「一人ひとりのいのちは、かけがえのないもの」。あるとき、このことを深くわかったことがありました。
生命尊重のための講演会などをボランティアで手伝ったこともあり、私はある日、「受精の瞬間から人のいのちが始まる」というカトリック教会の教えについて考えていました。私自身はカトリック信者として教会の教えを受け入れ、頭ではわかっているつもりでしたが、カトリックでない一般の人、例えば望まない妊娠をしてしまった女性を前にしたとき、いったい私に何が言えるだろうと思いました。誰も存在を知らない一つの細胞、まだ人の姿もしていない。それが人だということを、私自身、心から納得していたわけではありませんでした。辛い状況にある女性に、「人のいのちなのだから中絶してはいけない」とただ教条的に言うことしか私にはできません。それが正しいことなのでしょうか?
そのとき、「そうだ、教会の教えが真理なら、神様、どうか答えを下さい」と思いついて祈りました。
その翌日だったか数日後だったか、間もないころでしたが、私は仕事の帰り、バスの中で、数年前に亡くなった妹のことを思い出していました。一つ違いの妹とは毎日のようによくけんかをし、いつも一緒でした。一歳しか違わなくても、いろいろな経験をするのは私が先でした。学校に行き始めるのも、自転車に乗るのも……。その妹が死を前にし、そして亡くなったことは家族にとって悲しい出来事でした。それで、よく妹のことを思い出していたのですが、その日、ある考えがふと浮かびました。もし、タイムスリップして妹のいのちが始まった瞬間に戻ったとしたら、そして何者かが、その妹のいのちをなきものにしようとしていたら、私は自分のいのちをかけてでも妹を守ろうとするだろう、と思ったのです。「これは私の妹です! 私たちにとってかけがえのない一人の人です!」と叫ぶと思いました。
受精の瞬間から始まるいのちがどのような人になるのか、どのような人生をたどるのか前もってわかりませんが、その人の人生を振り返って見れば、始まった瞬間からいのちは途切れなく続き、人として成長してさまざまな出会いや体験のある一生を歩むことがわかります。私にとって、私の家族にとって、妹のいのち、生涯はかけがえのないものです。全宇宙の無限の空間、永遠という無限の時間をものすごいスピードでくまなく探して回るのを想像しました。たとえそれができたとしても、妹の生涯の一瞬でさえ、どこにも見つからないのです。代わるものはなく、繰り返されることのない、かけがえのないいのちなのです。私にとって、それほど真実な実感はありませんでした。
そして、神がどれほどのいつくしみ、愛をもっていのちを与えられるかを考えました。私たちが喜ばなかったり、拒絶したりすることもありうるのに、私たちの人生が必ずしもよいことばかりではなく、呪いたくなるような経験をすることもありうるのに、すべてを知っておられるはずの神は、私たちに全幅の信頼を置いて「在れ」と言われるのです。神は「無」ではなく「いのち」です。神は愛だから。私たちの人生の一瞬一瞬を、どれほどの限りないいつくしみをもって見つめておられるかを、感じました。
「人としていちばんひどいことは、愛を裏切ること」とシャンソンで歌うのを聞いたことがあります。「人間はもっとひどいこともできるのではないか」とそれを聞いたときは思いましたが、今は思います。私たちがこの世のいのちを終えて自分の人生を振り返るとき、いちばん苦しむのは、「愛を裏切ったこと」ではないかと。もちろん神はゆるしてくださいますが、いのちを与えてくださる神の無条件の愛をもし拒絶したとしたら、私たちは最も激しい痛みを味わい、多くの涙を流して後悔するのではないかと思うのです。
今、私は、すべての人のいのちへの神様の「Yes」を確信し、それを生きたいと願っています。
*受精の瞬間からその生物の個体としての生命が始まることは、遺伝学・生物学上の定説となっています。
Sakura Izumi(サクラ イズミ)
佐倉 泉
Copyright ©2021.3.24.許可を得て複製