昭和51年1月31日、鹿児島市立病院で男児2人、女児3人の日本初の五つ子が誕生した。五つ子はNHK政治部記者・山下頼充(33)さんと妻の紀子(27)さんに授かった子どもたちで、5卵生の赤ちゃんであった。
山下さん夫婦は同じ鹿児島出身で、4年前に鹿児島で結婚式を挙げ、東京渋谷区笹塚に住んでいた。そして紀子さんは初めての出産に備え、妊娠8ヵ月で実家のある鹿児島へ帰った。帰郷した翌日、紀子さんは鹿児島市立病院・産婦人科を受診した。診察した産婦人科部長・外西寿彦は予定日まで2ヶ月以上あるのに異様に大きなお腹を診て双胎を疑った。そして超音波検査で5胎を確認し驚いた。中西寿彦部長はすぐに医師、看護婦、助産婦による「五つ子プロジェクトチーム」を結成し、日本初の五つ子誕生に備えるとともに厳重な箝口令を敷いた。
中西寿彦は心音などから5つ子と事前にわかっていたが、両親を気遣い3つ子以上と伝えた。五つ子の確率は約4000万回の出産に1例で、日本には五つ子出産の記録はあるが、無事に成長した例はなかった。
当時、鹿児島県の周産期死亡率は全国第1位であった。また鹿児島市立病院は未熟児網膜症の損害賠償の問題をかかえていた。この不名誉な記録から脱却しようと「五つ子プロジェクトチーム」は必死の思いで紀子さんを迎えた。中西寿彦はこれまで多産児が育たなかったのは早産が原因と考え、早産防止のためにすぐ入院してもらった。父親の山下頼充は中西寿彦部長の説明に、「全員は無理でも、母体第1主義でお願いします」と消え入りそうな声でいった。
出産予定日は2月19日であったが、予定日より 20日早い1月31日の朝から陣痛が始まった。お産は自然分娩で、心配した割にはあっけないほど楽な出産であった。9分間に5人が次々に生まれた。胎盤は2つで5卵性の五つ子であった。2人は仮死状態であったがすぐに息を吹き返した。分娩室を出た中西部長は山下紀子さんの両親に片手を突き上げ5本の指をひらいてみせた。それは5人の初孫を意味していたが、両親は安堵と驚きからへたりこんでしまった。
2月1日、朝7時のNHKニュースで五つ子誕生が報道された。この報道に最も驚いたのは鹿児島市立病院の院長、事務局長、総婦長であった。産婦人科中西部長は出産への支障を配慮し五つ子妊娠を産婦人科だけの極秘事項としていた。そのため院長・上高原勝美らは五つ子誕生をテレビで初めて知り、病院をあげて万全の体制をとるように各部所に指示をだした。
市立病院には報道陣が大挙して押しかけた。五つ子の父親となった山下頼充さんは記者会見で、「いやーびっくりしました、必死に生きようとする姿に生命のまか不思議を感じました」と述べ、緊張と喜びの中で1度に5人の父親になった戸惑いをみせていた。妻の紀子さんは「ちょっとがんばりすぎちゃった」と恥じらいと喜びのまじった言葉を述べ、このあっけらかんとした明るさが、緊張した周囲の空気を和ませた。
未熟児の五つ子を育てるため池ノ上克(後の宮崎医科大学教授)が主治医、蔵屋一枝、住吉稔が担当医となった。赤ちゃんは元気だったが体重は990から1800グラムで普通児の半分程度だった。3人の医師は長椅子に交代で寝ながら五つ子を監視し治療に当たった。2月2日、埼玉県の医療器具会社から保育器と未熟児用の点滴セットをのせたトラックがパトカーに先導され羽田に向かった。市立病院には保育器が3台しかなく五つ子は保育器に同居させられていた。五つ子のために警察も協力を惜しまなかった。生後6日目に次女が壊死性腸炎を起こして危険な状態になった。点滴を続けながら授乳を中止し、胃の中のものを外に出し、抗生物質を投与し2週間後に快復した。
五つ子の誕生に日本中は大騒ぎとなった。全国から祝福の声が嵐のようによせられ「山下さんちの五つ子ちゃん」は国民的話題となった。新聞には連日五つ子の体重が掲載され、その体重の増減に一喜一憂した。ひとりの子どもを育てるのでさえ大変なのに、どうやって5人を育てるのか、このような余計な心配が週刊誌をにぎわした。
子どもたちの名前は京都・清水寺の貫主・大西良慶(100歳)がつけることになった。山下さんが京都勤務のときに大西貫主と交流があったからである。大西貫主は5人の子どもは仏のさずかりものとして、子どもの名前を観音経の中の「福聚は感無量(聚に代えて寿、海に代えて洋)」から1字ずつとって長男福太郎、長女寿子、次男洋平、次女妙子、三女智子と名づけた。
5月12日、五つ子は鹿児島市立病院を退院、飛行機で羽田に着くと日大板橋病院に入院し、9月27日に退院となった。山下さん夫婦は2間の社宅に住んでいたが、4LDKの家に引っ越し、夫婦、夫婦の母親、3人のベビーシッターが育児にあたった。
今回の五つ子誕生は排卵誘発剤によるものだった。山下さん夫婦は結婚4年目で、そろそろ孫の顔を見たいという義母の言葉に、紀子さんは不妊症の治療とし排卵誘発剤・性腺刺激ゴナドトロピンの注射を受けることにした。不妊症は約10%のカップルにみられ、子どもを欲しがる夫婦にとって深刻な問題であった。しかし昭和50年に不妊治療が保険で認められ、生殖医療の進歩により多くの夫婦が子どもに恵まれた。誤解を受けやすいが、排卵誘発剤を使用しての多胎はまれであり、排卵誘発剤を使用してもほとんどは単胎か双胎である。紀子さんは軽い気持ちで不妊症の治療を受けたのだった。
山下家はマスコミの大攻勢を受けた。取材の自主規制がしかれたが、山下家の五つ子は日本中が注目していた。マスコミはその成長を声援するようなふりをしながら取材した。そのため子どもたちがそろって外に出ることはできず、家族そろっての遊園地、動物園、旅行などには行けなかった。経済的にも苦しかったが、粉ミルクメーカーなどの広告依頼をすべて断った。
いっぽう排卵誘発剤の使用の是非について議論が展開された。母体に対する影響、生まれてくる子どもへの影響、さらには多胎児の減数術(間引き)の是非などが議論された。しかしこれらの議論は、山下両親の笑顔、可愛い赤ちゃんの様子に声援を送る国民にとっては、話題のための議論にすぎなかった。
多胎児について、世界ではオーストラリアの九つ子をトップに、メキシコで八つ子、スウェーデン、ベルギー、アメリカの七つ子が知られている。日本では宝永2年に六つ子を出産したという記録が「元禄宝永珍話」に書かれている。この六つ子出産では2人の赤ちゃんは生きたものの、 4人の赤ちゃんは母親とともに死亡している。明治34年、福島県伊達郡栗の村で5つ子が生まれるが、生後数ヶ月で全員死亡。その後、大正4年に愛知県で五つ子が、大正12年に北海道で六つ子が、昭和17年と昭和49年に五つ子の記録があるが全員死亡している。また昭和51年9月に神戸大学医学部付属病院で六つ子が生まれたが、1人が死産、出生後4人が死亡、無事は1人だけだった。さらに同年10月東大付属病院で四つ子が生まれたが全員死亡している。
昭和55年、鹿児島市立病院で排卵誘発剤による治療を受けた鹿児島県徳之島の上木恵造・桂子夫婦に日本で2組目の五つ子が誕生した。以後、東京、静岡など各地で五つ子が誕生して、平成4年の時点で日本の五つ子は25組以上とされている。
昭和57年、「山下さんちの五つ子ちゃん」はそろいの制服で小学校に入学した。NHKスペシャル「一年生になりました、五つ子6年間の記録より」は多くの国民に感動をよんだ。あの愛くるしい笑顔から30年が経とうとしている、早いものであの赤ちゃんたちはすでに立派な社会人になっている。まさに光陰矢のごとしである。
Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木 厚(内科医師)
Copyright ©2010年3月21日掲載
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