過去は必ずその代償を要求します。嘆き悲しむ必要性が、執拗に追いかけてきて追いつくでしょう。そしてこの必要性は社会に思いやりを持って認められ、愛する人たちによって共有されなければなりません。

中絶の間に失われたいのちを人間だとみなさない考え方をあくまで捨てない「強い」女性の未来も確かなものではありません。もし彼女がこのような信念を中絶前に自分の人生に組み込んでいれば、自分が信じていたものと自分の行動が一致します。このような場合、中絶経験によって彼女が変わることもなく、影響を受けることもなかったことはその通りであるかもしれません。

しかし、もし女性の中絶前の信念と巧妙な中絶後の考え方との間に一致がなければ、彼女の心が安らぐ見込みはあまりありません。このような場合、彼女のより「成熟した」そして「熟練した」考え方は、中絶が人間のいのちを奪うものだということをかつて知っていたということを隠しても隠しきれない、うわべだけの合理化以上の何物でもなくなりそうです。この女性の現代性はうわべだけのものですから、この女性は、中絶よりずっと前に、この現代性が深くまで浸透し人格の一部となりきっている女性が持っている自信や防衛機能を欠いていることになります。この女性は、うわべだけの現代性しか持っていないので、はげしく興奮して中絶の自由を護っているその怒りのエネルギーのためにすぐに見分けがつきます。彼女は自分の信念体系に冷静な自信が持てず、他人の相反する信念を尊重することもできません。それどころか、彼女は自分の新しい倫理観に対する全ての挑戦を個人的な侮辱だとみなしますが、それはまさしくこれらの挑戦が、彼女のうわべだけの新しい倫理観を通り抜けて鳴り響き、今も彼女の心の所有権を主張する古い倫理観の眠りの邪魔をするからなのです。

このような女性は、このうわべの人間とその下の人間とが同じものとならなければ、本当のやすらぎを知ることはないでしょう。そしてこのやすらぎは、本物の人間が古い倫理観に従って、自由に嘆き悲しみ後悔することができなければ、みつけることはできないと思います。なぜなら中絶の時に彼女の良心にあったのはこの古い倫理観だったからなのです。彼女がまだ応答をしなければならないのは、この古い倫理観に対してなのです。そうするまで、彼女の「新しい倫理観」は、過去の行為を正当化するために採り入れられた全ての倫理観と同じように、合理化に汚染されたままなのです。彼女の新しい自我は、一致しない自我、つまり過去との和解ができていない自我の上に築かれているので、不安定なのです。このような女性は、精神的な時限爆弾です。彼女はうわべの下に未解決の圧力を内含しています。もしこのうわべが粉々になれば、発生する感情的な爆発が、彼女の人生にも愛する人々の人生にも修復不可能な被害をもたらすかもしれません。

旅が始まる

実際、クリニックの待合室を見回してみると、希望ではなく絶望に駆り立てられた人生が見えてきます。私には女性たちが、心の中で泣いてさよならを言っているのが見えるのです。そして私は、永遠に自分たちの過去となる今を見る勇気がないので、食いしばった歯と動かない目が、断固として未来に向けられている女性たちが見えます。

彼女たちの多くの顔を覗き込むと、いつ人間が「人」となるかに関する哲学的議論が、霧散して希薄なエレベーターミュージック以上の何物でもなくなってしまいます。これらの待合室にいる女性たちが、それに耳を傾けようと無視しようと、それは彼女たちの生き方に実際的な影響は何もないのです。なぜなら、言い訳や特別な言葉の文句の下にある、かつて「赤ちゃんはどこからやってくるの?」と尋ねた幼い少女のレベルで、ここにいる全ての女性たちは、いのちが受精の瞬間に始まることを知っているからなのです。それは人間のいのちなのです。それは家族のいのちなのです。それは彼女の一部であり、またもう一人の人の一部なのです。それは二人の子どもなのです。残された唯一の問題は、どのくらいうまく彼女がこの真実と共に生きていけるだろうかということ、_あるいはどのくらい長く彼女はこの真実から逃げおおせることができるだろうかということです。


References:

1  Mary K. Zimmerman, Passage Through Abortion (New York: Praeger Publishers, 1977), 69. David C. Reardon, Aborted Women, Silent No More (Chicago: Loyola University Press, 1987), 13. [Back]

2  “A New Ethic for Medicine and Society,” California Medicine, Sept. 1970, 113(3):67-68. [Back]

3  Zimmerman, Passage Through Abortion, 194-195. [Back]

4  Magda Denes, In Necessity and Sorrow, (New York: Basic Books, 1976), 94. [Back]

5  Linda Bird Francke, The Ambivalence of Abortion (New York: Random House, 1978), 61. [Back]

6  New York Times, March 23, 1994 cited in “The Public Square,” First Things, June/July 1994, p.79. [Back]

7  Francke, Ambivalence, 201. [Back]

8  Denes, In Necessity and Sorrow, 97-98. [Back]

9  Francke, Ambivalence, 63. [Back]

10  Jane Doe [pseud. Linda Bird Francke], “There Just Wasn’t Room in Our Lives Now for Another Baby,” New York Times, May 14, 1976, Op-Ed Section. [Back]

11  Zimmerman, Passages, 110-111. Reardon, Aborted Women, 12. [Back]

12  Reardon, Aborted Women, 14-15. [Back]

13  Daniel Callahan, “An Ethical Challenge to Pro-choice Advocates,” Commonweal, Nov. 23, 1990, 681-687, 684. [Back]

14  Reardon, “Psychological Reactions Reported After Abortion” The Post-Abortion Review, Fall 1994, 2(3):4-8. [Back]

15  From an interview with columnist Colman McCarthy, “A Psychological View of Abortion,” St. Paul Sunday Pioneer Press, March 7, 1971. Dr. Fogel, who continued to do abortions for the next two decades, reiterated the same view in a subsequent interview with McCarthy, “The Real Anguish of Abortions” The Washington Post, Feb. 5, 1989. [Back]

16  R. F. Badgley, et al., Report of the Committee on the Abortion Law, Supply and Services, Ottawa, Canada, 1977:313-319. [Back]

17  “New Study Confirms Link Between Abortion and Substance Abuse,” The Post-Abortion Review, Fall 1993, 1(3):1-2. [Back]

18  Reardon, “Psychological Reactions Reported After Abortion” The Post-Abortion Review, Fall 1994, 2(3):4-8. [Back]

19  Ibid. [Back]

20  Denes, In Necessity, 101. [Back]

21  Ibid., 122. [Back]

22  Ibid., xvii. [Back]

23  Ibid., 6. [Back]

24  Ibid., xv-xvi. [Back]

デイビッド・C・リアドン医学博士 
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

Copyright © 2001. (Lifeissues.net) Kochi, Japan. All Rights Reserved