日本 プロライフ ムーブメント

いのちの行進—3つの作戦

日本のマーチフォーライフは、2014年7月13日、小さないのちを守る会の辻岡建象先生のご協力のもと、33名の参加者とともに最初の一歩を踏み出しました。以来毎年7月に、東京の中心街である銀座周辺を歩くデモ行進を欠かすことなく続けてきました。

始まりは世界のマーチの模倣だったかもしれません。しかし年を追うごとに、日本オリジナルのマーチを求めたくなりました。10年目を迎えた2023年、素晴らしい日本語である「いのち」を大事にしたいと思い、名称を「いのちの行進」に改めることにしました。「いのちだいじに」にちなんだ3つの作戦をもって、世界が注目する「いのちの行進」になることを願います。

コードネーム「いのちだいじに」は、世界的に人気を博したゲーム「ドラゴンクエスト」からの引用です。ドラクエは日本発の「いのちの文化」の代表作のひとつにちがいないでしょう。

3つの作戦とは、①日本語の「いのち」を大事にすること、②「はじまりのいのち」を大事にすること、③「いのちの科学」を大事にすること、の3つです。

それぞれの作戦ごとに、調査と対話と実践を重ねながら、日々歩みを進めていきたいと思います。いのち輝く未来に向けて、ともに歩む仲間になってもらえたら嬉しいです。

「いのち」を世界語に

悪霊に打ち勝つ盾となり剣となる「いのち」

文化的コミュニケーションにおいて、特定の単語の翻訳を拒むことは適切ではないのかもしれません。しかし、日本語の「いのち」が習慣的に「Life」と訳されることにかねがね違和感がありました。
世界中でおこなわれているマーチフォーライフというイベントに共感します。その主旨に賛同したいと思って、2014年から毎年東京でマーチフォーライフを実施してきましたが、10年の節目を迎える
2023年から、その名称を「いのちの行進」に改めることにします。
日本のマーチには外国人が多数参加します。彼らも”I・NO・CHI”と口にしてほしい。世界がINOCHIを知ってほしい。INOCHIが世界の言葉になってほしい。そう願い求めるマーチになりましょう。
LifeかChoiceか、人間にとってどちらが価値かという論争があります。もちろんLifeのほうだと主張するのが世界のマーチフォーライフの立場ですが、そもそも「いのち」は他の概念と対立することはありません。それを何かと比べるという論理が成り立ちません。「いのち」は絶対的な価値をもつからです。それより大事なものはないという意味で、ふだん日本人はこの言葉を使っています。
「Gospel of Life」を宣べ伝えることが世界のマーチの目的ですが、「いのち」という言葉そのものが福音です。「いのち」を意味するより正確な訳語が「Gospel of Life」なのかもしれません。
特定の宗教に属さなくても、「いのち」に神の霊が宿ることを何となく日本人は知っています。同時に「いのち」に対して人間の手で勝手な扱いをしてはならないという戒めもあります。小さい子どもの頃からみんながいつも耳にし口にするこの「いのち」という言葉が盾となり剣となって、悪霊に打ち勝つ精神が身につきます。
世界はINOCHIを知りましょう。
そして日本はもっと深く「いのち」を知りましょう。

「胚棄」について、考えてみませんか

人間そのものが消費財とみなされ、使用済みになれば捨てられる。われわれは「使い捨て」の文化を作り出してしまった。(教皇フランシスコ)

わたしたち一人一人の人生の出発点は受精の瞬間です。崇高な科学的事実です。胚の姿で一人の人間の人生が始まります。
精子と卵子が結合する瞬間、まばゆい光を発します。その瞬間、一人の人間をかたちづくる遺伝的構成が完成しますが、その瞬間に「ひとつの魂が宿る」とみなす宗教的理解を否定するのが困難なほどの神秘的な光です。
胚(エンブリオ)は「いのち」の源です。決してモノではないはずですが、百万もの胚が「お客様の大切な商品」として扱われ、そして商品価値がなくなれば処分される現実があります。
受精はかつては体内のみで起こるものでしたが、1978年から体外受精の実用化が始まりました。今日の日本は世界一の体外受精大国です。出生数をはるかに上回る数の胚がシャーレの中で誕生しています。そのすべてが将来の人口として見込まれるなら、深刻な人口減の問題は一気に解決するでしょう。しかし実際は、多くの凍結胚が「着床」という人生の次の大事なステージを迎えるチャンスが与えられないまま「いのちの光」を断たれてしまいます。優生学的あるいは経済的な理由から着床に使われる見込みのなくなった胚は、冷凍庫から取り出され廃棄処分されます。これを「胚棄」と呼んでみたいと思います。
教皇フランシスコが批判する「使い捨て文化」の根源的行為が「胚棄」です。
「中絶」と「胚棄」はどちらも産まれる前の「いのち」を人工的に終わらせるという意味では同じですが、前者があくまでも個人的な問題であるのに対して、後者は明らかに社会的な問題です。体内で受精した胚は妊娠22週を過ぎる頃までは母親から切り離された状態で存在することはできません。親の意思で母親から切り離すことが人工妊娠中絶です。切り離されたら「いのち」は終わりです。一方、シャーレの中の胚は母親から切り離された状態で存在しています。親の意思に関わりなく、冷凍庫の中で「いのち」は生き続けられます。しかし親が責任を放棄すれば(年間維持契約を更新しない等の場合です)その瞬間、社会に放り出された「みなし子」になります。それがただちに「胚棄」されている現状は社会の責任放棄です。実の親を失った「みなし子」たちの「いのちの光」を輝かせる義務が本来わたしたちにあるはずです。
諸制度の整備や人々の気持ちの整理がつかないうちに、あっという間に親と切り離された「社会的胚」の存在が当たり前の世の中になっていました。途方もない数の「胚棄」がおこなわれている現実を前に、これから何をどうしたらいいのかすぐに答えは出せません。社会的な議論と当事者との対話が必要です。わたしたちのいのちの源である胚の扱いを考える機会を、いのちのマーチが用意していきたいと思います。

アントワーヌ・べシャン

教会はアントワーヌ・べシャンの名誉を回復してください。

”思いやりワクチン”などという甘い文言で人々から考える力を奪い、製薬会社に代わって政府や各界のリーダーが特定の商品の宣伝活動を繰り広げた先のパンデミックは、今にして思えば狂気の沙汰でした。
もう同じ過ちを繰り返さないぞ!と声をあげることも「いのちのマーチ」のテーマです。
安全性も効果も検証不十分な異物を健康な身体に注入することに躊躇するのは当然で、空々しい宣伝文句で煽るのではなく、少なくとも妊産婦には劇薬の服用を控えるよう忠告するのが本当の思いやりです。
官民一体となった巨大な利権の構造の前に、科学はいのちと向き合うことをやめました。19世紀の終わりのことです。その頃、いのちの摂理を眼差す「いのちの科学」が開花しようとしていました。隠されたその宝を取り戻しましょう。次のパンデミックが仕掛けられる前に。

19世紀後半のフランスに「いのちをまもる」ために力を尽くした二人の偉大な科学者がいました。しかし、二人の「いのちへのまなざし」はまったく異なるものでした。一人は、科学界の“聖人”に祭り上げられ、今日の世界観をかたちづくる巨大な礎となったルイ・パスツール。もう一人は、その後“破門”同然の扱いを受け、歴史の闇に埋もれてしまったアントワーヌ・ベシャン。前者は戦争に勝ち続けなければならない競争社会の原理をもたらし、後者はすべての生命が利他的に支え合う共生社会の可能性を示しました。

パスツールが提示したのは、わたしたちをつねに戦争状態に留めておく世界観です。「ウイルスという外敵を撃退するためにワクチンで武装する」のが当たり前になっているのはパスツールのおかげです。パスツールのおかげで、生まれたときから赤ちゃんのからだも戦場になりました。マスクも、社会的距離も、わたしたちの人間関係を戦争状態に留めておくための手段です。世界平和を口にしながら自身の体が戦闘体制にあることに無頓着でいられるのは不思議です。外敵を特定しそれを狙い撃つ近代医療の常識が改められない限り、この世から戦争が無くなることはないでしょう。

神は、つねに戦いを強いられるような身体をわたしたちに与えられたのでしょうか。戦争ではなく平和をのぞまれ、そのように世界を創造されたのではないでしょうか。21世紀の生物学の最先端は、生存競争を勝ち抜くための「利己的な遺伝子」ではなく、調和に向かう利他的なふるまいが生命現象の特徴であると結論づけています。生命は本来、戦争など必要としないのです。驚くべきパラダイムシフトを遂げつつある今日の科学的生命観は、150年前のベシャンが起源です。

いのちは一つ。いのちは永遠。教会で教えられる神のみわざは、わたしたちの体の内で絶えず自然に現れているものなのではないでしょうか。ベシャンの「いのちへのまなざし」は、神の摂理に光をあてました。ベシャンは科学者である前に信仰の人でした。ベシャンによれば、ウイルスは身体に溜まった毒素を片付けてくれる掃除屋です。外敵であるどころか、細胞の中でわたしたちと共に生きる“友だち”なのです。極小の微生物に至るまで、被造物の設計コンセプトを解明しようとした科学者がベシャンでした。

パスツールが、わたしたちの身体に人の手による「破壊と修復」をもたらしたのなら、ベシャンは、わたしたちの身体に「浄化と再生」をおこなう機能が備わっていることを見出しました。ベシャンとパスツールの主張は真向対立しましたが、ベシャンの才能をいちばん恐れていたのはパスツールでした。ベシャンから盗用し、ベシャンを放逐するによって、パスツールは自らの業績と覇権を確立しました。しかし人生の最期を迎えるとき、パスツールは「自分の理論は間違いであり、ベシャンが正しかった」ことを認めました。パスツールも信仰の人でした。

教会はパスツールを賞賛する一方で、ベシャンはカトリック学部長の要職を失い、書物は禁書目録に上がるほど排斥されました。なぜでしょうか。資本主義の暴走をゆるすパスツールのパラダイムのみを科学と認め、神の摂理に寄り添うベシャンのアプローチを似非科学としてしまったのはなぜでしょうか。二人が生きた19世紀後半以降、教会は本来ひとが持って生まれた自然治癒力の神秘に目を向けなくなったのはなぜでしょうか。「近代主義」が教会に入り込んで、真理に蓋をしたのかもしれません。今その蓋を取りのぞくことで見えてくる未来に希望を抱かずにはいられません。

アントワーヌ・ベシャンの「いのちへのまなざし」を基礎とする新しい科学の発展のために、教会はベシャンの名誉を回復してください。ベシャンが信仰に根ざした偉大な科学者であったことを認めてください。150年前にパスツールを受け入れたのと同じように、ベシャンおよびベシャンにつづく者たちを奨励してください。これからベシャンの霊魂とともに、神がつくられた身体を戦争から解放し、神の摂理に適う社会が実現していく道行を見守ってください。
パスツールの霊魂もそれをのぞんでいるでしょう。

いのちの行進 2023年7月16日

14:00 – 17:00

スケジュール


14:00 – 14:30
Dr.Ligaya Acosta (Human Life International)
リガヤ・アコスタ博士(HLI)
『現代の課題に応えて』


14:30 – 15:00
Jason Morgan ジェイソン・モーガン(麗澤大学)
『アメリカの狂気について』


15:00 – 16:00
「いのちだいじに作戦」をめぐる討議


16:00 – 17:00
数寄屋橋交差点を歩くデモ行進※紺谷橋児童遊園で解散

場所

日比谷公園内
日比谷図書文化館/大ホール

Masaaki Ikeda(イケダ マサアキ)
池田正昭
「いのちの行進」(マーチ・フォア・ライフを改名)実行委員会 代表
クラウドファンディング アントワーヌ・べシャンの名誉を回復しよう 
2023年7月3日 掲載許可取得