1996年3月、父親ののいない「ドーリー」という愛らしい名前の子羊が生まれた、というニュースが世界の人々を驚かせた。1長いこと冗談とかサイエンス・フィクションでは話題になっていたことだが、人間のクローンも可能になったことで、恐怖に駆られる人々も出てきた。この新技術が人類を未知の暗い深淵に突き落とす前に、倫理的、社会学的、法律的含みに関する責任に取り組もうとして、解説、会議、政治論争が続いたものである。
しかし不思議なことに、クローニング論争の底にある三つの中心的論点についてはだれも触れようとしなかった。第一は、クローニングの直接産物の正確な科学的性質という科学的質問。第二は、それに関連する「人格」という哲学的質問とクローニング研究を規制するために必要な道徳的根拠。第三は、クローニング禁止の可能性に関する法律的質問である。
科学的質問に答えるのは、そのために必要とされる経験と能力のあるヒト胎生学者である。クローニング過程のどの段階で、人間もしくはヒト胎芽が自然科学的に存在し始めるのだろうか?つまるところ、この科学的質問への回答がほかのすべての質問の出発点であるべきである。
しかし、あの論争で明らかになったこの科学的質問に対する回答が示したのは、ヒト胎生学者による裁決を巧みな言語操作によって回避してしまう、というどうしようもない傾向であった。2たとえば、最近の国会であった聴聞会で、カリフォルニア州選出・民主党のヘンリー・ワックスマン議員は、多数の自称生命倫理学者と製薬企業に籍を置く人たちの立場を代弁して、問題を「明確化する」発言をしたものだ。つまり、結論を言えば、クローニングの直接産物は、二つの顕著な「可能性のある」細胞の集合体でしかないと「説明した」ものだ。その一つは「人間になる可能性のあるもの」であり、それが子宮内で着床すれば実際の人間(そして胎芽)になる、と説明した。第二は、それが「生物学の研究材料の潜在的供給源」である、と言っている。であれば、それが着床しない限り、病気の治療とか科学知識の進歩の材料として消費しても、倫理的問題がないことになる。
読者はこんなことを信じることができるだろうか?人間クローニングの直接産物はすでに存在し始めているれっきとした間ではない、と言うのだろうか?人間が人間であり始めるまではどこにいたと言うのであろうか?このような「定義」はヒト胎生学の用語を歪曲する非常にずるい定義であり、ここ三十年間乱用されてきた生命倫理学の「言葉遊び」の薄気味悪い反響である。このようなゲームは生命倫理学者、哲学者、神学者、こんなことが好きなサイエンス・フィクション作家にとっては楽しいかもしれない。でも、健全な公的政策決定過程の基盤にしてはならない。
人間と胎芽に適用される「可能性がある」というこの狡猾な用語、それが暗に意味する(もしそれがまだ人間とか胎芽でなければ、それを医療とかその他偉大な目的のために使用できる、といったような)「論理」は、今やまったく信用を失っている「胎芽以前の何か」という用語に起源がある。しかし、そんなものは科学的神話に過ぎない。それを発明したのは生命倫理学者たちである。彼らはここ何年もの間、いろいろな病気の治療に必要な「唯一の」方法と称してヒト胎芽と胎児研究を正当化、合理化しようとしてきた。「胎芽以前の何か」は中絶促進剤や中絶に関する論議でも使用されて、「人格」がいつから始まるかについて同様の混乱を生じさせ―また、従って、すべての人に当然与えられるはずの人間の権利と保護を「遅らせて」いる。もし、現実にこのような「遅延」がなければ、すべて人間を対象にする政府による保護は早くから実現していたはずである。3
しかし、不明瞭と判読不可能な技術用語によって、科学本来の明晰さは諸々の哲学体系と混同されることになり、クローニングとか、もっと広い分野で、ヒト胎芽研究に関しても必要とされていた正しい政策決定を不可能にしてしまった。
クローニングにまつわるもっとも大事な問題は、その直接産物である。クローニングと受精は人間生殖に関する異なった過程ではあっても、両方の過程から生じる直接産物はまったく同じである。4多くの人は驚くかもしれないが、本物の、すでに存在して、生きている、欠けるところのない人間が、ヒト胎芽(もしくは受精卵)として受精直後に始まるということは、半世紀にわたって科学者間の揺るぎない同意を得ていたのである。これこそ「意見」とか宗教的もしくは神学的信念などではなく、科学的事実なのである。だから、政策論争とか政策決定などに当たっては、科学上のこの不可避的事実に対して目をふさぎ続けていてはならない。クローニングに関しても同じことが言える。クローニングの直接産物は科学的に同じ、つまり、形は胎芽であってもすでに存在し始めている人間なのである。
しかし「クローニング」とは何なのであろう?クローニングとはある種の単細胞の新しいメスを生み出すいくつかの技術の中の一つである。たとえば、「体細胞核移植」技術においては、5 成熟している(たとえば皮膚細胞のような)特化した細胞核が、核中にある染色体の全量の指令能力を復旧させる新技術によって、「非特殊化」させられる。細胞間の遺伝子情報が、選択的に「沈黙させている」6皮膚機能に関連していない細胞の中にある染色体のほとんどは逆転させられる。
「特化されていない」核は、その後(種の同じ個体か別の個体の)受け入れ側の卵子に移植される。その結果生じる二つの細胞の部分が組み合わさってできる一個の複合体が、その後、人工的、科学的、もしくは電気的な刺激を与えられ、その種の新しい一員として活動し始める。7
もしヒト細胞でのクローニングが成功すれば、その元になる細胞は核の中にヒト細胞固有の数である46個の染色体があり、その結果、胎芽と呼ばれる小さな人間が分裂を繰り返し、発達することになる。
この科学的事実をさらによく理解するために、クローニングの過程と正常な人間生殖過程を比較するといいだろう。8人間の場合、正常な妊娠は、それぞれ23個の染色体を含むがまだ人間ではない男性精子と女性卵子が結合して、人類特有な数である46個の染色体がある単細胞の人間(受精卵)を形成する瞬間に開始する。クローニングの場合と同様に、その性質上根本的変化が生じている。精子と卵子はもはや個々の配偶子でなく、何かまったく別の存在、すべてを含み、存在し、唯一無二の存在になっている。性質上のこの変化は、完全な人間に特有な、極端に異なる種々の機能とか活動によって科学的によって確認される。
この「受精卵的」人間もしくは胎児を詳しく観察すると、それが男の子であるか女の子であるか、また、彼もしくは彼女が遺伝学的に両親と異なっていることが分かる。この女の子もしくは男の子は(今後、便宜のために女の子にする)驚異に値する。彼女は全能である。つまり、この単細胞はもっと大きく、複雑な人間が必要とする種々の細胞のすべてを生み出す能力がある。彼女には、その成長と発達過程が必要とする遺伝情報が残らず備わっている。このちっぽけな単細胞ヒト受精卵は、直ちに人間特有の蛋白質である酵素を産出し始め、すぐ(キャベツとかキリンでなく)人間特有の組織と器官を作り始める。これは、DNA中にある遺伝情報を継続的に通過させたり、止めたりすることによって、いわば遺伝子スイッチのオンとオフ、つまり、その成長と発達全過程を通じて分子情報を「階段状に継続した滝」のように流すことによってなされるのである。だから彼女の発達は、受精とかクローニングのように、性質の変化とは関わりがなく、単に死の瞬間まで連続することになる肉体的に継続的成長と複雑化の過程であるに過ぎない。9
ではこの小さな女の子が育つ様子を見守ろう。一般的に、胎芽期は受精(もしくはクローニング)によって形成される単細胞の受精卵が8週末になるまでを指す。次の胎児期は9週から誕生までを指し、この期間に彼女は胎児と呼ばれる。
受精の後、単細胞のヒト受精卵は卵管を下りながらも非同時的に分裂し始める。たとえば、まず二つに、次に、その中の一方が分裂し、3細胞になる。引き続いてもう一つの細胞が分裂して4細胞になる、という具合に不規則に分裂を繰り返す。4日目頃に、成長を続けて子宮内に達しようとする胎芽は二層なり始め、胚盤胞と呼ばれる。5日目までに外側にある防護用皮膜が分解するのは、彼女が5~7日目に子宮内膜に着床できるためである。14日目頃に、胎芽は三層になり始め、極初期の神経網、将来の脳、脊髄である原条が形成される。3週間も経つと心臓は鼓動を始め、脳の主要区分とか初期の脊髄、中耳、両眼、顔、体腔、頭蓋骨ができ始める。5週目までに、顔はますます発達し、額、目、前鼻腔、口が形作られるが、外耳はまだ発達中である。肢芽には手・足板がもう見えている。10
ほとんどのクローニング論議は、この成長初期段階に関する誤認と誤解に基づいてなされるので、以上の説明は、発達初期の人間に関する誤解を詳しく検討するための背景になる。このような論議は、ここでその不正確さを指摘した「胎芽以前の何か」という用語、それを説明する不正確な科学(しばしば「人間」ではなく「カエル」の胎生学)の使用、さらに、その「人格」論議への応用によって、非常に分かりにくくなっている。
ヒト胎児研究に関する生命倫理学者の初期の議論で、いわゆる「前胎芽」11という用語を発明したのはイエズス会の神学者、リチャード・マッコーミック神父とカエル胎芽学者クリフォード・グロブシュタインであった。二人とも、14日以前に人間が存在することは認めるものの、個人としての人間(つまり人間としての「人格」)はまだ存在していない、と主張する点で一致している。その理由として彼らは、14日以前であれば双生児(つまり二人の個人)になるかもしれないと主張する。また、4~7日の胚盤胞の外側にある層は、誕生後「すべて廃棄されて」内側の層だけが人間になるというのが、彼らのもう一つの根拠になっている。それ故に、14日前に存在するのは「前胎芽」もしくは「着床前の胎芽」(人格になる可能性)だけであり、双生児になることがない14日後にのみ決定的に法的権利と保護を享受できる「個人」つまり「人格」が存在し始める、と彼らは主張する。国会議員のワイスマン氏はここでさらに過ちを重ねて、この期間にさえ人間もしくは人間の胎芽が存在することを否定している。
科学分野では国際的長老の一人、ロナン・オライリー博士によれは「前胎芽」という用語はヒト胎生学者から「不正確で非科学的」として退けられている。12オライリー博士はヒト胎生学での分類、いわゆる「カーネギー」段階を発展させ、また、この分野で使用される用語(Nomina Embryologica)を決定する国際会議の一員である。ヒト胎生学の指導的教科書になっているその著書でも、彼は「前胎芽」なる用語を非難している。この用語を非難している学者は他にもいる。13そのためか、この用語を使用する人は最近とみに減少しているが、それでも損害がもたらされた事実は残ることになった。つまり、受精もしくはクローニングの結果はまだ人間もしくは胎芽ではなく、従ってそれを生物学的実験もしくはクローニングの材料として使用することは許される、という彼らの主張は、今でも多くの人たちから鵜呑みにされているのである。
最近「着床前の胎芽」(5~7日に起こる着床以前の胎芽)という用語とか、「受精後2週間(時としては3週間)まではヒト胎芽ではない」という主張もよく耳にする。どのように勝手な呼び方をしても、そこにあるのがまだ人間もしくは胎芽になる可能性があるものでしかないと人々を説得することがねらいある。しかし、これらの主張は科学的に絶対に間違っている。
既述のように、権威ある科学的結論は、ヒト胎芽が受精(もしくはクローニング)の瞬間から人間であるということである。マッコーミックとグロブシュタインの「カエルの科学」に反論すると、カエルとは異なり人間の胎芽は同時的に分裂せず、また胚盤胞の二層は実際相互に影響を与えるのが科学的事実である。さらに、分娩後、外層の全細胞が廃棄されるわけでなく、大人の血液細胞と組織の一部はまさにその外層に由来するというのが事実である。だから、胚盤胞の内側の部分だけでなく、その全体が人間なのである。
人格発生が14日遅れるとする双生児論法にも同様に科学的欠陥がある。双生児化は14日後にも起こり得ることからもこれは明らかであり、彼らの主張は論証として力に欠ける。14一卵性双生児の場合、一人の独立した人間(つまり初期のヒト胎芽)は無性分裂する。(無性生殖に関しては、クローニングにもある程度の類似点がある。)このようにして、一人の個人からもう一人の個人が発生し、その結果二人の個人つまり双生児が生まれることになる。後から発生する個人は分裂した元からの個人と肉体的につながっており、その元からの個人も一人の個人として存在を続ける。
マッコーミックとグロブシュタインは、自説を根拠づけるため、その他にも根拠に欠ける科学を持ち出すが、こういうことこそ彼らの最大の間違いである。自分たちの立場に根拠を与えるために彼らが使用する科学が間違っているから、14日以前には「前胎芽」とか「前人格」と呼ばれる「細胞のゆるやかな集合」しか存在しない、という彼らの「科学的」結論も間違いなのである。同じく、14日以前もしくは着床前には「前人間」しか存在しない、といういかなる含意も間違っている。科学的に言えば、人間と胎芽は受精の瞬間もしくはクローニングの瞬間に発生し、その後、ヒト胎芽発生後の継続線上に「可能性でしかない」人間が存在できる点などはどこにもない。
この客観的科学的事実から逃れることのできるどのような哲学的結論、法律学的意見、政治的主張も存在できるわけがない。ある人たちの偏見とか、利己的考え方の外に「前胎芽」とか「前人格」などというものは存在しない。それにも拘わらず、厳然とした科学的事実を乱用、歪曲して、ある人たちの哲学的、神学的、政治的思いこみに合わせようとする試みは続けられている。たとえば着床、14日、脳の形成、誕生後のような、自分たちでさえも認める恣意的な「目印」は、このような論争の中に用い続けられることであろう。
「人間はいつ人間であり始めるか?」これは本質的に科学的というよりも哲学的問題である。15これらの論争では以前から、生命倫理学者たちによって「いくつかの考え方が」提案されてきたが、これらはすべて介入、実験、「治療」のために時間の枠を広げることを目的としている。彼らが使用する「哲学」も欠陥だらけである。ある者たちはデカルト風の精神・肉体の分裂を持ち出して、人間人格にはたとえば、非物質的精神(もしくは霊魂)と物質的肉体という二つ本性があると主張する。16しかし、彼らがこれら異なる二つの本性の間にある相互作用について説明できたためしはない。ほとんどの「合理主義者」は人格を精神(もしくは霊魂)として定義し、ほとんどの「経験主義者」は人格を肉体のみで説明しようとする。
これらはすべて、彼もしくは彼女の本性によってでなく、人格があるかないかを、その「機能」が行使されるかされないかで決定しようとする。合理主義者たちは彼もしくは彼女が(自我意識、選択、意志、環境への反応などの)「理性的特質」を示すまで人格は存在しない、と主張する。経験主義者たちは、彼もしくは彼女が「感覚」を行使できるまで人格が発生しない、と主張する。これら生命倫理学の立場はどれ一つとして科学的事実に合致していないどころか、ほとんど滑稽でさえある。子宮内での、もしくは誕生後の脳の身体的発達と、その発達に応じるとされる心理的状態との間には、何ら科学的関係がない。実に、科学は「理性的特性」と「感覚」が完全に機能するのは、脳が完全に発達する成人初期の段階でしかないことを示唆している。17
もし、どうしても哲学を持ち出さなければならないのなら、少なくとも正しい科学的事実を大事にする哲学を援用しなければならない。たとえば、哲学的実在論では、人間人格を身体と霊魂が合体している生きた複合体であると定義している。これこそ人間性である。このようにして、他の定義と一線を画した「人格」の定義によれば、精神病患者も、体の弱い老人も、昏睡状態にある病人も、クリストファー・リーヴスのような対麻痺の患者も、「部分分娩」中絶で殺される赤ちゃんも、クローニングもしくは受精によって発生するヒト受精卵も、含まれることになる。科学的に、受精(もしくはクローニング)の瞬間から死に至るまで、その人間の人間としての本性が変化する時点などあるわけがない。受精卵は絶えず人間固有の酵素、蛋白質、組織、器官を作り続けるのであるが、こんなことは人間以外の何ものにもできない。科学に忠実であれば、このすばらしい被造物に見られる人間の本性とか人格を否定できるわけがない。
国家の政策は、神話とか偏見に基づいた言葉の遊びでなく、正確な科学を反映するべきである。そうでなければ、権威者は文字通り人殺しになりかねない。科学的に言えば、人間のクローニングと受精の直接産物はまったく同一、つまりすでに存在し、生命があり、唯一無二の個人であり、胎芽の段階にある人間なのである。それは「前胎芽」とか食品医薬品局の指導下にあるような新薬などではない。クローニングはすでに連邦資金使用が禁止されている有害で破壊的ヒト胎芽研究である。18
倫理的に許される研究であろうとすれば、(たとえば病気の治療という)賞賛すべき目的のためであっても、それが正当化されるわけではではない。それらのよい目的のために使用される手段もよいものでなければならない。人間クローニングの直接目的は人間であり、クローニングはその人間を他の人間の利益の単なる手段として使用することになる。故に、人間のクローニングは不道徳であり、公的にも私的にも禁止されなければならない。19
たとえば、発達中のヒト胎芽を破壊して(つまり殺すことによって)幹細胞を採取するNIH(国立衛生研究所)が資金を提供する幹細胞研究のように、連邦基金の補助による胎芽研究さえもが現在進行中であるので、クローニングについて理解を深めた読者は、ヒト胎芽研究のいわゆる「禁止」については再検討するべきである。各州と連邦の規制によって、ヒト胎芽のいかなる研究も禁止されなければならない。公的また私的機関はそれぞれの権限が及ぶ範囲で同様な規制を設けるべきである。
おかしなことだが、ここしばらくの間、警戒を要するスピードで発展してきたにもかかわらず、公に、つまり法的に注目されてなかった慣行にさらなる光を当ててくれた「ドーリー」に、わたしたちは感謝していいのかもしれない。
References:
1. Ian Wilmut, et al, Nature, March 7, 1996. Wilmut’s research has been challenged by several eminent scientists in an article in Nature, February 27, 1997. [Back]
2. Hearing before the Subcommittee on Health and Environment of the Committee on Commerce, U.S. House of Representatives, “Cloning: Legal, Medical, Ethical, and Social Issues”, February 12, 1998. [Back]
3. Of course the human embryo now has very little protection from being killed at the instigation of the mother, but the civil and criminal laws in the states provide protection and sanctions with reference to harm caused by others. The Supreme Court of South Carolina, for example, has recently invoked the state child-endangerment law against 40 women since 1989, because the “unborn viable child” is treated as a person when someone else has killed or injured a woman’s fetus. The court calls it “absurd to recognize the viable fetus as a person for purposes of homicide laws and wrongful-death statutes, but not for purposes of statutes proscribing child abuse.” Malissa Crawley, whose son was born with cocaine in his blood, was imprisoned last month with a five year sentence. Corneia Whitner was sentenced to eight years for using crack cocaine while pregnant, and has served almost two years of that sentence. (Washington Times, April 18, 1998, p. A3) [Back]
4. For detailed discussions covering the human embryology summarized here, see th following authors of human embryology text books which reflect agreement among all human embryologists): Ronan O’Rahilly and Fabiola Muller, Human Embryology & Teratology (New York: Wiley-Liss, 1994); William J. Larsen, Human Embryology (New York: Churchill Livingstone, 1997); Bruce M. Carlson, Human Embryology and Developmental Biology, op cit. [Back]
5. One of several possible cloning methods. See, e.g., Bruce Carlson, Human Embryology and Developmental Biology (St. Louis, MO: Mosby, 1994), pp. 134 ff. Note that the bills presently in Congress select out only one of several techniques of human cloning. Both bills should be scrutinized for the use of the fake “pre-embryo” science and logic discussed below, and for the banning of both public and private funds for cloning research. [Back]
6. To make it a specialized cell, in this case, a skin cell. This silencing is known as the process of “methylation”; see, e.g., Alan E.H. Emery, Elements of Medical Genetics (New York: Churchill Livingstone, 1983), p. 103. [Back]
11. See, Richard A. McCormick, “Who or what is the pre-embryo?”, Kennedy Institute of Ethics Journal (1991), 1:1-15; Clifford Grobstein, Science and the Unborn (Ne York: Basic Books, 1988); also, Grobstein, “When does life begin?”, Psychology Today (September 1989), pp. 43-46. This “pre-embryo” science and logic has been cloned throughout the bioethics literature, and used as the basis for many other bioethicist’ arguments on “personhood” (without checking the accuracy of the human embryology). Especially influential is the work of the Australian theologian Fr. Norman Ford, whose book, When Did I Begin?, is even used by the Searle pharmaceutical company as the rationale and justification for claiming that the use of the morning after pill could not be abortifacient, because before 14-days “there is no embryo there”! [Back]
12. Ronan O’Rahilly and Fabiola Muller, note 4 supra; see comment on the term “pre-embryo”, p.55. [Back]
” 13. Acknowledged by all other human embryologists, e.g., William Larsen; see also, C. Ward Kischer, “The big lie in human embryology: The case of the pre-embryo”, Linacre Quarterly (in press); Dianne N. Irving, “New age embryology text books: Implications for fetal research …”, Linacre Quarterly (1994), 61:42-62; see also anthology of similar previously published articles by Kischer and Irving, in their book, The Human Development Hoax: Time To Tell The Truth! (1997)(distributed by American Life League, Stafford, VA). [Back]
14. See O’Rahilly, note 4 supra, p. 32; also, Karen Dawson, “Segmentation and moral status”, in Peter Singer, et al, Embryo Experimentation (New York: Cambridge University Press, 1990), pp. 57 ff. [Back]
15. For discussion of this core question in philosophy, see the classic text by Frederick Copleston, A History of Philosophy, Vols. 1-9 (New York: Image Books, 1962). For specific discussions of the bioethics versions of “personhood”, see Dianne N. Irving, “Scientific and philosophical expertise: An evaluation of the arguments on ‘personhood'”, Linacre Quarterly (1993), 60:18-47. [Back]
16. For an excellent exegesis of the variations of Cartesian dualism in the field of bioethics, see the very readable book by Gilbert C. Meilaender, Body, Soul, and Bioethics (Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press, 1995). [Back]
17. See, for example, Keith L. Moore, The Developing Human (3rd edition) (Philadelphia: W.B. Saunders Company, 1982), p.1. [Back]
18. With the “Fiscal Year 1993 NIH Reauthorization Bill”, only in utero human embryos continued to be protected under federal law. Experiments on ex utero pre-implantation human embryos involve “observing, manipulating, analyzing, and dissecting live human embryos”, which are then discarded. In December 199, the Advisory Committee to the Director of NIH unanimously endorsed NIH funding on research on pre-implantation embryos, because such research would yield human benefits, and because pre-implantation embryos “lack sentience and most other qualities considered relevant to the moral status of persons”. [The NIH Human Embryo Research Panel’s justification for this “reduced moral status” was given in references to McCormick and Grobstein’s work, among others.] President Clinton then rejected the use of federal funds to pay for the creation of human embryos solely to experiment on them – but NIH could continue to use federal funds for experiments that would destroy pre-implantation human embryos, who could then be discarded, so long as the embryos had been created with private funds. In September 1996, the “Fiscal Year 1997 Omnibus Appropriations Bill” (H.R. 3610), was enacted, which included the Dickey/Wicker Amendment protecting pre-implantation human embryos by prohibiting the use of federal funds for the creation of human embryos for research, and research in which human embryos are destroyed, discarded or knowingly subjected to risk of injury or death greater than that legally allowed for research on fetuses in utero. [Back]
19. Although President Clinton has followed the advise of his National Bioethics Advisory Committee (NBAC), they use the faulty pre-embryo science and logic – using the terms “human being” or “human child” to mean a human embryo after it has implanted! [Back]
Dianne N. Irving, M.A., Ph.D.
ダイアンヌ・アーヴィング医学博士
Professor of Philosophy
Dominican House of Studies
Washington, D.C. 20017
Copyright © May 13, 1998
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net