私はボルティモアの大司教で、米カトリック大司教協議会・中絶反対運動委員会メンバーのカーディナル・ウィリアム・キーラーと申します。今日はこの協議会の代表として、「人間クローニングの道徳への挑戦」について話したいと思い ます。
人のいのちの神聖さと尊厳は、カトリックの道徳的見解と社会教育のかなめ石です。社会は、人間のいのち、特に弱い立場や状況の人間のいのちをいかに尊重するか、で審判されるべきだと私達は思ってます。
この根拠にのっとり、中絶や安楽死、又は人間の胎児を使った殺人的な実験で人のいのちを奪う事に、カトリック教会は断固反対しています。
一見「人間クローニング」は、この中に含まれないように見えるかもしれません。クローニングはいのちを作り出す方法とされていて、奪う方法ではないからです。しかしいのちを作り出す行為そのものが、人間のいのちを軽視しているのです。クローニングは、男性と女性の愛の結合から完全に遠ざかった所で、通常の意味での「親」を持たない子どもを作り出します。そのいのちは愛の行為から生まれるのではなく、あらかじめ決まっている設計書に基づいて製造されるのです。ここで発育する人間は「モノ」として扱われ、人間のアイデンティティーや権利を持った個人としては認められません。科学者や専門家で教皇庁に助言する担当のグループが言うところでは、
クローンを作り出す過程において、素性、血族関係、親戚関係、親子関係などの基本的な人間関係はねじ曲げられてしまう。作り出された女性は、その母親の双子姉妹でもあり得るし、生物学上の父親を持たず、祖母の娘でもあり得るのである。試験管内受精でも親子関係は混乱を巻き起こしているが、クローニングはこの関係を更に過激に破壊することになる。1
このような道徳的懸念は教派間の壁を飛び越えており、我が国で最も尊敬されている哲学者や道徳家達の一部からも懸念の声が雄弁に表されています。シカゴ大学のレオン・カス教授がこう書いています。
クローン人間を作ることは…生殖を製造に、出産を生産(文字通り「手作り」の作品)に変えてしまう大きな変化を意味する…我々はここで人間を、その人間自体の手作りの産物としてしまう大きな一歩を踏み出そうとしているのである。2
この技術の非人間的性質からは、多くの困った結果が生じています。クローン人間を作り出す方法が、もっと原始的な生命を対象としたやり方だからです。その方法には愛情関係が含まれておらず、新しいいのちへの個人的関わり合いも責任もなく、ただ実験室の技術によるものなので、クローン人間は「二流の」人間として扱われる特別な危険を持つのです。
クローン人間を正当化しようとする時によく使われる筋書きそのものが、人間のクローン作成における道徳的問題点を表しています。その筋書きではクローン人間の実現によって、高名な人の複製が作れる、死んでしまった愛する人の代わりが作れる、更にはクローンを作るのに使った遺伝子物質の元の持ち主の臓器や組織のスペアの供給源を確保できると言われています。これらすべての提案には、人間のいのちを功利的にとらえる考えが見られます。クローン人間は尊厳を生まれ持った人間としてではなく、他人の目的の手段として扱われているのです。奴隷制度の根底にも、これと同じ姿勢が見られます。
ここでハッキリ言いましょう。実際には、クローン人間がどういう意味においても「モノ」だったり標準以下の人間だったりすることはないのです。その人達がどういう状況で誕生したとしても、彼等にはそれぞれのアイデンティティーを持った人間として扱われる権利があるのです。しかし、クローニングという製造におけるこの非人間的技術は、この尊厳を軽視し、更なる開発のお膳立てを企てているのです。クローン人間を作ることが許されないのは、クローン人間が人としての尊厳を欠いているからではありません。むしろ彼等が人間としての尊厳を持っており、その尊厳を尊重されながらこの世に生まれてくる権利を持つからなのです。子どもは誰でも、夫と妻の愛の結合の結果として妊娠され生まれてくる権利を持っており、新たな確固とした個人として愛され受け入れられる権利を持っているのです。
皮肉なことに、クローニングの非人間性を表す最も驚くべき証拠は、表向きは人間クローンを防止しているかに見える提案の中にあります。アメリカ生命倫理顧問委員会(NBAC)や国会議員の一部の人達は、クローン人間の製造を禁止する法律に賛成するのではなく、「作られたクローン人間を生き残らせる試みはいかなるものでも禁止する」という法律に賛成しているのです。これらの提案では、実験の目的で人間の胎児を制限なく大量生産するクローニングを許可しています。しかし実験が済めば、それらのクローン胎児を女性の胎内に着床するのではなく、殺すことが求められているのです。3
この提案が法律として制定されると、アメリカ政府は歴史上初めて、殺しても罪にならない人間もある、と人間に等級を規定する事になります。これらの胎児は、本来の親を持つ事なく作られ、つまり守ってくれる人を持たず、最初からただ実験の為、そしてその後に殺される為だけに作られるというわけです。
人間の胎児を使った研究についてはこれまでも議論されてきました。国立衛生研究所(NIH)が3年前に、試験管受精させた人間の胎児(研究目的だけの為に作られた胎児を含めて)を使った非治療目的実験を、国から援助を受けている研究者達に許可するように、と申し出た事があります。この提案に対する道徳にのっとった抗議は、全国で起こりました。世論調査でも大規模な反対が示され、その提案を出したNIH委員会には5万通もの抗議の手紙が殺到しました。ワシントンポスト紙は、中絶の合法化に賛成する立場をとる一方で、委員会の提案に反対する意見を社説に書きました。
人間の胎児を、そのいのちを奪ってしまう研究の為だけに作り出すのは不条理である…生殖のほんの少しの可能性からも全くかけ離れてた所で意図的に受精を起こさせるという科学者達の意向に深い警戒心を持つ事は、中絶する権利に反対したり、「人のいのちは文字通り受精の瞬間から始まる」と考えるのとは別のことである。4
結局クリントン大統領はこの「研究用胎児」の製造を求める提案を退け、議会ではそれから今までの3年間に渡り、胎児に害を与える研究、特に「研究用胎児」を作り出す事に対する財政的援助を禁止する事を可決してきました。
では何故このような道徳的判断が、人間の胎児が試験管でなくクローニングで作られるとなると突然ひっくり返ってしまうのでしょうか?何故議会はここへきて、「人間の胎児を、そのいのちを奪ってしまう研究の為だけにクローニングで作り出すのは国益である」という主張に熱心に賛成しようとしているのでしょうか?クローンを作るプロセスがあまりに品位の落ちたものなので、このような技術によって作られた人間は、研究対象として短い人生を送り、その後に殺されてしまっても「十分」と何故か人々は思うようです。クローンを作るプロセスがこのような道徳的にいいかげんな政策を生み出すという事実だけでも、クローンに反対する理由になるでしょう。
NBACの提案は、クローニングが生殖目的であるとしても、道理にかないません。何故なら、生きて生まれてくるクローンの赤ちゃんを作り出すまでには、クローン胎児のいのちを犠牲にした多大な実験が必要だからです。一匹の羊「ドリー」が作り出されるために、276もの羊の胚や胎児や赤ちゃんが死ななければならなかった事は周知の事実です。人間のクローンを作るに当たっても、初めの試みにおいて同じ事が起こるのは分かっている事です。つまり、それでもそれを試みようというのは道徳的に無責任なのです。ところがNBACの提案に基づいた法律の実現は、連邦政府がその様な実験に賛同したことになってしまいます。クローンに失敗して何百何千もの人間の胎児を放棄する研究者達は、「このように傲慢に人のいのちを廃棄するのは、国の法律で決められているからです」と訴えることが出来るようになるのです。
人々は聞くでしょう。「これは、人のいのちは言うまでなく本当に人間の胎児の話なのか?そういう言葉を使って、議論に宗教的考えを吹き込もうとしているのではないか?」と。その答えは、断固として「ノー」です。胎児のいのちを犠牲にする実験に国の資金援助を勧めたNIH人間胎児研究委員会ですら、早期の人間胎児を「人間のいのちの成長過程」としているし、それは「真剣な道徳的考慮が必要である」としています。5もし、初期の成長段階にある人間を人間の仲間として認めない、という人がいたら、その人こそ事実にイデオロギーのフィルターをかけている事になるのです。6「クローンの人間の胎児を養育したり赤ちゃんとして誕生させないよう禁止するのだから、人間クローンの製造を禁止していることになる」と主張するのは、言葉や常識の歪曲です。
教会としては、「クローン技術は重要な医療研究の追求に必要」という主張も放っておけません。「人間にとって医学は卓越した欠くことの出来ないものである」7とは、私達も考えます。動物や植物のクローニング、更には人の遺伝子や細胞や組織のクローニングに関する研究は人類にとって有益であるし、本質的な道徳問題はありません。しかし、その研究が対象を人間に向けるとなると、人間の為になるようにと模索するその過程そのものが人間の尊厳の害にならないよう、私達は気を付けなければなりません。道徳の考慮のない人間実験は、技術のレベルとしてはより急速に進歩するでしょう。しかしそれでは私達の人道的感覚は失なわれてしまうのです。インディアンのタスキーギ族の梅毒研究やドイツナチスによる低体温症実験、また私達の政府による冷戦時の放射能実験などは、現代医学においては歴史に名を残しますが、肯定的な記憶にはなりません。技術レベルでの「進歩」はもたらされたかもしれませんが、その「進歩」は人間を虐待した事でより大きな陰を背負っているのです。
最近、様々な病気の研究に人間クローンが大変革を起こすのではないか、と考えられてきています。しかしその研究全分野に渡って、クローン人間を作っては殺すというクローン技術を使わないで済む代案が可能のようです。例えば、それぞれの患者に遺伝子学的にぴったり合った「特別注文の幹細胞」を作る為に体細胞の核転移がしたいという研究者もいるでしょう。それには患者と全く同じ胎児を作りだし、成長させ、殺す必要があります。しかしアメリカ生命倫理顧問委員会でさえ、この研究のやり方は「費用がかかり、強引な計画」とし、倫理的な査定も必要であると注意しています。
「研究目的の胎児の使用について倫理的・道徳的懸念が持ち上がったので、患者に移植する分化した細胞や組織を、成人から採った人間細胞を直接使用して作り出す方法を探し出した方がはるかに望ましい。」8
もちろん、倫理に則った科学の必要性を理解する人なら、この判断に賛成でしょう。人間クローニングを禁止する大きな利点は、仲間である人間を作り出し利用してから殺す、という事なしに人類の為になる研究をするよう、科学事業を向けさせる事です。ただ必要な部分だけを取り出してから殺してしまうだけの為に人間を作り出すのは、最も非良心的なクローニングの使い方であり、何の正当性もないのです。
References:
1 Reflections from the Pontifical Academy for Life, “Human Cloning Is Immoral” (July 9, 1997), in The Pope Speaks, vol. 43, no. 1 (January⁄February 1998), p. 29. Also see: Congregation for the Doctrine of the Faith, Donum Vitae (Instruction on Respect for Human Life in its Origin and on the Dignity of Procreation) (March 10, 1987), I.6 and II.B.[Back]
2 Leon R. Kass, “The Wisdom of Repugnance,” in The New Republic, June 2, 1997, p. 23. [Back]
3 Examples include S. 1602 and S. 1611 now pending in the Senate. [Back]
4 Editorial, “Embryos: Drawing the Line,” The Washington Post, October 2, 1994, C6.[Back]
5 Final Report of the Human Embryo Research Panel (National Institutes of Health: September 27, 1994), p. 2. Tragically, the Panel gave no real weight to this insight in its final policy recommendations. [Back]
6 While some fertility specialists have used the term “pre–embryo”to describe the first 14 days of human development, a scientific expert who strongly supports embryo research recently wrote that this term was embraced “for reasons that are political, not scientific.” The term “pre–embryo,” he writes, “is useful in the political arena — where decisions are made about whether to allow early embryo (now called pre–embryo) experimentation…” Biologically, in the human species and others, an embryo exists from the one–celled stage onwards. See Lee Silver, Remaking Eden: Cloning and Beyond in a Brave New World (Avon Books 1997), p. 39.[Back]
7 Pope John Paul II, Address to the World Medical Association (Oct. 29, 1983); printed as “The Ethics of Genetic Manipulation,” Origins, Vol. 13, no. 23 (Nov. 17, 1983), p. 385. [Back]
8 Cloning Human Beings: Report and Recommendations of the National Bioethics Advisory Commission (Rockville, MD: June 1997), pp. 30–31. The Commission here outlined three alternative avenues of stem cell research, two of which seem not to involve creating human embryos at all. [Back]
Cardinal William Keeler
カーディナル・ウィリアム・キーラー
www.lifeissues.net
on behalf of the Committee for Pro-Life Activities
National Conference of Catholic Bishops
Copyright ©2001
2007.2.27.許可を得て複製