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確実性への要求は必ずしもスッキリするとは限らない

前回の記事では、同性愛に関するカトリック教会の公式な客観的教えに触れた。「真実:カトリック教会とLGBTQ+」の記事である。今回はその続きとして、カナダの小教区で助祭を務める親友のダグラス・マクマナマン氏からいただいた記事を紹介し、主観的/司牧的アプローチについて述べたいと思う。ダグラス・マクマナマン助祭は、Lifeissuses.netのライターであり、高校生にカトリックの性倫理を教える教師であり、多くの書籍や記事を書いている。この記事の掲載を許可してくださったダグ助祭に感謝します。同性愛を扱う場合、客観的側面と主観的側面の両方に重点を置くことが必要だと思う。どちらか一方を避けることは混乱につながるからです。

確実性への要求は必ずしもスッキリするとは限らな

ダグラス・マクマナマン助祭著

 Fiducia Supplicansフィドゥーシア・サプリカンス(訳者注:2023年12月8日祝福の種類について述べている)に反対する記事の多くは、読んでいて興味深いものだが、そのほとんどは、そもそも著者が証明しなければならない点を前提としているように思える。しかも、それらに共通しているのは、曖昧さへの不満のようだ。私は、司牧的な事柄を扱う場合、曖昧さは避けられないと主張するつもりだ。というのも、議論のレベルが一般的であればあるほど、明快さが増すからである。しかし、より具体的であったり、抽象的でなかったりする言説のレベルに近づくにつれ、物事はより複雑になるため、むしろ不明瞭になる。

これは哲学の基本原理である。例えば、私は隣家の前庭にある木の高さを1インチから100メートルの間で見積もることができる。この見積もりには絶対的な確実性がある。向かいの家の値段を見積もることもできる: 億円から1千万円の間だろう。非常に大雑把だが、確実だ。しかし、私の見積もりは比較的役に立たない。木を切る人にとっても(どんな道具が必要かという点では)役に立たないし、家を買う可能性のある人にとっても役に立たない。見積もりをより有用なものにするためには、私はより精度を上げなければならない。しかし、精度を上げれば上げるほど、私の見積もりは誤差の影響を受けやすくなる。では、向かいの家が95万ドルだとしよう。その家は90万ドルかもしれないし、87万5000ドルかもしれない。

ある種の神学的・道徳的な質問に関しては、教会では非常に明確な見解を持っているが、中絶や安楽死のような一般的な道徳的質問とは異なり、個人個人に関わる司牧上の質問は曖昧さに満ちている。教会は、婚姻外の性行為、つまり夫婦の結びつきの表現ではない性行為は道徳的に欠陥があるとはっきり言っている。それを示すのはそれほど難しいことではない。しかし、孤独、性的情熱、自己受容、嗜癖性、信仰への疑念などに悩む人を相手にする場合、それはあまり助けにならない。単に言うだけでは不十分なのだ: 「同性同士のセックスは罪です!罪を祝福することはできません!良い一日を!」と。

その人の性格的特徴、欠点、特異性、その人の責任の程度を軽減する要因、カウンセラーに一定の行動方針を要求する要因、声のトーン、言うべきこと、言ってはいけないこと等々、自由意志以外の無数の要因があり、優れた司祭はこれを迅速に直感できなければならない。これをある程度可能にするのは、超自然的な慈愛と、助言などの聖霊の賜物、そして識別のカリスマである。大人は、同胞である大人たちよりも、子どもたちに対してはるかに忍耐を持ち、通常、より多くの誤りの余地を与えるべきである。霊的生活においても同様であるが、霊的成人に達している成人はごくわずかであり、このような識別を一貫して怠り、それに従って人を扱う司祭は、悪い親がそうであるように、無用の苦しみと葛藤を生じさせる。

人の霊的生活は活動であり、過程であり、優れた司祭は、生徒の様々な学習スタイルと、その生徒が現在どのレベルで活動しているかを見極め、その時点から始めることができる優れた教師のようなものである。かつての教育の問題点は、この事前の判断がほとんどおろそかにされていたことである。なぜなら、誰もが同じように学ぶと仮定されていたため、遅れをとった生徒は単に知能が低いとみなされ、後者はこの孤立した状態が生み出す混乱と苦痛に満ちた感情に対処することになった。そのような生徒に本当に必要なのは、誰もが同じ方法で、同じペースで学ぶわけではなく、期待通りの時期に成功に必要な条件から始まるわけでもないことを理解している教師だった。教えることは芸術であり、その名に値する司祭の仕事もまた芸術である。そのためには、一般の知識以上のものが必要なのだ。

司祭の中には–教皇フランシスコもそのことを十分に承知しているのだが—人の計画を邪魔する司牧的センスしかなく、司牧的助言とは問題、教義、教え、カテキズムの箇所などがすべてであり、一般的な道徳的疑問に対する明確な答えさえあれば、人々に対応することは単純で簡単なことだと考えているような司祭もいる。しかし、人生は複雑であるからこそ、曖昧さに満ちている。教皇を批評するものたちは、確かさや明晰さが不可能なレベルで、確かさや明晰さを求めているのだ。フィドゥーシアは、司牧問答が常にそうであるように、議論が抽象度の低いレベルで行われるため、間違いなく濫用や誤解を受けやすい。しかし、そこから逃れることはできない。私はいつも結婚を考えているカップルを祝福しているが、そのほとんどは同棲している。私は彼らの罪を祝福しているのだろうか?いや、同棲を容認しているのか?祝福を与える前に、彼らの生活を詮索して、同棲の詳細を聞き出すべきだろうか?もし二人の男性、あるいは二人の女性が祝福を求めて私に近づいてきたら、私は詮索することなく、相手を完全に拒絶することなく、彼らが私に何を求めているのかを見極めることができなければならない。もし彼らがゲイだとわかったら、私は彼らがセックスしていると思うだろうか?セックスが主目的ではない貞淑なゲイカップルもいるのだから。私は祝福の祈りの中で何と言えばいいのだろうか?神に喜ばれるような生き方をする恵みを与えてくださるよう、主にお願いすることができる。フィドゥーシアは、これは典礼的あるいは正式な場で行われるべきではないと明言している。では、同性の二人が祝福を求めて近づいてきたとき、私たちはどうすればいいのだろうか?ただ断ればいいのだろうか?良い司牧的アプローチは、ほとんどの場合、二人を祝福し、二人の友情と互いへのコミットメントを祝福し、神が二人に望んでおられることを行おうとする恵みを二人に与えるよう神に呼びかけ、そのままにしておくことであるように私には思える。

曖昧さを避けるために非常に一般的なレベルで仕事している教会は、(木の高さや住宅価格の無駄な見積もりのように)相対的に役に立たなくなる。教会が現代世界の信徒にとってより有益な存在となり、現代人にとって重要な新しい事柄に対処できるようになるためには、このレベルの議論には曖昧さがつきものであり、その教えは第二バチカン公会議の余波のように、濫用や誤解の対象となることを承知の上で、リスクを冒してそのような事柄を宣告しなければならないだろう。私たちはここで「二律背反」を扱っているのだ。第二バチカン公会議がなかったら、1962年以前のように「単純、明確、明瞭」であっただろうか?多くの伝統主義者はそう考えているが、そうであったなら、今日の教会がどうなっていたかをどうやって知ることができるだろうか。おそらく社会は、現在のアーミッシュと同じようにカトリック教会に注目していただろう。

この議論にはどちら側にも正当な主張があることは間違いない。しかし、カトリック信者であることの利点があると私はいつも考えている。正しい行動を決定するために、すべての議論を研究するために日々を費やす必要はないのだ:なぜなら、私たちにはカリスマを教える教理省があり、私たちは教皇庁に忠実であるよう求められているからです。

このような意志と知性の忠実な服従は、たとえローマ教皇がそのような教皇座宣言をしていないときでも、その明白な心情と意図に沿うように、彼の決めたことを誠実に守り、彼の最高の指導権は敬意をもって認められるべきである。それは主に、問題となっている文書の性格、あるいは特定の教義が提案される頻度、あるいは教義が定式化される方法によって知らされる。(Lumen gentium 25)

多くのリベラルなカトリック道徳主義者たちは、ルーメン・ゲンティウムのこの箇所を全く利用しなかった。今日、立場は逆転したようで、教皇が私たちを新しく不快な道に導き始めると、これを窓から投げ捨てるのは保守派のようである。私は、従順は三つの勧告の中で最も難しいものだと言われてきたが、それは当然である。司教は通常、信者や司祭に従順に行うことを要求しますが、この数カ月間、心からの忠実な従順以外の何ものでもなかった者たちが、どうして不誠実だという責めを逃れることができるでしょうか?彼らは反対できるが、私はできないのか?

クリスマス(2023年)直前のこの時期に、フィドゥーシアがどれほど必要だったのかと尋ねられたことがある。私にはわからないが、この騒ぎがどれほど必要なものだろうか?私は40年近くカトリックの性倫理を忠実に教えてきたが、この問題に夢中になっている現状が特に理解できない。私はゲイではないので、そのような観点から物事を見ることはできないが、もし私がゲイで、忠実なカトリック教徒であろうとするならば、この文書を喜ぶかもしれないし、素晴らしいクリスマスプレゼントとして受け取るかもしれない。基本的に、私は、聖なる父が職務のカリスマを持っていて、この非常に複雑な世界では、教皇個人を含め、その複雑さは個人の理解を超えている。取り組むべきことに取り組むために聖霊が導いてくれることに信頼しなければならない。

英語原文投稿 2024年1月9日
https://jerry789.wordpress.com/2024/01/09/demands-for-certainty-are-not-always-reasonable/

翻訳日 2024年 2月1日
翻訳者 大岡 滋子