教皇の平和の日メッセージを読み、人のいのちの尊厳を考えながら世界を眺めると、戦争やテロ、デモや弾圧、中絶や虐待 、他殺や自殺など、そこは人命の軽視や侵害に満ちていた。そして標記のフレーズが脳裏に浮かんだ。
言うまでもなくこの言葉は明治憲法第3条、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の引用であるが、 現行の日本国憲法では消えてなくなっている。ところが、カトリック教会においては、このフレーズは主語を「天皇」から 「人のいのち」に変えて生きている。教会は「人間のいのちは神聖であり、不可侵である」 とその尊厳を強調してきたのである。『カトリック教会のカテキズム』は述べる。
「人間のいのちは神聖である。なぜなら、人間のいのちはその起源において『神の創造のわざ』の結果であり、またつねに 、その唯一の目的である創造主との特別な関係の中にあるからである。神のみが、その始めから終わりまで、 人間のいのちの主であり、したがって、だれも、いかなる場合にも、 無辜のいのちを故意に断つ権利が人間にあると主張することはできない」(n.2258=筆者訳)。
ところで、聖書の証言によれば、人殺しは歴史の始めからあった。 人祖アダムとエワの長男カインが弟のアベルを殺したのである(創世記4,1-15参照)。人祖の罪の結果、 すでに人類の始めから、人間には怒りやねたみがあったことを示している。人間は人間の敵となったのである。 神は弟殺しを責めて言われる。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」( 同上4,10)。
しかし、神は、殺人の歴史を踏まえ、ノアとの契約において言われる。「人の血を流す者は誰でも、 人によって血を流される。神にかたどって、人は造られたからである」(創世記9,6)。旧約聖書において、 血はいのちの聖なるしるしとみなされたが、これは今も通用する。
聖書はまた、「罪なき人、正しい人を殺してはならない」(出エジプト23,7)と言う。これは、神の十戒の第五、「 殺してはならない」(出エジプト 20,13)を説明するもので、罪のない人を故意に殺害することは、人間の尊厳に反することであり、 創造主の聖性を汚す重大な罪とされる。このおきては、 普遍的に有効であって、時と所とを問わず、すべての、そして一人ひとりの人間を拘束するものである。
新約時代になり、主キリストは、山上の説教において、「殺してはならない」(マタイ5,21) というおきてを確認したうえで、怒り、憎しみ、そして復讐の禁止を付け加えられる。そしてさらに、 キリストは弟子たちに、右のほほを打たれたら他のほほを向け(マタイ5,39参照)、敵を愛するよう(マタイ5, 44参照)求められる。キリストご自身、わが身を守ろうとせず、ペトロには剣を鞘におさめよ(マタイ26,52参照) と言われた。
でも、人間に敵が愛せるか。おそらくできまい。世の現実を見ればそれがわかる。わが国では多くの人が仇討を美化し、 赤穂浪士を称える。先制防衛と称して戦争を仕掛ける国があれば、聖戦と称して自爆テロを繰り返す集団がある。 殺人事件が新聞記事にならない日はない。だが胎児殺しは新聞沙汰にもならない。古今東西、 人命軽視や侵害は日常茶飯事である。
しかし、これらの現実は人類を失望させることはない。なぜなら、神は人間のいのちを惜しみ、 そのために独り子を惜しまなかったからである。聖書は証言する。「神はその独り子を与えるほど、この世を愛した。 それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。神が愛する「 この世」とは、原罪や自罪によっていわば神の敵となった人類を指す。神はその敵である人類の救いのために、 最愛の独り子を与えた。神が先に人間を愛し、敵を愛したのである(1ヨハネ4,19参照)。そして独り子は言う。「 わたしが来たのは、人間に命を得させ、しかも豊かに得させるためである」(同上10,10)。 十字架に架けられたキリストの頭上には、敵をもゆるす豊かな神の愛が輝いている。神の子の犠牲は、人類に「 豊かないのち」「永遠のいのち」への道を開いたのである。
神の子であると同時に人類の新しい頭でもあるキリスト恵みと模範(ヨハネ13,15)によって、人間も、 無辜のいのちのみならず、敵をも愛することができるようになった。キリストの愛は聖霊の働きにより全世界に広がり、 自分を捨てて人のために尽くす善意の人々は世界に満ちている。ノーベル平和賞の人々はその証だろう。 災害がある度に駆けつける幾万幾十万のボランチアの群れもそうだ。赤ちゃんポストの人々や里親たちも例外ではない。 世界中に、いのちの尊厳を守る無名の人々が数知れずいる。だから人類には希望がある。「 人間のいのちは神聖にして不可侵である」という金科玉条は、もはや空理空論ではなく、現実にこの地上に実現している。 このことを、わたしたちは確信しなければならない。
Itonaga, Shinnichi (イトナガ ・ シンイチ)
出典 糸永真一司教のカトリック時評
2012年2月1日掲載
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