日本 プロライフ ムーブメント

安楽死が家族に与える影響

家族は生命が始まり、生命を養育する伝統的な場所です。安楽死はまさに全ての人の正当な権利を弱める社会的な計画の付加物です。全体的に、これらの計画は私達の住んでいる社会的で、道徳的な環境を変化するための強力な試みということになり、弱者を犠牲にして強者の手中に権力を握らせるためのものです。なぜなら、悪は真実と仲良くやっていけないし、人間の生命の価値を引き下げるためには、彼らを誤った方向に導くまで、上手くそそのかす言葉で表現する必要があります。恐ろしいことには、魅力的に見えるように作られていて、法的に認められるようになることです。美徳の生き方をすべきだということはすでに難しく、とりわけ私達が責任がある人を導くことは難しいです。しかし、この地球上の全ての人は人類という家族の一員であるという、より広い家族の考え方は、これらの計画によって脅かされていて、そしてこの認識は以下に示すようによりさらに邪悪で危険なものです。 

安楽死に関する議論はどこか妊娠中絶と同じ部分があります。苦痛を和らげるという思いやりのある考えは、現代医学が苦しみを和らげる手段を持っていても、人は死ぬ時間と方法を選ぶ個人的な権利があると主張します。妊娠中絶のように別の人の生命ではなく、本人の生命が危うくなった時、結果として人が死を迎えることになるような時でさえも、同意すれば全ての人が医学的な治療を断る権利があり、これは理にかなっているように作られています。 

安楽死に関する議論は良く知られているので、ここでそれを繰り返すことはしません。私がするべきことは、安楽死のケ-スにおいて欠落しているいくつかの重要なポイントを一覧表にすることです。私達はお互いに殺しあうことができ、その要求を思いつかせる理由がいつも人間の条件の一部である時に、なぜ私達は今、安楽死の討論をするのでしょうか。戦争犯罪が選択の問題になるためにたった40年かかったとマルコム・マガリッジが言っているにも関わらず、今まで道徳的に誤っていると教えられてきたことが、何で今になって突然悪くない行動になりうるのでしょうか。変化による影響を議論することなしに、全ての国で同じように全ての人間の生命を保護してきた法律をどうやってひっくり返すことができるのでしょうか。乱用の可能性がある法律は立案されないために、安楽死の法律が合法化したという事実がないことの言及がどうしてないのでしょうか。現在の法律に直面しないで、それをひっ繰り返すことでどのような影響があるのでしょうか。権利について議論する時、選びたいように選ぶ権利があるように熟慮する権利はないのでしょうか。どうして他の権利に比べて、選ぶ権利は優先されると決めこんでいるのでしょうか。病人や身体の不自由な人は、体調がとてもひさんになっていてさえも、他の人と同じように生命に執拗にしがみついているのに、どうして世論調査は安楽死という明らかな支援をするのでしょうか。 

残念ながら、今はめったに尋ねられないけれども、お互いに私達が付き合うならば無視すべきでない質問は「安楽死は正しいですか」ということです。これは思いやりの動機から生じる故意殺人です。これは自殺の手段が与えられた時に、要求があれば自発的な自殺で、要求がなければ非自発的な自殺です。この時代に、全ての人間の生命の等しい価値に関して道徳的に簡単に鈍感になるような、何が起こっているのか承知していないような、人間の悲劇の目撃者になることには気が進みません。しかし、道徳性を言及すると人は、宗教的な風変わりな考えをしているというレッテルを貼られる傾向があります。全ての人が分別あるはずですが、道徳的な判断を学ぶ方法は現在めったに教えられないし、そういう必要は広範囲にわたっておろそかにされています。 

そこで、「安楽死は正しいですか?」という質問に代わって「人の権利はどういうものでしょうか」という質問をします。同じ質問の変化した形ではありません。第一の質問は道徳性にかかわりを持ち、個々の地域社会に適用します。一方、第二の質問は別々の個人に焦点をあてています。たくさんのケ-スにおいて、これらは互いに反抗したり社会自身に反抗したりします。選択の自由としての安楽死を正当化することは、自由に対する道徳上の理解を乱します。自然な人権によって支えられている正真正銘な自由のさまざまな形は、「~する自由」ではなく「~からの自由」です。このようにして、人は抑圧から、差別から、圧政からその他様々なものから自由であるということを権利は宣言します。決して、欲するもの何をしてもよい自由という意味ではありません。特に人は不道徳なことをする権利はありません。 

私達はみんな人権を理解する必要があります。なぜなら、今しばしば要求されているからです。しかし、それらはとても複雑でにぶいので、もし私が言わんとすることが少々重大なことであれば、しばらくの間ただスイッチを切って下さい。あなたは生命の権利は死ぬまでだと考えるかもしれませんが、いわば、私はそれについて2、3言いたいことがあります。議論されたり、要求されたり、与えられたり、否定されたりする全ての権利は、生命における主要な権利の延長として見ることが出来ます。この権利は第二次世界大戦後、国民が人間の権利を定義したり、体系化したりするために団結した時、着実に第四番目に正しい位置に置かれました。1948年、人権の国連世界宣言は、「世界における自由と正義と平和の土台」は「本来備わっている尊厳を承認し、人類全ての平等と奪うことができない権利を承認する」ことだと述べました。「本来備わっている尊厳」とは、人間生命の価値は本質的であることを意味しています。「奪うことが出来ない」というのは、権利は取り上げられたり、ただで与えられたりするべきではないということを意味します。宣言書は、「全ての人は生命の権利がある」と述べていて、そして「法の前に全ての人は平等で、差別なしに平等に法律に守られる権利を与えられる」と述べています。条項6、1966年公民権と政治的権利における国際的な契約は宣言します。「全ての人間は、生命の本来備わっている権利を持っています。この権利は法律によって守られなければなりません。誰も独断的にそれを剥奪されません。」規則や定めによらず、その者の思いにまかせることは証拠によってではなく、意見によってのみ支えられているきまぐれなものであると言及します。 

安楽死と死ぬ権利

他の環境においてどのような意味があったとしても、安楽死を再検討する中で、死ぬ権利は依頼に応じて殺される人の権利と、依頼されたときに殺す人の権利の主張に言及します。これらの主張される権利は、道徳にも、法律にもどこにも見付からず、それらはたいてい議論されずに断言されています。真の自然の権利はそれらに応える為に他の人に義務を負わせます。しかし、安楽死を支持する人たちは、殺してもらう要望は誰にも義務を負わせないといつも指摘しています。これらの主張された権利が本物であるという理由はありません。だから、それらは尊敬するに値しません。 

選択あるいは自主性の尊重

安楽死を支持する人達が「私が選ぶ権利」「それは誰の生命」「私の生命から宗教をしめだそう」と書いたプラカ-ドを持っている報道をあなたは見たかもしれません。自主性は確かに重要だけれども、本物の人間の権利、その本当の役割は、無限を示された時、他人の権利を無視した時にはゆがめられます。このように、選択の権利は2つの意見をまねきます。第一には、「何を選ぶ権利か」です。最も過激な自由意志論者でさえも、人は望むことは何でもする権利があるということには賛成しないでしょう。だから、そこには限界があります。そして、あたかも限界がないように振舞うことは間違っています。第二に、どの人間の権利もそれだけで成り立つものはありません。そしてどれも絶対的なものではありません。個々の権利の主張は、他の個人と社会に関係のある権利について熟慮されなければなりません。本物の自主性は全ての人間の本当の平等を承認し、公平に彼らの選択に従うために他人に好意を示します。 

もし、殺して欲しいという他人の要望を承認するならば、それはその人の生命が価値を失ったと判断した時のみでしょう。人間の生命の価値を客観的に測る基準はないので、その決定は立会人の価値に頼ることになります。それは無原則なものでしょう。人間の生命の価値は生命それ自身の中にあるものではなく、生命の環境の中に存在すると考えられています。もし、それが正確なものならば、殺人は特定されていない他人にとって、しかも人間の健康状態を独断的に判断したものが正当なものになるでしょう。本物の権利を考えた時、人や団体に差別があるはずはありません。無原則なことは正義とは正反対のものです。 

公益の概念は、現実の地域社会生活を承認しています。そして、個々を越えて関係や取り合わせを考慮して道徳を仮定します。公益についての主張は道徳上の相対主義や極端な個人主義によって文化の中で際立った緊張を必ずしも作り出すことはないでしょう。病人を殺すことは、ある人にとってはよい役目を果たすかもしれませんが、公の秩序として、どのように公益の役目をするのか説明される必要があります。特に、現在の法律が規定において、望まれていないと分かっているような社会的弱者をどのようにして防御するのか、説明される必要があります。しかしながら、慈善心に富む個々の改善はそのようなものかもしれません。道徳や公益を無視することによって良い法律が作られるはずがありません。 

安楽死と法律

犯罪と見なされないという理由で、自殺を試みるということが現在合法的に許されているという提案は間違っています。自殺を目論む人のほとんどは精神上の疾患を抱えていることが知られているために、それは犯罪だとみなされませんでした。この確率は、それが誤りであることを証明される現在まで、仮定しなければなりません。そのような人々は医療治療を必要としていて、法律の激しい非難を必要としていません。これに引き換え、自殺を手伝いたいと望む人は精神的に正常な人と仮定できます。だから自殺を手伝うことは引き続き犯罪であり続けます。 

良い法律は、良い薬のように、良い道徳に基づいているべきです。この意味で刑法は道徳律のようなものであるべきです。安楽死は現在の法律の外部で既に実行されています。したがって、私たちの現在の慣習と法律を一致させる必要があると言われています。刑法のすべての部分は悪用されていますが、悪用に適応するために法律を変える事は決して充分な理由にはなりません。法律を破壊するものや、法の永久性を適応するのは法律の効用でしょうか。 

私達は法律外における医者の実践についてほとんど詳しく述べていません。しかし、私達が知っていることは道徳か必要なものかどちらか一方ということではありません。医者にとって、痛みを取り除くために患者を殺すことは必要ではありません。しかし、一時的に和らげる治療において支援したり忠告したりすることは時々必要とされるでしょう。医者は患者のもとでどのように患者を治療するかということを知るように法律によって義務付けられています。もし知らなければ、彼らは調べたり、支援を得る努力が義務付けられます。苦痛は医療だけの問題ではありません。それらはたくさんの社会的な原因があります。いくつかのものは、医者によっても誰によっても治療することができません。孤立した、望まれていない、愛されていない、無視されている、さもなければ足手まといの人達のいのちを奪うために医者が力を貸すことは疑いもなく望まれていないでしょう。しかし、どうやってそのような人たちが合法化された安楽死という法律の乱用から守られることを保証出来るでしょうか。 

一般に、現在の法律は、医者が慈悲深く、人道的な医学を実行する事を可能にしないと言われています。彼らが試みれば、告発の危険をおかすことになるかもしれません。私の見方では、実はその声明は事実から見ても、見解においても間違っています。現在の医療法律の原則は、生命の終わりに近づくと意思決定を導くことは適切なことです。そして、安楽死を望む人は死にゆく患者、すなわち、末期患者の看護と集中治療専門の中にはめったにいないということは重要なことです。 

医学法律はケ-スの状況に応じて解釈することが必要です。例えば、生死に関わる病気の初期は、医者はもし患者が望めば全ての手段と治療を実行しなければなりません。しかし、生命が最後の段階になった時、医者の法的に認められた義務としては、効果のない治療はもはや必要ではなく、安らぎの提供という願いをかなえてあげることが必要になります。このように、もし、もう成功の機会がほとんどない治療を提供することは医学的に適切でないなら、それは間違っていて、ひょっとしたら、それをやめないということで過失になるでしょう。もし患者が救済されない激しい痛みがあるなら、それは間違っていて、苦痛を取り除かないという過失になるでしょう。苦痛を取り除く不十分な痕跡はたくさんあり、それが安楽死の主な理由として挙げられていて、無知や無能を覆い隠すために殺人をしていると仮定されるかもしれません。激しい痛みが存在することは、殺人を認めるための法律の改善が必要なのではなく、医学教育といくつかの実践的側面の差し迫った改善が必要とされます。 

普通は医者が安楽死を遂行すると考えます。さらに進んで、いく人かの医者と看護婦は彼らの道義的な義務に違反してそうすると言います。それどころか、もし、この役割のための候補リストを理性的によく考えられているなら、医者と看護婦は第一番目に除外されるだろうと私は信じています。彼らの実践の規約は、安楽死を実行するべきではないと例外なく言明しています。彼らは癒したり、殺したりする役割の間での葛藤に非常な困難を感じているのです。ほとんどの医者と看護婦はいまわしい忠告を見つけます。彼らの専門的職業は多分そのような役割の承認によって損なわれていない緊張度は存続できないでしょう。彼らは手近に最も手際のいい手段を持っていることは否定できないし、そしてまた、誰もその仕事はしたくないという理由で彼らが選ばれているのでしょう。南オ-ストラリアにおける幾人かの医者の振る舞いを考えて、後にのべられたことで、医者に殺人をゆだねることはとても危険になり得ます。 

賛同を得ることはめったにありませんが、殺して楽にする事によって死に行く人の不幸を緩和することは医者の仕事の一部であるという主張は一般的です。実際、社会がその医者に伝統的に与えた唯一の役割は、病気の防止、診断、治る可能性がある時に治療によって治癒し、治る可能性がない時は関連した調査を教え案内するというよいケアをすることです。医者が他の役割を引受けると必ず専門的知識の領域外で歩みます。彼らは殺すことの訓練を受けることはありません。 

社会は犠牲者がない行為をコント-ルすることを試みるべきではないと、ときどき言われています。自発的安楽死には、犠牲者はいないと思わないかもしれません。それは患者の生命は価値がないと考えられていたという根拠で、患者を殺した結果として、医者自身が受ける著しい影響を度外視しています。 

幾人かの患者は、先天的に価値がないかもしれないと医者は考えて処理します。彼らはそれゆえに、患者を殺すことを正当化しているのかもしれません。彼らは、医療の実践において彼らの中の本質的な気質をひどく低下させています。すなわち、基本的な人間の尊厳という彼らの財産である美徳において、すべての患者への義務を果たすことに前向きであるという気質です。もし、医者が幾人かの患者達はもはや価値のある人生はないと判断して、医者が患者を殺すならば、それと同じ理由で他の患者も殺すでしょう。現在患者になりそうなすべての人のために、全ての患者の基本的な尊厳に医者が敬意を表す医療実践のための法的な骨組みを維持するため、社会は基本的な関心を持っています。 

重要な医療の要因は、安楽死の討論においてめったに述べられることはありません。精神医学は死のうとすることと、精神疾患との密な関連性について、たくさんの事項を含んでいます。絶望的な人々は、他の病気の患者よりもこの発生率が高いです。以下に述べることは精神病理学において明らかにされたいくつかの要因です。絶望的な病気の間に死を望んだ大多数の患者は治療可能な精神病に苦しんでいます。最も多いのがうつ状態です。もし、うつ病や自殺について広範囲に経験がなければ、これは普通の医者によって下された診断ではありません。そしてこの診断は医療下でいてさえもしばしば間違いがあります。これらの要因はある方向へ導きます。精神科医は次のように言っています。 

もし、自殺幇助の支持者が広く行き渡れば、ねたきりや高齢者の精神的な病気のケアを好転するための努力を試みないという考えになるでしょう。代わりに、病気や憂うつの不安を悪用したり、不当に使う権利を使用許可するようになるでしょう。年齢と憂うつからくる病気の問題の優先的な解答は死であるという憂うつな自滅的な見方を私達は受け入れるでしょう。

現在の抑圧の可能性があるという問題は、解答が考え出されていないことです。もし、秘密が求められれば、抑圧は実質的には検知できないだろうし、それゆえに、予防不可能なものでしょう。さらに、抑圧は選択の自由を否定します。この問題が起こるかどうかという意見としてそのままにするべきではありません。オ-ストラリアの人権委員ブライアンバ-ドキン氏の視点によると、彼の経験から社会的弱者である病人たちは、すでに「最も組織的に悪用され、最も抑圧されている」ということです。 

苦痛を和らげることは、安楽死の正当化するために提案されていますが、苦痛の原因を解決するための努力は何もされていないので、他の人は同様にひどく悩まされていないのかもしれません。その意味では、本当に必要なことはその問題の原因への注目である場合、その提案は消極的です。どの医療も社会問題にとっても、犠牲者を殺すことは解答の一部かもしれないという真面目な提案はありません。 

自発的な安楽死を含むことができますか

もし、苦痛を被っている人達の要求による死が現場で正当化されているならば、彼らにとって恩恵があるでしょう。ひとたび、安楽死が苦痛を取り除くための「恩恵」として、みなされるならば、どんな理由であれ、尋ねることはできませんが、似たような苦痛の度合いにある他の人からの恩恵をひかえることは必然的に不可能になるでしょう。それは差別です。自発的な安楽死の延長で最も危険な未来は、自発的ではない安楽死への前進でしょう。大多数の人にとって、そのような極端でおこりそうもない見込みは、激しい誇張としてしばしば扱われ、真面目に取り合ってもらえません。「医者が無差別に殺すかもしれない残忍な人になるだろうという提案は非常識です」と言われています。 

しかし、これは極端な忠告ではありません。安楽死の支持者の幾人かさえも、そうだと分かります。もし、本物の恩恵が伴えば、頼めなかったから同様の必要性のある他の人から、それを控えることは不当になります。まさにその考えは、職員の調査によって明らかにされたように、医者によって非自発的にたびたび殺されていることを正当化するためにオランダで現在使われているのです。それはあまりにも広範囲に及んでいるので、いく人かのオランダ人は彼ら自身もそれをコントロ-ルすることが出来ないと考えています。余計なものを削除するために仕事を試みることよりも、オランダ人はそれを合理的に考え始めています。1993年の記事で、エラスムス大学・環境衛生部門の著名なスポ-クスマンからのこの引用を考えて下さい。 

「ひとたび人が安楽死を受け入れて自殺を補助し、普遍化の原理をはっきりとした要望がないまま人が生命の終了を受け入れることを強要することは、真実ではありません。私達の意見としては、この質問に対する答えは肯定的な表現でなければなりません。」 

南オ-ストラリアで医者と看護婦に対して調査を実施したものが、1994年に出版されました。そして、患者の承認や要望なしで医者が安楽死を認めるのは半分のケ-スだということが発見されました。幾人かの回等者は、要望されていなくてもいずれにせよ、精神的な能力を欠いていたり、肉体的に障害があったりするような生命の質が貧しい者は、積極的に安楽死するための理由にすべきだと考えていることを明らかにしました。安楽死に対してあらかじめ特別な見解がない回答者の一人が、これらの調査結果に心を動かされて、安楽死を促進するための人権の議論は、実際、悪用されているという彼女の心配を人前で表現しています。彼女は結論を下しました。「積極的な安楽死の合法化は、それが自主的であれ、非自主的であれ、より多くの悪用の可能性を拡大する危険があります。合法化は、人間生命の価値基盤を弱体化させ、私達の安全性の感覚を徐々に破壊すると考えます。国家が人々を守り続けるということを私達は確信する必要があります。」 

誰かの見積もりで、生きる価値として満足な質を失ったからといって生命が奪われることは、要望することがなかった他人と同じ尺度があてはまるでしょう。理性的に矛盾しないために、人は残忍な人になる必要はありません。 

宗教的なものや感情的な先入観を基盤として、安楽死に異議申し立てをする主張は詐欺的です。これは本当の立場とは正反対です。私が知っている主題の客観的分析の全ては弁護士であろうが、議員であろうが、医者であろうが、哲学者であろうが、安楽死が道徳的だと信じて実施する人だろうが、安楽死の合法化は思慮が足りなく、公の秩序としても危険であると結論を下しています。なぜなら、悪用は避けられないからです。 

世論調査

世論調査によって示されているように、一般の国民は安楽死に何を要求していますか?そのような世論調査は政治上の道具であり、道徳的な問題に対する決意はかなりあやしいものです。最近のモルガン世論調査でこの質問に肯定的な返答を回答したという78%の回答者はどうだったでしょうか。もし、完全に回復の見込みのないひどい痛みの中で絶望している病人がもう再び目覚めないように致死の薬を依頼したら、医者は致死の薬を処方する許可を出すべきですか、出すべきではないですか。 

苦痛を和らげるための現在の苦痛緩和剤ケアの能力を心に抱くことは、この質問を言い換えれば、「もし、末期患者の痛みをそのままにしておくほど医者が怠慢ならば、殺人を依頼するくらいに充分な激しさならば、医者に助けを探し求める代わりに、患者を殺すように彼の怠慢に折り合いをつけることをすべきでしょうか。78%の回答者がこの考えを承知するということは疑われなければならないけれども、モルガン体制が、苦痛緩和剤の現実に気を配るという質問を修正することを尋ねられた時、拒絶しました。 

安楽死に関する世論調査を調べた時、複雑性が増大します。安楽死は地域社会によってよく理解されていますか?救済されないという理由で、末期患者の痛みはやわらげられることが出来ないと何人の人が考えていますか?安楽死に関する安全な法律はこれまでどこでも考案されていないということを知っていますか?医療殺人の一般的な方法を導いているオランダの法律の極端な堕落を何人が知っていますか?痛みをコントロ-ルするために医者に頼ることが出来ないなら、どうやって殺人をコントロ-ルするために彼らは頼るのかというジレンマを通して何人の人が考えたでしょうか? 

いくつかの経済的な配慮

地域社会にとって、特にそれらが急に抑えきれずに上昇しているような時は、健康の費用を優先順位におくことは適切なことです。これをする中で、3つの原則の重要性が同意されています。それは、資源は限られていること、治療法のいくつかの形の配給は避けられないこと、そして、公正はどのような解決においても先天的なものでなければならないことです。 

死にかけている人のような弱者は、彼らを認めることを確実にするために正義が最優先の原則の上に、強い信頼によって保護される必要があるでしょう。「一人一人の人間は同等の価値があり、社会の善を平等に分かち合う機会を持つということを私達が社会の中で捜し求めること」として、正義は定義づけられることができます。正義とは、底部から始める、最小の利益に恵まれたものに優先順位が与えられ、上向きに働きかけるという原則に基づいた体系を必要とするように思われます。しかし、それは簡単なことではありません。原則に基づいた体系の発表の試みは、健康ドルのためにその戦いで勝つことが習慣になっているたくさんの強力な団体と対立するでしょう。 

経済上の条件において、死にかけている患者は、首尾一貫して負の価値を持っています。彼らの治療のために、大量の額がかかることは一般的なことです。健康経済学者の大好きな統計上では、ここ75年間の健康にかかる費用の半分は、2年以内に死ぬであろう13%の人達の経費です。安楽死のほとんどの支持者が次のように言う程鈍感ではありません。安楽死の少ない支持者は、あからさまに以下のことを言うくらいに鈍感です。「死んでいく患者の費用はあまりにもかかり過ぎます。彼らを殺しましょう。」もし、安楽死がここ数年で合法化されたなら、苦痛の問題解決として殺人が適切なものだという考えにたくさんの人が心地よくなり、誰がそれを続行する証人となることができるでしょう。ある著者は書いています。「合法化は死にゆく過程を人間らしくするための努力を真剣に蝕むでしょう。そして、その強制力を作るでしょう。死ぬことを人間らしくするための必要なきつい仕事は、国家レベルや家族レベルにおいてだんだんと価値が少なくなるでしょう。ひどく身体の不自由な人や、昏睡状態の人や、精神的な疾患のある人たちにとって、自発的な安楽死の延長は、道理にかなった現象だと思われるし、実際にそうでしょう。私が信じているメッセ-ジに次のようなものがあります。「患者を殺すこともできるし、殺さないことも出来ます。有限なものを殺すことはできません。」 

安楽死は最新の家族計画の形として、生命を脅すものとして、今は両方が終わるものとしてよく表現されています。両方とも本質的に不道徳なものですが、それを言うことはモラルの感覚を鈍磨させる影響があります。そのような人と安楽死について議論する時は、彼らの訴えの要因を当てにする理由を与える必要があります。そうすることで、寛容な心で彼らは理解され、議論することができます。宗教的な教義に基づくという理由のみで個人を限らないことは、特にこのステ-ジでは重要です。なぜなら、信念を分かち合わない人にとって、あまりにも簡単に彼ら自身のいい訳をする良い理由を与えるからです。 

Dr. Brian Pollard
ポウラ-ド・ブライアン
英語原文 www.lifeissues.net
Copyright © 2000.
2004.1.5.許可を得て複製